岩波文庫 ドガ ダンス デッサン
本書は、フランスの詩人ヴァレリーが、ドガのデッサンについて、気ままに文を綴った本である。詩人と画家のあいだには、親子ほどの年の差があったが、馬が合ったらしく、ドガはよくヴァレリーを自宅に招いた。ヴァレリーは絵についてだけでなく、画家のアトリエや食事の様子、晩年の暮らしぶりについても報告している。原書は一九三七年刊、吉田健一や清水徹などの翻訳によって長年愛読されてきた。
ところが、原書には長年の謎があった。ドガのどのようなデッサンとともに、ヴァレリーが文章を記していたのか、長いあいだわからなかったからだ。初版のヴォラール版は豪華な美術書で、入手が困難だった。翌年刊行された、ドガの図版を含まないテクストに基づいて、この本はもっぱらヴァレリーの絵画論として読まれてきた。二〇一七年、オルセー美術館がこの幻の美術書をめぐる展覧会を開催したことで、状況が変わった。ドガの没後百周年を記念する展覧会をきっかけに、初版復刻版が出版されたのだ。
本を出版したアンブロワーズ・ヴォラールは、画商、そして作家でもあり、本作りに積極的に関与している。自己の所有していたドガのデッサンを、二十五枚の素朴な木版画と、二十六枚の色鮮やかな銅版画で複製し、二種類の複製画を組み合わせながら、言ってみれば立体的に画家の世界を再現しているのだ。ヴァレリーの文章だけを読んでいるだけではわからない、独特のリズムでドガのデッサンが現れるように工夫した出版者ヴォラールの創意が、初版復刻版によって浮き彫りになった。ヴォラールは、ドガと生涯にわたって付き合いがあり、『親友ドガ』という回想録を書き残しているほどである。ドガが亡くなったのは一九一七年、その二十年後に、美術商ヴォラールは亡き友人ドガに捧げる記念碑を制作したのだ。
ヴァレリーの文章には、この作家のどのテクストからも聞きとれる、独特の調子が響いている。これは紛れもないヴァレリーの作品であり、馬、写真、ダンス、デッサン、装飾、不定形なものなど、作家にとって重要なモチーフに関する考察が展開されている。そのひとつひとつにドガという、ヴァレリーによれば、芸術を「ある種の数学の問題」とみなしていた画家の姿が重ね合わされている。「ドガは芸術のうちに、普通にいう数学よりも精妙なある種の数学の問題、誰も明白にできず、そんな問題が存在すると見抜くことのできるひとさえほとんどいない問題しか見ていなかった。」 画家は絵を、芸術家の霊感の所産としてではなく、ある作業の連続、それも明確に規定できる操作の積み重ねとみなしていたというのだ。そして、それはヴァレリー自身にとって、理想とする詩の書き方でもあった。
しかし、ヴァレリーは、ドガをめぐる自らの思い出や考察だけで満足しているわけではない。ドガの親友だったマラルメ、唯一の弟子だったエルネスト・ルアール、さらに画家ベルト・モリゾなどの証言を積極的に取りいれている。『ドガ ダンス デッサン』は、ヴァレリー後期の代表作というだけでなく、出版者ヴォラールが友人に捧げたオマージュでもあり、そして何より、どの流派にも属さなかった、頑固一徹な画家を見守っていた多数の人々の声が行き交う、開かれた書物なのだ。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 塚本 昌則 / 2023)
本の目次
ドガ
ダンスについて
ヴィクトール=マッセ通り三十七番地
ドガとフランス革命
いくつかの話題
一九〇五年十月二十二日
見ることと線を引くこと
制作と不信
馬、ダンス、そして写真
床と不定形なもの
裸体画について
ドガの政治論
身振り
余談
もうひとつの余談
ドガとソネット
ドガは、デッサンに夢中で……
前項のつづき
教訓
羨望の罪
いくつかの名言、さまざまな毒舌
その他の《名言》
風景画その他についての考察
現代芸術と大芸術
絵画史の要約
ロマン主義
デッサンはかたち(ルビ=フォルム)ではない……
ドガについてのベルト・モリゾの思い出
芸術の言語
時代の問題
エルネスト・ルアール氏の思い出
黄昏と終曲
訳注
書誌一覧
訳者あとがき
関連情報
『綴葉』No. 406 p. 11 2022年4月
https://www.s-coop.net/about_seikyo/public_relations/images/teiyo-406.pdf
堀江敏幸 評「おわりなき問い 「絵画の床を重視」」 (毎日新聞 2022年3月19日)
https://mainichi.jp/articles/20220319/ddm/015/070/012000c
石井千湖 評「絵画の背景を知り鑑賞の解像度があがる3冊を読み解く」 (『週刊新潮』 2022年2月3日)
https://www.bookbang.jp/review/article/725558
書籍紹介:
「新刊紹介 - 翻訳」 (REPRE [表象文化論学会] vol. 45 2022年6月)
https://www.repre.org/repre/vol45/books/translation/tsukamoto/
「RECOMMEND」 (『芸術新潮』 2022年3月号)
https://www.shinchosha.co.jp/geishin/backnumber/20220225/