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画猫の系譜 ー徽宗・春草・栖鳳ー | 広報誌「淡青」37号より

掲載日:2018年11月27日

画猫の系譜 -徽宗・春草・栖鳳-

近代日本画を代表する二人の巨匠、菱田春草と竹内栖鳳(せいほう)は、猫を題材にした名作を残しています。東アジア絵画史を研究する板倉先生によると、これらの作品は昔の中国の皇帝が描いた絵が下敷きになっていました。時空を越えてつながる画猫の系譜をたどってみましょう。

猫と美術史学

板倉聖哲/文
Masaaki Itakura
東洋文化研究所
教授

「猫図」北宋・(伝)徽宗 個人蔵

渋谷区立松涛美術館では「ねこ・猫・ネコ」展(2014年4月5日~5月18日)、「いぬ・犬・イヌ」展(2015年4月7日~5月24日)と立て続けに開催されました。展示作品は近現代の日本のものが中心で、ネコは実用的な側面ばかりでなく、神秘的で魅惑的、美しく気高く可愛らしい動物として、イヌは主人に忠実な性質から「人間の最良の友」と称され、最も人に親しまれる動物として造形化されてきた歴史を各々振り返るものでしたが、参観者数を比較するとネコ展の圧勝で終わりました。

皇帝の中でネコ派といえば徽宗(きそう)(1082~1135 在位1100~1125)です。北宋第八代皇帝、徽宗は芸術や奢侈遊興に現を抜かし道教に耽った「浪子(遊び人)」、政治に疎く軽佻と評された亡国皇帝のイメージが定着していますが、宋王朝の文治主義のもと、宮廷文化の頂点に立ちながら、文人文化の達成をも引き受け、文化を主導した「風流天子」なのです。徽宗には画猫の伝称作品が複数あり、中でも水戸徳川家伝来の伝徽宗筆「猫図」はその精細な描写において群を抜いています。画面いっぱいに描かれているのは斑猫一匹。猫の体躯は白色の短い細線による体毛によって覆われ、立体感が表されています。その一方で、体の輪郭は限りなく円形に近く、平面的な指向を見せます。徽宗が目指した装飾性と再現性、時代で言い換えれば唐と宋の「止揚」と見なせる造形指向が認められるのです。

中近世日本では徽宗の画猫を代表とする院体画が重要な「古典」として君臨し続けましたが、その意識は写生をより明確に意識した近代においても継承されました。近代日本において東西の巨匠による作品、つまり、菱田春草(1874~1911)の「黒き猫」(1910年 永青文庫)と竹内栖鳳(1864~1942)の「班猫」(1924年 山種美術館)がありますが、実は共に徽宗の猫が「古典」として意識されています。

春草最晩年の傑作「黒き猫」に見える写生と装飾の融和も徽宗の猫図からヒントを得たことが出発点です。1901年制作の「白き猫」(春草会)は細密な猫の描写とあっさりと面的に描いた梅樹の対比が鮮やかですが、この作品が水戸徳川家旧蔵本を基にしたことは一見して明らかです。春草はその後、幾つかの試みを経て「黒き猫」に至りました。又、春草は東京美術学校の嘱託教員となる直前に学校に中国絵画などの模本を教材として納入しましたが、その中には別の(伝)徽宗「猫図」が含まれます。この「猫図」は徽宗の画風が直接反映しているとは言い難いのですが、江戸時代には有名な徽宗の「猫図」だったはずです。そして、この画こそが栖鳳が「班猫」制作において念頭に置いたものなのです。彼は沼津で遭遇した八百屋の猫を「徽宗皇帝の猫」と見て、早速譲り受け、京都に連れ帰って日夜眺めては描写に勤しみ、完成させたのが「班猫」という逸話が伝わっています。近年、海の見える杜美術館所蔵の膨大な栖鳳関連写真資料の中からその猫の写真が見出されました。絵画から現実、そして再び絵画へ。絵画と現実の往還、ここに写真が介在した可能性があったわけで、画猫をめぐる課題が近代美術自体のそれに重なってくるのです。

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「猫図」菱田春草 東京藝術大学所蔵

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「白き猫」菱田春草  飯田市美術博物館所蔵

images 「班猫」竹内栖鳳  重要文化財  山種美術館所蔵

images 栖鳳がモデルにした猫  海の見える杜美術館所蔵

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