
書籍名
共存在の教育学 愛を黙示するハイデガー
判型など
520ページ、A5判
言語
日本語
発行年月日
2017年6月30日
ISBN コード
978-4-13-051336-4
出版社
東京大学出版会
出版社URL
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本書の目的は、ハイデガーの存在論と彼に深くかかわる人びとの思想を取りあげながら、教育という営みの倫理的な基礎を描くことである。教育という営みを、自然科学的・社会科学的に記述することも重要であるが、ここでは、倫理的な記述をめざす。ここで記述される「倫理的」なものは、物質・現実、意味・価値を超えて、人を惹きつけ衝き動かす力である。
教育という営みを支えるこの倫理的な力は、無条件の愛である。それは、奇異に思われるだろうが、ハイデガーの存在論の主題である。それはまた、ハイデガーの存在論に論及するバディウ、マルセル、ティリッヒ、デリダ、ナンシー、マリオンが語る愛であり、またハイデガーとかかわりなく、デューイが語る愛である。私のなかでは、彼らの愛の思想は、いわゆる「信仰」と離接的である (原) キリスト教的存在論の核心である。
私はここで、ハイデガーの存在論を、あえてキリスト教思想に引きつけて、読み解く。ハイデガーは、形而上学を「退ける」だけでなく、キリスト教神学を「後退させ」つつ、存在論を展開しているが、私は、その議論をパウロ、ルター、アウグスティヌスの思想に引きもどす。とりわけ、彼らの語るアガペーつまり無条件の愛を、ハイデガーのいう「存在」すなわち「共存在」の原型として、すなわち「私」が「あなた」を支え担い続け、真の自由に誘うことによってのみ主体であるという生存様態として、語り示そうとする。
しかし、ハイデガーの存在論をパウロ、ルター、アウグスティヌスのもとに引き戻すことは、ハイデガーの存在論をキリスト教神学に「回帰させる」ことではない。その引き戻しは、ハイデガーの存在論に文脈を供与することである。またそれは、神 (イエス) と人のかかわりを念頭に置きつつ、人と人のかかわりの根底に、共鳴共振 (交感 sympathia) を見いだすことである。そうすることは、いいかえれば、「良心の呼び声」を念頭に置きつつ、アガペーという無条件の愛に、響きあいのような、「私」と「あなた」の呼応関係を見いだすことである。
このような試みのなかで、ハイデガーの共存在は、教育の基礎として把握される。すなわち、人がみずから学ぶという固有な営みの基礎であり、人が人を教え、学びに誘うという固有な営みの基礎である、と。いいかえれば、学ぶ・教えるという営みの根底には、アガペーの愛、呼応関係として現れる共鳴共振がある、と。しかし、アガペーの愛、呼応関係、共鳴共振として形容される共存在は、教育の理想・目的ではない。共存在は、教育の存立要件であるが、暗示ないし黙示されるものでしかない。
私にとっては、教育は、人の自己創出 (Autopoiesis) を支援する営みであり、この営みを記述する教育学は、本来的に <よりよく生きようとする> 思考に裏打ちされている。この教育学思考は、真に自由であるために、いかなる権威も頂かない。
(紹介文執筆者: 教育学研究科・教育学部 教授 田中 智志 / 2018)
本の目次
第1章 存在に向かう思考――ハイデガーの「学び」
第2章 共鳴共振する存在――ハイデガー / ティリッヒの「つながり」
第3章 アガペーと共存在――パウロ / バディウの「弱さの力」
第4章 愛と共現前――マルセルの「コミュニオン」
第5章 教育の再構成へ――デューイの「協同性」
第6章 愛と信――ハイデガー / ナンシーの「共存在」
第7章 共存在の主体――ハイデガー / デリダの「生き残り」
第8章 共同性の基層――ハイデガーの「響き」
終章 教育の呼応存在論――愛を黙示するハイデガー