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白い表紙に古い書体で書籍名

書籍名

大日本史料 第七編之三十四

判型など

426ページ、A5判

言語

日本語

発行年月日

2019年4月19日

ISBN コード

978-4-13-090334-9

出版社

東京大学出版会

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大日本史料 第七編之三十四

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『大日本史料』は朝廷、幕府、大名らの発した公文書、貴族や武士たちの作成した財産関係の文書、寺社の宗教行事や財産関係の文書、さまざまな階層の人々の書いた日記、その他あらゆる文字史料を収集し、一つの「事件」ごとにまとめ、それを年月日順に配列した史料集である。ここにいう「事件」には政治的な大事件だけでなく、日常の朝廷の儀式や神社の祭礼、天皇や将軍の外出など、大小さまざまなできごとも含まれる。現在、平安中期から江戸初期までの時代を12の編に分けて、それぞれの編で刊行が進行中である。
 
『大日本史料第七編』は南北朝合一 (1392年) から応仁の乱勃発 (1467年) までを担当する。本冊では応永26年3月から7月までを収めた。本冊で最大の事件は6月20日に起こった応永の外寇である。これは倭寇の被害に悩まされていた朝鮮が対馬を襲撃した事件である。事件そのものに関する日本側の史料は少なく、『朝鮮王朝実録』、『明実録』、戦いに参加した朝鮮軍人の伝記など、おもに朝鮮・中国史料を用いた。本冊に収録した範囲での経過の概略は次のとおりである。
 
5月前半、倭寇の大船団が朝鮮忠清道、黄海道を襲い、さらに中国の遼東半島に向かう動きを示した。これを見た朝鮮政府は対馬に兵力となる男子は不在と考え、対馬を攻撃して女性や子供を捕虜として、遼東より帰還する倭寇船団を迎撃することを計画した。朝鮮政府は九州探題や対馬島主の宗氏には、日本本土や宗氏を攻撃する意志のないことを伝える一方、朝鮮国内の日本人は拘束している。
 
6月半ば、倭寇は遼東の望海堝を襲い、明軍に大敗するが、これを知らない朝鮮政府は、20日、計画どおり対馬を攻撃する。ところが対馬に残る兵力は案外に多く、数日間の戦いで朝鮮軍は苦戦を強いられた。台風襲来の恐れもあり、7月3日に引き揚げた。翌日、遼東より帰る途中の倭寇が再び忠清道を襲ったため、朝鮮政府内では再出撃が議論されるが、12日、倭寇は明軍に大敗しての敗走中であることが判明し、再出撃は中止された。17日、朝鮮は、宗氏に対し、島民を挙げて朝鮮に来降することを促すとともに、再度の対馬攻撃の是非を廷臣に諮った。賛否両論が出されたが、しばらくは民力を休め、再攻撃は翌年春に延期することとなった。
 
このように朝鮮の動きは遼東を襲った倭寇の動きに対応したものである。また5月初旬に倭寇が忠清道を襲撃したとの情報は直ちに朝鮮から明に伝えられ、これが望海堝での明軍の防備成功につながっている。また朝鮮軍人の伝記から、対馬が壱岐や上松浦に援けを求めたことがわかる。これらは今回明らかになったことである。
 
この事件に対して日本国内では、5月23日には京都で「大唐国・南蛮・高麗」が日本に攻めてくるという風聞が流れている。6月半ばには出雲大社ほか多くの神社から怪異が報告され、幕府は諸寺に祈祷を命じている。また将軍足利義持は70年も中断していた祈念穀奉幣の再興を後小松上皇に奏請し、実施が決定している。正確な情報がないまま、目に見えない敵におびえる人々の様子がうかがえよう。
 

(紹介文執筆者: 史料編纂所 教授 榎原 雅治 / 2019)

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