大日本史料 第十一編之二十八
『大日本史料』は、日本史上のさまざまな出来事を年月日順に整理し、それぞれの出来事を物語る歴史資料 (古い手紙や日記など、以下「史料」と呼びます) を並べた出版物です。史料の原本は、多くが毛筆のくずし字で書かれていますが、これを解読し、活字体に直した上で並べています。事業が始まったのは100年以上も前のことで、現在も当時のスタイルを踏襲して製作しています。説明文の文体、漢字の字体なども当時のままで、したがって重厚で雰囲気のある紙面になっています。
日本史の時代区分に応じて、第1編から第12編までに分かれており、第11編は豊臣秀吉の時代を取り扱っています。今回出版した第11編第28巻には、天正14 (1586) 年1月~3月の出来事を収録しました。
秀吉はすでに関白の地位にあり、京都・大坂とその周辺では絶対的な存在となっていました。この年の2月から、自身の城郭や邸宅の工事のために人員や資材を大規模に動かしていますが、これはまさに秀吉の強い権勢を物語っています。本巻は、工事の模様を伝える各種の記事はもとより、秀吉が石材の運び方を詳しく定めた掟書など、工事に付随する史料もカバーしています。
また、工事中の城郭をイエズス会の宣教師たちが訪問したことがあり、詳しい見聞記を残しています。もちろん日本語ではなく、年月日の記載も和暦ではありませんので、日本語に翻訳し、和暦に換算した上で収録しました。史料編纂所は、海外に伝わる日本史史料に取り組むスタッフを擁しており、そうしたスタッフとの協働の成果といえます。
秀吉は、上記の掟書とは別に、各地の役人や百姓に対して、年貢の取り方取られ方や、身分に応じた服装などを定めた掟書も出しています。11か条におよぶ長大な掟書です。しかも、ほぼ同文のものが各地に一斉に発せられたらしく、複数の例が知られています。それらをすべて並べてみました。全体では相当の字数になりますから、秀吉を支える執筆スタッフの苦労がしのばれます。「ほぼ同文」ではありますが、細かな違いが随所に見られるのは、複数のメンバーで分担執筆したためでしょうか。
このころ、秀吉は公家たちと盛んに交際し、黄金で作った茶室を披露したり、桜の花を題として和歌を詠ませたりしました。前者については、複数の公家がその模様を日記に残しています。後者については、およそ70首が詠まれ、秀吉はそれらを集めた歌集を作っています。本巻にはこうした史料も収録しました。
このように見てくると、天正14年の初頭は天下泰平であったように感じられますが、じつは、前年の末から徳川家康との対立が深まり、秀吉は家康を倒すための大規模な軍事行動を準備していました。しかし、1月末ごろに家康が恭順の意を表したため、この行動は発動されずに終わりました。緊張の高まりと、一転して事態が収束した様子を、本巻を開いて確認してみてください。また、秀吉は、京都・大坂とその周辺では絶対者であっても、遠隔地には秀吉との関わりがまだ薄い大名もあり、彼らは秀吉とどのように向き合うかを模索していました。そうした様子も、本巻によって知ることができます。
(紹介文執筆者: 史料編纂所 教授 鴨川 達夫 / 2018)
本の目次
(全体を示すことはできませんが、たとえば1月の最初の10日間は、次のようになっています)
正 月
一 日 四方拝、
最上義光、出羽立石寺ニ、油田トシテ、同国重澄郷ノ内ノ地ヲ寄進ス、
二 日 御祝、誠仁親王・和仁王、参内シ給フ、公家衆・門跡等、参内シテ、歳首ヲ賀シ奉ル、
秀吉、堀尾吉直ヲシテ、片桐貞隆ニ、扶持米ヲ渡サシム、又、一柳末安ヲシテ、氏家某ニ、兵粮米ヲ渡サシム、
三 日 本願寺光佐・光壽父子等、歳首ヲ秀吉ニ賀ス、
羽柴秀長、大坂ヨリ大和ニ帰ル、
四 日 千秋万歳アリ、
秀吉、近江観音寺ヲシテ、有馬則頼ニ、扶持米ヲ渡サシム、
五 日 叙位、
手斧始、
羽柴秀長、春日社ニ詣ス、又、同社新殿ノ造営ヲ急ギテ、大工ヲ奈良ニ上ス、
六 日 伊勢日永ノ観音寺ノ、巻数等ヲ献上スルヲ謝セシメラル、
秀吉、加藤清正ニ、播磨飾東郡ノ内三百石ノ地ヲ加増ス、
七 日 秀吉、摂津湯山代官善福寺等ヲシテ、女房某ニ、湯治料ヲ渡サシム、
八 日 太元護摩ヲ修シ、後七日法ヲ停ム、
秀吉、真田昌幸・宇都宮国綱ニ、徳川家康ヲ討タンガ為メ、自ラ東国ヘ出馬センコトヲ告グ、尋デ、上杉景勝・水谷勝俊ニモ之ヲ告グ、
長宗我部元親、大坂ニ在リ、是日、本願寺光佐ヲ訪ヒ、下国ノ予定ヲ告グ、
九 日 出羽大浦ノ大宝寺義興、同国矢嶋ノ矢嶋某ヲシテ、本領ニ還住セシメ、其ノ臣小番喜右兵衛尉ニ地ヲ与フ、
十 日 徳川家康、遠江浜松ヨリ三河岡崎ニ之ク、
北条氏直、相模小田原城ヲ修築スルニ依リ、武蔵本郷ニ人夫ヲ徴ス、尋デ、伊豆韮山城ヲ修築スルニ依リ、同国桑原ニ人夫ヲ徴ス、
前田利家、加賀白山社ニ奉加ス、