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白い表紙

書籍名

大日本史料 第八編之四十四

判型など

342ページ、A5判

言語

日本語

発行年月日

2022年5月9日

ISBN コード

978-4-13-090394-3

出版社

東京大学出版会

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大日本史料 第八編之四十四

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『大日本史料』は、史料編纂所の編纂になる既刊424冊の日本史史料集である。全体についての説明は、UTokyo BiblioPlazaに掲載された他の冊で詳しく触れられているので、そちらを参照されたい。第八編は応仁の乱が起きた応仁元年 (1467) 以降の40年間を対象とし、現在、延徳2年 (1490) の史料の編纂に取り組んでいる。8代将軍足利義政が死亡し、戦国時代における室町幕府分裂の常態化を萌した年である。
 
今回刊行した四十四は、延徳2年「年末雑載 (ざっさい)」の4冊目にあたり、「禁中」「幕府」「諸家」「生死・疾病」の4項目を収める。『大日本史料』は、年月日の順に出来事の概要を「綱文 (こうぶん)」という簡潔な文章によって掲げ、続けて根拠となる史料を並べる形式を基本とするが、出来事として掲げるのが適当でない史料は、各年の最後に分類して配列する。これを「年末雑載」と呼ぶ。本冊の場合、「禁中」以下4項目が分類名である。「禁中」は天皇周辺をいい、つぎの「幕府」と同様、関連史料のほとんどが出来事にもとづいて収められ、ここでの分量は少ない。本冊の大半は、貴族諸家の日常などに関する「諸家」、諸人の死亡や病気に関する「生死・疾病」の2項目が占める。
 
15世紀最後の四半世紀は、貴族や僧侶の日記が多数残り、江戸時代以前では最多の残存状況を誇る。これらの日記とあいまって重要なのが紙背文書 (しはいもんじょ) である。紙が貴重であった当時、日記を書く、あるいは自家用の書物を写す場合、使用済みの紙を翻して書き記すことが多かった。用事の済んだ手紙、不要になった書類、書き損じなどを捨てずに裏面を再利用した。そのため日記や書物の裏面には少なからぬ文書が残り、これを紙背文書と呼ぶ。いわば廃棄された文書であり、子孫に残す意図があった日記や、権益保全のために必要だった書類などと異なり、そこには日常に即した応答が少なからず見出される。
 
日記『親長卿記 (ちかながきょうき)』を残した中級貴族の甘露寺 (かんろじ) 親長は、延徳3年に『公卿補任 (くぎょうぶにん)』という書物を書写した。これは、朝廷の上級職員の任免状況を年ごとにまとめた職員録であり、先例を確認するため過去数百年分を手許に備えようとしたのだ。同書の裏面に残る手紙には何年のものという明記はないが、他の史料と対照すると、書写の前年、延徳2年に書かれたと確認できるものが多い。なかの1通、市保平 (いちやすひら) という人物の6月5日付けの手紙 (226頁に掲載) に注目したい。
 
この手紙は、保平の父継平 (つぐひら) が同日午後に死亡したことを親長に伝えたものである。継平は京都にある神社、上賀茂社 (かみがもしゃ) の長官 (神主) の職にあり、朝廷内で同社を担当する親長に報告しておく必要があった。朝廷は延徳2年6月6日に別の人物を長官に任じており、その辞令にあたる文書が『親長卿記』の附録のなかに見える。この附録は、親長が賀茂社の担当として発出した文書の控えをまとめたものである。しかしながら、継平が同年6月5日に死亡したことは、『親長卿記』やその附録にいっさい記載がなく、唯一この手紙によって知られる。別の見方をすると、紙背文書を活用することで、日記とそれを残した人物の手許にあった手紙とをあわせた検討が可能になり、その人物が何を日記に書きとめ、何を書き残さなかったのかが見えてきたということである。
 
『大日本史料』は、多様な史料を網羅的に収めてあり、それらを組み合わせることで、個々の史料をより有効に活用する手がかりを得るなど、多角的な利用が可能である。もちろん、編纂した側では思いもつかないような活用法もあるだろう。機会があれば、まずは手に取ってみてほしい。
 

(紹介文執筆者: 史料編纂所 教授 末柄 豊 / 2023)

本の目次

年末雑載
 禁中
 幕府
 諸家
生死・疾病

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