学生であった頃、人文系の学問における最良の入門書とは、平易に書かれた解説書や概説書などではなく、その学問の古典である、と教えられたが、それから多くの40年以上の月日が流れた現在、私はその考えに全く同感する。美学にとって古典といえば、まずもってカント (1724–1804年) の『判断力批判』(1790年) (とりわけその第一部「美的判断力批判」) を挙げるべきであろう。おそらく多くの専門家がそのことに同意するはずである。ところが、難解をもって知られるこの書物を読もうとして挫折した人も多いと思われる。仮に読み通せても、一体何が書いてあるのかわからず仕舞い、ということになりかねない (実は、私の場合もそうであった)。
本書において私は、『判断力批判』の詳細な読解と解釈をとおして、美学それ自体へと読者を誘うことを企てた。こうした試みは、これまで西欧語においても日本語においてもなされたことはない。
全体で10からなる章の構成は、『判断力批判』第一部の構成に正確に対応している。そして、各章はA、B、Cの三部分からなる。各章のAにおいて私は、カントの議論を誰もが辿りうるように可能な限り明快な形で呈示した。ただし、ここで呈示されるのはカントの論述の要約でもなければ、いわゆる定説でもない。そもそもカントの議論を再構成するには解釈が必要である。私は、一読しただけではわかりにくい『判断力批判』の論理展開を際立たせるように努めたので、是非『判断力批判』の原文 (ないし邦訳) と対照させつつ読んでいただきたい。各章のBは、その章のAにおいて扱った論点ないし概念に関して、時間を遡り、カントの議論の歴史的背景を明らかにし、各章のCは逆に時代を下り、20世紀後半、あるいは章によっては21世紀にいたるまで (ポスト・モダン系の理論を含めて) カントの議論がいかに継承され、あるいは展開してきたのか、この点に焦点を当てる。
各章のA、B、Cは複層的なネットワークを構成する。このような構成を有する概説書は (どの学問領域のものであっても) 今まで存在したことはないであろうが、私があえてこのような形式を採用したのは、古典が現代に生きるとはいかなることなのか、あるいは古典を現代に活かす実践とはいかなるものか、という人文系の学問にとっての根本的な問いに、美学というごく限られた領域に即してではあるが、具体的に書物の章構成をとおして答えたかったからである。各章のみならず、見出しの附された各項をも相対的に独立させることで、本書を拾い読みに耐えるものにしたので、異風の目次を参考に、是非関心の赴くままに美学の森を探索していただきたい。カバー図版はデュシャン (1887–1968年) の《自転車の車輪》であるが、これも本文と関連しており、決して奇を衒ったものではない。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 小田部 胤久 / 2021)
本の目次
本書の狙い――三重の構成
近代美学とカント
本書の構成について
『判断力批判』第一部の構成について
「美的」ならびに「適意」という訳語について
第I章 美の無関心性
A 美しいものの分析論――質に即して(第一―五節)
1 美的判断の一般的特質(第一節)
2 〈美の無関心性〉説について(第二節)
3 「美しいもの」と「快適なもの」「善いもの」との対比(第三節―五節)
B カント『判断力批判』前史
1 バウムガルテンによる「美学」の定義
2 『判断力批判』における「美学」の不在
3 『純粋理性批判』におけるÄsthetik
4 『実践理性批判』におけるÄsthetik
5 メンデルスゾーンによる刷新
C 実践的無関心と美的関与
1 仮象への関心(ハイデガー,シラー)
2 日常生活と無関心(ショーペンハウアー)
3 「視覚的無関心」あるいは「無感覚状態」(デュシャン)
第II章 趣味判断の普遍妥当性
A 美しいものの分析論――量に即して(第六―九節)
1 趣味の公共性(第六―七節)
2 客観性と普遍性との関係(第八節)
3 判定と快の感情の前後関係(第九節)
4 認識諸能力の活動の美的意識と快(第九節)
B 趣味の普遍性ならびに快の本性
1 自然主義的趣味論のアポリア(バーク)
2 「生きていることの感覚」と「快」(アリストテレス)
C 二〇世紀の趣味論
1 趣味の社会性(ブルデュー)
2 趣味と理想的共同体(ガーダマー)
第III章 目的なき合目的性
A 美しきものの分析論――関係に即して(第一〇―一七節)
1 趣味判断を支える「合目的性の形式」ないし「目的なき合目的性」について(第一〇―一ニ節)
2 魅力の排除と包摂(第一三―一四節)
3 完全性と美との区分(第一五節)
4 自由な美と附属する美(第一六節)
5 美の理想(第一七節)
B 美と合目的性
1 有用性からの美の解放(バーク)
2 目的と適合性の峻別(アダム・スミス)
C 目的なき合目的性のゆくえ
1 「なぜ」なき「とどまり」(ハイデガー)
2 美的意識の抽象性(ガーダマー,ダントー,ウォールトン)
第IV章 趣味判断の範例性
A 美しいものの分析――様相に即して(第一八―二二節)
1 共通感官による判断の実例としての趣味判断(第一八―二二節)
2 包摂の規則の不在(第三八節)
B 範型・実例・模範
1 paradeigmaとその二義性(プラトンおよびアリストテレス)
2 exemplarとexemplum(ラテン中世から近世まで)
3 範型の平準化(バウムガルテンおよびマイアー)
4 規則と模範の峻別(三批判書公刊前のカント)
C 範例性のゆくえ
1 事例的歩行器とパレルゴン(デリダ)
2 範例性の言語行為論的展開(ハーバーマース)
第V章 感性の制約と構想力の拡張
A 崇高なものの分析論(第二三―二九節)
1 「崇高なものの分析論」への導入(第二三―二四節)
2 数学的崇高について(第二五―二七節)
3 力学的崇高について(第二八―二九節)
B 言語の崇高さから自然の崇高さへ
1 想像力の快と偉大なもの(アディソン)
2 無限性への喜悦に満ちた恐怖(バーク)
C 崇高論のその後
1 認識規則に背く自然としての世界史(シラー)
2 最小なものから作動する崇高(リオタール)
第VI章 構想力と共通感官
A 美的判断の演繹論(第三〇―四〇節)
1 把捉と感性化の能力としての構想力(第三五節ならびに『純粋理性批判』「演繹論」)
2 共通感官(第四〇節)
B 共通感覚論の系譜
1 〈諸感覚に共通のもの〉〈諸感覚を跨ぐ感覚〉〈感覚の感覚〉(アリストテレス『魂について』)
2 〈他者の存在の感覚〉(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)
3 カントにおける共通感官の問題圏
C 二〇世紀の共通感覚論
1 実在性の感覚としての共通感覚(アーレント)
2 共通感官の発生(ドゥル-ズ)
第VII章 美しいものから道徳的なものへ
A 美しいものへの関心(第四一―四二節)
1 美しいものへの経験的関心(第四一節,第六〇節)
2 美しいものへの知性的関心(第四二節
B 社交人・未開人・隠遁者
1 イロクォイ人と〈高貴なる未開人〉
2 ロビンソン・クルーソーと〈隠遁者〉
C 自然の暗号文字
1 精神のオデュッセイアとしての自然(シェリング)
2 自然のロマン化(ノヴァーリス)
3 自然の観相学(ゲルノート・ベーメ)
第VIII章 「美しい技術」としての芸術
A 芸術論(その一)(第四三―四八節)
1 技術と芸術(第四三―四四節)
2 自然のように見える芸術――制作論的視点から(第四五節)
3 天才の技術としての芸術(第四六―四七節)
4 芸術と進歩(第四七―四八節)
B 芸術の誕生
1 技術とハビトゥス(アリストテレス,ダランベール)
2 自然のように見える技術・技術のように見える自然(伝ロンギノス,アディソン)
C 範例的独創性
1 最後のホメロス(シェリング)
2 歴史への呼びかけ(メルロ=ポンティ)
第IX章 「美的理念」と芸術ジャンル論
A 芸術論(そのニ)(第四九―五三節)
1 美的理念の表現としての美(第四九節)
2 芸術のジャンル(第五一―五三節)
B ライプニッツ的感性論の系譜
1 微小表象(ライプニッツ)
2 含蓄のある表象(バウムガルテン,マイアー)
3 魂の諸力の調和的活動(メンデルスゾーン)
C カント的芸術論のゆくえ
1 形式主義から唯名論へ(グリンバーグ,ド・デューヴ)
2 質料的なメタ美学(ドゥルーズ)
第X章 美しいものと超感性的なもの
A 美的判断力の弁証法(第五五―五九節)
1 二律背反の提示(第五六節)
2 二律背反の解消(第五七節)
3 自然の合目的性と美(第五七節,序論第五・九節)
4 道徳性の象徴としての美について(第五九節)
B 認識・感情・欲求
1 無関心性と快不快(バウムガルテン,マイアー)
2 認識と生命(バウムガルテン,マイアー,メンデルスゾーン)
C 美的なものと生
1 美的生と過剰(シラー)
2 芸術の美的体制における生と芸術(ランシエ-ル)
あとがき
用語解説
読書案内
関連情報
杉山卓史 評 (『日本18世紀学会年報』 2021年6月)
https://www.jsecs.jp/annual-bulletins
神田順 (東京大学名誉教授) 評「「美学」(小田部胤久著)を読んで」 (神田順note 2021年3月18日)
https://note.com/aotaannnote2020/n/nb678296ed807
星野太 評 (『週刊読書人』3377号 2021年2月12日号)
https://dokushojin.stores.jp/items/6020c480aaf04327c76dae58
中島水緒 評【シリーズ:BOOK】カント美学の理論からその継承までを概説。『美学』 (『美術手帖』vol. 72 (1085) 2020年12月)
https://bijutsutecho.com/magazine/series/s12/23249
山内志朗 (倫理学者・慶応大教授) 評「カントへの愛を語る」 (『読売新聞』 2020年12月20日)
https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20201219-OYT8T50168/
イベント:
小田部胤久 × 宮﨑裕助 カント『判断力批判』からみる美学史と現代思想 ──『美学』刊行記念 (ゲンロンカフェ 2020年11月27日)
https://genron-cafe.jp/event/20201127/
近代の謎としての「美的なもの」に迫る 小田部胤久×宮﨑裕助「カント『判断力批判』からみる美学史と現代思想」イベントレポート(関西弁) (ゲンロンα 2020年12月9日)
https://www.genron-alpha.com/article20201209_03/