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書籍名

声と文学 拡張する身体の誘惑

著者名

塚本 昌則、 鈴木 雅雄 (編)

判型など

590ページ、A5判

言語

日本語

発行年月日

2017年3月

ISBN コード

9784582333275

出版社

平凡社

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声と文学

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声は、身体に深く根ざした現象であるようにみえる。ところが、個人の特殊なものとどまらない、古い時代や土地の記憶に根ざした、奇妙な広がりが感じられることがある。個別の人間のものなのに、一人の人間という尺度を超えた、はるかな呼びかけが聞こえてくることがあるのだ。声という現象を、フランス現代文学はどのように描いているのだろうか。
 
本書は二十一名の文学研究者が、この声という、一筋縄では捕らえられない主題に取り組んだ論文集である。扱われるテーマは、フランス十九世紀、二十世紀の文学作品が主体だが、ホメロスから初音ミクまで多種多様な話題が扱われ、内容を要約することは不可能だ。だが、いくつかの論文を読みすすめると、ある共通項が否定しがたく浮上してくる。それは、身体そのものであるようにみえる声が、実際には話し手の身体から切り離すことができるし、その人の主体からも分離できるという事実である。一八七七年、エジソンによる蓄音機という日付を取りあげてみよう。福田裕大氏の指摘によれば、蓄音機が登場した当初、機械の発生させるノイズのうちに、人間の声を聞きとることは必ずしも容易ではなかった。蓄音機に耳を傾ける犬のニッパーが象徴するように、亡くなった人の声がそこに記録されているという考えが広がるにつれて、ようやく人々は再生音を人の声と結びつけるようになった。身体そのものであるはずの声が、その人が亡くなってからもこの世に残るという現象が、人々の心を惹きつけたのである。
 
これは近代の技術に限定された問題ではない。読み、書き、話すという、声と深く関わる実践は、亡くなった人との交信を抜きにして考えることができない。例えば、伊藤亜紗氏が見事に定式化したように、読書とは、文字に残された死者の言葉に、読み手が自らの声を貸し与える行為である。テクストのなかで語っていた誰かは、生きた人間の身体を通してつねに現在のものとなろうとしている。これは書くという行為が、自己表出などではなく、見知らぬ読み手が自らの声を貸し出すことによって初めて成り立つことも意味している。書くという行為は、書き手のものとも、読み手のものとも言えない、ひとつの新しい主体を立ちあげる行為なのだ。
 
ヴォーカロイドを用いた音声合成のさまざまな試みにも、声を与える/声を借りるという実践を認めることができる。新島進氏の語る亡き子の声を合成する母親の物語、中田健太郎氏が紹介する、亡き妻が歌う新曲をヴォーカロイドで作りつづけるアーティスト──これは声というものが、死者との交流をごく自然な前提としていることと関わっている。
 
声のなかでは、現実に存在する人と、いまは亡き人という区別が限りなく曖昧になってゆく。だがこの事態は、テクノロジーの進展を見守っていると、もはや声に限られた問題ではなくなっているのではないだろうか。
 

(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 塚本 昌則 / 2018)

本の目次

序 あなたはレコード、私は蓄音機――二〇世紀フランス文学と声の「回帰」 
    鈴木雅雄
 
それは誰の声か──語り、身体、沈黙
貸し出される身体──話すことと読むことをめぐって 
    伊藤亜紗
消えゆく声──ロランバルト
    桑田光平
セイレーンたちの歌と「語りの声」――ブランショ、カフカ、三人称 
    郷原佳以
〈操る声〉と〈声の借用〉──ジャリにおける蓄音機、催眠術、テレパシー
    合田陽祐
文学―他所から来た声?――ホメロスからヴァレリーへ
    ウィリアム・マルクス(内藤真奈 訳)
 
II  声の不在と現前――歌、証言、フィクション
〈第四の声〉──ヴァレリーの声に関する考察
    塚本昌則
シャルロット・デルボ――アウシュヴィッツを「聴く」証人 
    谷口亜沙子
W島を描写する〈声〉は誰のものか――ペレック『Wあるいは子供の頃の思い出』における証言の問題
    塩塚秀一郎
想像し、想像させる声――ベケットとデュラス?
    たけだはるか
声は石になった──アンドレ・ブルトン『A音』精読
    前之園 望
歌声と回想――ルソー、シャトーブリアン、ネルヴァル
    野崎 歓
 
III  声から立ちあがるもの──叫び、リズム、ささやき
叙情に抗う声――オカール、アルトー、ハイツィックにおける音声的言表主体
    熊木 淳
例外性の発明――ギー・ドゥボールの声について
    門間広明
目で聴く――マラルメと古典人文学の変容
    立花 史
主体なき口頭性――アンリ・ミショーにおけるリズム
    梶田 裕
ささやきとしての声 (ヴォワ)、動詞の形としての態 (ヴォワ) ──主体のエコノミー (ヴァレリー、ブルトン)
ジャクリーヌ・シェニウー=ジャンドロン (中田健太郎 訳)
 
IV  声の創造――霊媒、テレパシー、人工音声
声は聞き逃されねばならない――シュルレアリスムとノイズの潜勢力
    鈴木雅雄
心霊主義における声と身元確認――「作家なき作品」の制作の場としての交霊会
    橋本一径
人工の声をめぐる幻想――ヴェルヌ、ルーセル、初音ミク
    新島 進
オートマティスムの声は誰のもの?──ブルトン、幽霊、初音ミク
    中田健太郎
フランスにみる録音技術の黎明期――来るべき「録音技術と文学」のために
    福田裕大
跋 〈本物〉とは何か──サイボーグにおける誠実さ
    塚本昌則
 
年表 音響技術と文学
    福田裕大 編
 
索引
 

関連情報

書籍紹介:
福田裕大 新刊紹介 (REPRE vol.31 2017年11月11日)
https://www.repre.org/repre/vol31/books/editing-multiple/koetobungaku/
 
書評:
澤田 直 (立教大学教授) 評: 文学の核心にある声 (週刊読書人ウェブ 2017年5月19日掲載)
https://dokushojin.com/article.html?i=1377
 
島村山寝 評: (『Excelsior!』第12号 2017年12月16日)
http://julesverne.jpn.org/excelsior-vol12.html
 

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