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朱色とオレンジの模様

書籍名

公民館をどう実践してゆくのか 小さな社会をたくさんつくる・2

著者名

牧野 篤

判型など

288ページ、四六判

言語

日本語

発行年月日

2019年7月19日

ISBN コード

978-4-13-051348-7

出版社

東京大学出版会

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公民館をどう実践してゆくのか

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社会が専門分化され、それが制度化され、実践化されることで、その制度の間 (はざま) や実践の間 (はざま) に落ち込んだ人々の姿が見えなくなり、それが社会を不安定にさせている。本書の背景には、社会の現状に対するこのような認識がある。
 
たとえば、子どもの貧困問題が取り沙汰され、各地に子ども食堂がつくられ、一説には全国に5,000か所近くもあるといわれる。しかし、こういう対応がなされればなされるほど細っていくのは、近隣住民による子どもたちへのまなざしと配慮である。それが結果的に、子どもたちを含めた家庭を孤立させ、行政的な手当を必要する事態を招いてしまう。ところが、それがまた近隣の関係を切断してしまう。よかれと思って対応すればするほど、事態は悪化してしまう。こういう構造が存在している。
 
本来であれば、社会的弱者に対しては、地域住民による幾重もの配慮と手当てがなされ、他人事を自分事とする住民が、彼らをネットワークにつなぎ止めておくようなかかわりがあった。しかし、このようなかかわりが切断されてしまい、子どもたちや弱い人々が、制度や専門性の間 (はざま) に落ち込んでしまったが最後、社会の表面から見えなくなってしまう。社会の底が抜け始めているのである。
 
この間 (はざま) に落ち込んでしまう人々をすくい上げるためにも、社会には多重なかかわりの〈ちいさな社会〉が必要なように思われる。
 
〈ちいさな社会〉では、社会教育は、人々のつながりづくりを行う、より包括的で総合的な〈学び〉の取り組みとなる。そのとき、〈学び〉とは、人々自らがそのコミュニティに生きる住民として、他者とは切り分けられない当事者であり、自らの生活を他者とともにつくり、思いを実現する、そういう楽しさを基本とした、自分と他者をつくりだし、変化し続けるプロセスとしてとらえられることになる。
 
そういうものとして社会教育をとらえたとき、公民館は、人々相互の承認関係とそこから生まれる自己肯定感、それを基盤に生み出される地域社会の変化と住民の驚き、楽しさ、そういうものが生まれ出るプロセスである 〈学び〉の〈場〉であることとなる。
 
それは行政への依存とはまったく異質な、住民自身が自己の思いの実現を、互いの関係の中で推し進め続ける、駆動力の発現である。教育という事業は、それを促すものとしてある。だからこそ、教育が基礎となり、住民の〈学び〉がコミュニティの基盤とならないと、各省庁のまちづくりを基本とした地方創生事業は成功しない。
 
公民館は、このような危機の時代にあって、再度構想され、発明されるべき時に立ち至っているように見える。本書が行ったのは、各地の公民館において行われている住民の自治的な営みから、これからの公民館の可能性を検討する試みである。これが、本書が過去の実践を扱いながら、「どう実践していくのか」と未来志向のタイトルになっていることの理由である。
 
 

(紹介文執筆者: 教育学研究科・教育学部 教授 牧野 篤 / 2021)

本の目次

序 章 <ちいさな社会> をたくさんつくる — 公民館を再考するために
第1章 住民がアクターとなる <学び> の場 — 自治の触媒としての公民館二編
第2章 当事者による地域経営の <場> — 古い公民館の新しい可能性
第3章 静かなダイナミズムが「まち」を支える — 住民自治の開かれた自立性
第4章 公民館「的なもの」の可能性 — 自治と分権を発明し続けるために
第5章 公民館を地域づくりの舞台に — 対談 小田切徳美×牧野篤
結 び <学び> の生成論的転回へ — 公民館=自由への活動の相互承認プロセスの <場>
あとがき 希望の薄明かりが差し込む社会へ

 

関連情報

書評:
松本大 (弘前大学) 評 (『社会教育学研究』56巻 2020年)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssace/56/0/56_114/_article/-char/ja/

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