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薄いブルーグレーの表紙に海外の町並みの写真

書籍名

何が教育思想と呼ばれるのか 共存在と超越性

著者名

田中 智志

判型など

212ページ、A5判、並製

言語

日本語

発行年月日

2017年7月20日

ISBN コード

978-4-86359-127-1

出版社

一藝社

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何が教育思想と呼ばれるのか

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いわゆる「知覚」は、私たちの身体が外から何かを受け容れることです。その受け容れたものは、大脳で意識されます。たとえば「赤い」「暑い」「痛い」など。こうした意識内容は、一般に、身体が受け容れたものと同じもの、と見なされています。しかし、実際に私たちが意識する内容と身体が受容したことは、かならずしも一致しないのです。私たちの意識は、身体の受容したことを、かなり縮小し選別して象っています。私は、意識を超えて身体が何かを受け容れることを「感受」と呼び、人はつねにすでに「感受性の広がり」のなかで生きている、と考えています。このような感受性の広がりは、はっきりと意味づけられませんし、したがって価値づけられませんが、私たちの生の大前提です。「生き生きと生きる」ことは、通常、喜びと結びつけられていますが、つきつめていえば、この感受性の広がりによって可能になる状態です。したがって、私たちのさまざまな活動や概念は重層的である、と考えられます。すなわち、意味・価値として語られる実体論的位相とそうではない位相が、重なっている、と。前者の実体的位相が、ふつうに意識されているものごとの位相で、後者の語りがたい位相が、意識を超えるものごとの位相です。私は、この位相を「存在論的」と形容します。 たとえば、個人が意図して担う「責任」は、実体論的位相にありますが、「応答可能性」は、個人の意図を超えた存在論的位相にあります。また、個人が意図して抱く「願い」は、実体論的位相にありますが、「祈り」は、個人の意図を超えた存在論的位相にあります。私たちの生きている社会は、おもに実体論的位相において営まれていますが、根底的に存在論的位相に支えられています。にもかかわらず、往々にして、この存在論的位相は、軽視、看過されてしまいます。それは、つまるところ、生き生きと生きることを軽視し看過することです。私たちの多くは、学校教育によって、人を「個人」や「能力」に切り詰めることで、ますます存在論的位相から遠ざかっています。そのため、口では「人と人をつなぐ愛は大切です」と言いながらも、内心ではそんなものは絵空事にすぎないと諦め軽侮しています。そのため、コミュニケーションのたびに孤立、疑念、諦念は深まります。しかし、私たちはすでに、他者、生きもの、自然を感受する感受性の広がりのなかで生きていますし、したがって生き生きと生きる力を秘めています。そうした、ともに生きるベクトルが、いのちの本態です。そして、この共存在のベクトルのなかでこそ、私たち一人ひとりにとって、もっとも大切な、密やかなるテロスが見つかるだろうし、「よりよく生きようとする」力の行先、超越性を想像できるようになるでしょう。
 

(紹介文執筆者: 教育学研究科・教育学部 教授 田中 智志 / 2017)

本の目次

序論 現代の教育思想はどこへ
第1章 教育に思想は要るのか
第2章 問題と問いの違い
第3章 責任と応答可能性の違い
第4章 感情と感受性の違い
第5章 ものとことの違い
第6章 空想と想像の違い
第7章 何が「主体化」と呼ばれるのか
第8章 何が「力」と呼ばれるのか
第9章 何が「愛」と呼ばれるのか
第10章 何が「希望」と呼ばれるのか
第11章 何が「いのち」と呼ばれるのか
第12章 教育を支え援ける思想
結論 共存在と超越性の教育思想
 

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