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『吾輩は猫である』に見る「皮膚」の「彩色」の政治学 | 広報誌「淡青」37号より

掲載日:2018年9月26日

『吾輩は猫である』に見る

「皮膚」の「彩色」の政治学

東大で、猫に関連した文学作品といえば、やはり『吾輩は猫である』でしょう。
夏目漱石研究の第一人者である小森先生が、登場する猫たちの名前と毛の色の関係を発端に、日清戦争、日露戦争、「黄禍論」から帝国主義までに至る人類の歴史を読み解きます。
猫たちの毛は人種の別を意味している!?

猫と日本文学

小森陽一/文
Yoichi Komori
総合文化研究科
教授

漱石夏目金之助(一八六七~一九一六)の最初の小説は「吾輩は猫である。名前はまだない」(以下本文の引用は岩波文庫版による)とはじまり、末尾の一文は「名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯この教師の家で無名の猫で終るつもりだ」となっている。一度捨てられた後に拾われて、中学校の英語教師の家の飼い猫になったにもかかわらず、「名前はまだつけてくれない」無名性が強調されていることになる。

 

「吾輩」以外の猫は名前あり

山口進「車やの黒」(1936年)。車屋とは人力車夫のこと。

たしかに他の登場猫たちには「名前」がある。冒頭の二文を自己紹介がわりに使用したところ「何、猫だ? 猫が聞いてあきれらあ」と「気焔を吹」いたのが「車屋の黒」。「産まれた」ばかりの「玉のような子猫を四疋」「書生」に「裏の池へ」「棄て」られてしまった「軍人の家」の猫は「白君」。そして「代言の主人を持っている」のが「隣りの三毛君」で、「人間が所有権という事を解していないと大に憤慨している」のである。

たしかに名前はついているのだが、「車屋の黒」が「純粋の黒猫」であり、「太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に抛げかけて、きらきらする柔毛の間より眼に見えぬ炎でも燃え出でるように思われた」と描写されているように、要するに猫たちの「名前」は特別な固有名ではなく、その毛の色に過ぎない。

この事実に気づいてみると、「吾輩」に「主人」が「名前」をつけてくれないのは、その毛の色としての「皮膚」の色が原因の一つになっていたのではないかと推察出来る。なぜなら、「吾輩」の「皮膚」の色は「波斯産の猫の如く黄を含める淡灰色に漆の如き斑入り」だったからである。あまりに複雑すぎて猫の「名前」にするのは不可能である。

苦沙弥先生の肌は淡黄色

しかし、より重要なのは、「吾輩」の毛の色が、「主人」の「皮膚」の色と酷似しているという事実だ。「主人」は「胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて」おり、後に「種え疱瘡」に失敗したために「顔一面に」「あばた」(九章)があることも明らかにされる(漱石自身の実像と重ねられている設定)。「吾輩」自身の「黄を含める淡灰色に漆の如き斑入り」の「皮膚」と対応していることは明らかだ。飼い猫と主人を対で考えると、「黒」は「車屋」、「白」は「軍人」、「三毛」は「代言」(弁護士)なのだから、いずれも明治維新後「文明開化」「富国強兵」「脱亜入欧」を目指している大日本帝国という国家の中で、新たに生み出された職業であることがわかる。もちろん「吾輩」の「主人」は「中学校」の「英語」の教師なのだから、それも明治以後に成立した職業であることは言うまでもない。

「所有権」を「解していない」「人間」に対して、「我ら猫族」は、「人間と戦ってこれを剿滅せねばならぬ」と猫たちは考えている。『吾輩は猫である』が一回読み切りの予定で俳句雑誌「ホトトギス」に発表されたのが一九〇五年の一月。日露戦争二年目の正月であり、一月一日に旅順のロシア軍が降伏し、その戦勝ニュースに大日本帝国中が沸いているときであった。しかし一九〇四年八月二一日から、乃木希典司令官の下で始められた旅順攻撃は大きな損害を出していた。十三万を投入した日本軍の死傷者は五万九千人であった。

しかし日清戦争のときは、わずか一日で東洋一と言われていた旅順要塞を占領したのであった。最初の新聞連載小説『虞美人草』(一九〇七年六月二三日~一〇月二九日)の、外交官であった父が外国で客死した甲野さんは、日露戦争について「日本と露西亜の戦争じゃない。人種と人種の戦争だよ」と言い切っている。黄色人種同士の戦争であった日清戦争のときは、わずか一日で犠牲者無しで落とすことの出来た旅順要塞は、黄色人種と白色人種の戦争としての日露戦争では、百三十日の激戦で莫大な死傷者を出したのである。

人種は皮膚の色で差別化する

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山口進「猫」(1958年)。他にも「猫と干し柿」「猫と梅の盆栽」など猫を題材にした山口作品が駒場博物館に残されています。

「人種と人種」は「皮膚」の色で差別化するのである。漱石夏目金之助がロンドンに留学していたとき、イギリス人の差別的眼差しを内面化している。「ホトトギス」(一九〇一、2 )に載った「倫敦消息」と名付けられた正岡子規宛の私信の中で漱石夏目金之助は、次のように自分の「皮膚」の色に言及していた。

……我々黄色人――黄色人とは甘くつけたものだ。全く黄色い。日本に居る時は余り白い方ではないが先づ一通りの人間色といふ色に近いと心得て居たが此国では遂に人-間-を-去-る-三-舎-色と言はざるをえないと悟った。

日露戦争の開戦の大きな要因の一つが、黄色い肌をした日本人の世界的進出を警戒する「黄禍論」(Yellow Peril)であった。日清戦争の最終段階で、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世が、黄色人種の脅威を主張し、日本嫌い(大津事件の記憶)のニコライ二世を焚き付けて「三国干渉」を行ったときの中心が「黄禍論」であったことを忘れてはならない。このとき以来「臥薪嘗胆」を合言葉に、日清戦争で獲得した莫大な戦争賠償金を軍事費に注ぎ込み、大日本帝国は日露戦争開戦へと突き進んでいったのである。人間の「皮膚」の色をめぐる人種的差別と帝国主義的な戦争との連続が猫の毛の色から喚起されて来るのである。

一高と山口進と夏目漱石
ある日のこと。千駄木のとある家の門前には一箱の饅頭が置かれていました。「ご自由にどうぞ」と書かれた添え札を見た若き日の山口は、饅頭を欲し、まずは挨拶をとその家を訪れます。応対したのは、第一高等学校教頭・齋藤阿具の血縁者でした。これを機に一高に雇用された山口は、寮務掛として勤めながら様々な絵画・版画作品を残し、一高の校章もデザインしました。饅頭が置かれていたその家は、かつて夏目漱石が住み、『吾輩は猫である』を執筆した場でした。
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