東京大学教員の著作を著者自らが語る広場

白い表紙の左上に川の写真

書籍名

読みなおす日本史 中世の東海道をゆく 京から鎌倉へ、旅路の風景

著者名

榎原 雅治

判型など

240ページ、四六判

言語

日本語

発行年月日

2019年1月18日

ISBN コード

9784642071017

出版社

吉川弘文館

出版社URL

書籍紹介ページ

学内図書館貸出状況(OPAC)

中世の東海道をゆく

英語版ページ指定

英語ページを見る

存在することが当然のように思える山や海の風景も、災害や人の力によって変化してきた歴史を持っている。本書では、新幹線の車窓でもなじみ深い東海道の沿線に、鎌倉~室町時代にはどのような光景が広がっていたのか、中世の旅人たちの紀行文や和歌を手がかりに考えてみた。
 
もっとも旅情を強調した紀行文や和歌だけで700年前の地理を復元できるわけではない。文学的表現に満ちた文章には、実体験とは異なる創作が含まれるのではないかという疑念が浮かぶのは当然である。そこで過去の地形を知るために有益を思われる自然科学的なデータを活用することとした。
 
たとえば記述の細部の表現から、書き手のいた場所や年月日、時刻を確定した上で、自然科学のデータによってその日のその時刻での太陽や月の満ち欠けの様子、潮の高さなどを推定した。また川の流路の変遷と地震による隆起 / 沈下の関係、地質のボーリング調査によって得られる堆積物のデータと水辺の関係などについても検討した。その結果を紀行文や和歌の記述と対照させたところ、そこに描かれている景観は意外にも実風景に忠実であることが判明した。そうして明らかになった中世の東海道の風景は次のようなものだった。
 
(1) 鎌倉時代、木曽川と長良川は現在の岐阜県大垣あたりで合流し、それより下流は「海のようだ」と表現される大河となっていた。現在の木曽川にあたる流路が大きな川となったのは室町時代以後のことである。
 
(2) 現在の名古屋市内になる熱田―鳴海間は潮が満ちれば海、引けば干潟となる場所であり、当時の旅行者は干潮を待って横断していた。
 
(3) 浜名湖の湖口は現在のそれより4km以上西にあり、最狭部には橋が架かっていた。それより東には長く細い砂州が続いていたが、1497年の南海トラフ巨大地震による津波で地形が一変し、現在のようになった。
 
(4) 静岡県中部の遠州平野は内部に大きなラグーンがいくつかあり、漁業や海運が展開していた。ラグーンは戦国末期から江戸前期の干拓工事によって新田に変わった。
 
(5) 大井川や富士川の下流部はいくつもの小さな筋に分流しており、人々は橋を架けず、船も用いることなく、歩いて渡っていた。南北朝時代ごろから始まる新田開発の中で、分流は少しずつ整理され、戦国末期には本流が誕生していた。
 
(6) 富士山の南麓には「浮島沼」と呼ばれる細長い沼が広がっており、東海屈指の眺めとたたえられていた。この沼は江戸前期からの干拓で徐々に小さくなり、近代の干拓によって全く姿を消した。
 
このように、中世までの東海道の風景は現在とは相当に異なるものだった。文献史料だけではなく、自然科学の論文やインターネットで公開されているデータベースを適切に活用することで、文字に書かれない歴史にちかづくことができることを知ってほしい。
 

(紹介文執筆者: 史料編纂所 教授 榎原 雅治 / 2019)

本の目次

序章 干潟をゆく-鳴海
第一章 旅立ち-京・近江
第二章 乱流地帯をゆく-美濃
第三章 湖畔にて-橋本
第四章 平野の風景-遠州平野。浮島が原
第五章 難所を越えて-天竜・大井・富士川、興津
第六章 中世の交通路と宿
第七章 中世東海道の終焉
 

このページを読んだ人は、こんなページも見ています