「保育の質」を超えて 「評価」のオルタナティブを探る
『「保育の質」を超えて (Beyond Quality in Early Childhood Education and Care)』は、1999年に、スウェーデンのグニラ・ダールベリ (Gunilla Dahlberg)、イギリスのピーター・モス (Peter Moss)、カナダのアラン・ペンス (Alan Pence) という3人の保育・幼児教育研究者によって執筆、出版された。2007年にカルラ・リナルディ (Rinaldi Carla) の序文が付された第二版が出版され、2013年にはRoutledgeの古典シリーズとして再版された。本書はこの2013年の版に、新たにダールベリとモスによる「日本語版への序文」を加えて翻訳したものである。
保育・幼児教育の世界において、「質」は最も頻繁に議論されるテーマの一つとなっている。本書は、その「保育の質」という広範に普及した言説について、その批判的な検討のための理論的な基盤を提供している。本書によれば、「質」の言説には、価値的に選択されたものであるにもかかわらず、一見、中立的で客観的な唯一の選択肢であるかのようによそおうという問題がある。どういうことか。「良い保育を目指す」という言葉を考えてみよう。この言葉は、価値には多様性があり、何が「良い」かをめぐる議論が巻き起こるであろうことを予期させる。しかし「保育の質の向上」という言葉はそうではない。それは標準化された結果を得るための、脱文脈的に適用される普遍的な原則があるということを前提としている。本書によれば、もともと「質」の言説は、商品のクオリティコントロールと顧客満足の考えから出発し、それが政策に適用され、保育・幼児教育の領域に広がってきたのだという。このような「質」の言説による標準化が削ぎ落とすのは、文脈や複雑さ、多様性や民主主義である。また、標準化された尺度がアカデミズムによって決定され適用されることで、現場の教師たちは価値判断から排除され、その専門性を剥奪されることになる。
本書はこのように「質の言説」を批判するだけではなく、オルタナティブとして「意味生成」の言説を提示している。質の言語が、あらかじめ定められた基準や尺度に従って保育を測定し評価するのに対して、「意味生成」の言説は、出来事におけるローカルで偶然性や複雑性を伴う多様な意味と価値の生成や創造を「評価」と呼んでいる。本書において、この「意味生成」の言説を構築する際の主要な基盤となっているのは、イタリアのレッジョ・エミリア市の幼児教育と、スウェーデンのレッジョ・インスパイアの幼児教育である。レッジョ・エミリア市の幼児教育は、市民性と創造性の教育として世界的に著名であり、日本の保育・幼児教育にも多大な影響を与えているが、本書はとりわけ「ドキュメンテーション」という記録の様式に意味生成と民主主義のアリーナを見出すことで、レッジョ・エミリアの幼児教育の新たな理解を提示している。
日本語版への序文において、ダールベリとモスは、このオルタナティブの模索が新自由主義の覇権に対する抵抗の実践であることを宣言している。その射程は保育・幼児教育にとどまるものではない。測定と評価が重視される教育に違和感を抱いている人に、一読をすすめたい。
(紹介文執筆者: 教育学研究科・教育学部 教授 浅井 幸子 / 2023)
本の目次
序文――第3版刊行にあたって
序文――第2版刊行にあたって
はしがき――イタリア語版刊行にあたって (カルラ・リナルディ)
謝 辞
凡 例
Chapter 1
「保育の質」の議論を問う――この本について
Chapter 2
理論的パースペクティブ――モダニティとポストモダニティ、権力、倫理
Chapter 3
「乳幼児期」の構築――乳幼児期とは何か
Chapter 4
「保育施設」の構築――保育施設は何のためにあるのか
Chapter 5
質の言説を超えて意味生成の言説へ
Chapter 6
ストックホルム・プロジェクト――子ども、教師、親の声で語る教育学の構築
Chapter 7
教育ドキュメンテーション――省察と民主主義の実践
Chapter 8
マジョリティ世界におけるマイノリティ――保育者養成における先住民族とのパートナーシップ
参考文献
訳者あとがき
人名索引
事項索引
関連情報
Beyond Quality in Early Childhood Education and Care: Languages of Evaluation (Routledge Education Classic Editions 2013)
https://www.routledge.com/Beyond-Quality-in-Early-Childhood-Education-and-Care-Languages-of-evaluation/Dahlberg-Moss-Pence/p/book/9780415820226
東京大学大学院教育学研究科附属 発達保育実践政策学センター
https://www.cedep.p.u-tokyo.ac.jp/
関連論文:
浅井幸子「評価への「抗体」としてのドキュメンテーション――価値・意味生成・翻訳」 (『教育学研究』86(2) pp. 249-261 2019年)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyoiku/86/2/86_249/_article/-char/ja
原著者による本書に関するレポート:
Gunilla Dahlberg and Peter Moss著 (CESifo DICE Report 6(2) pp. 21-26 2008年)
https://www.econstor.eu/bitstream/10419/166935/1/ifo-dice-report-v06-y2008-i2-p21-26.pdf
シンポジウム:
公開シンポジウム「デジタル時代の子どもの育ちを支える幼児教育・保育」 (オンライン[主催: 東京大学発達保育実践政策学センター] 2023年5月26日)
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/events/z0110_00024.html
国際シンポジウム「子どもと大人の学びを編む:プロジェクトのなかのドキュメンテーション~シンポジウム」 (オンライン [主催: JIREA/東京大学大学院教育学研究科附属発達保育実践政策学センター] 2022年11月23日)
https://www.cedep.p.u-tokyo.ac.jp/eventlisting/symposium/20221123symposium/
「保育の新時代~渋谷からの発信~QWSアカデミア (東京大学)」 (SHIBUYA QWS スクランブルホール/オンライン 2022年8月28日)
https://shibuya-qws.com/event/20220828academia