本書は、北宋時代に成立した文物の収蔵・公開機関である三館秘閣を中心に、北宋絵画史の成立に至るまでの過程を扱うものである。中国社会を成立させる最も根源的な制度の一つであったといえる「文物」の存在と機能の意味を問い、交流史を結節点に、モノが移動し、形や意味を変容させていく過程を総体として捉え、人間の自己意識や歴史意識の観点から、人間と作品の関係性によって紡ぎだされる「文物」の歴史を解明する。そのため、本書で扱われるのは、絵画や書法、拓本・典籍、仏像や舎利、青銅器と幅広く、それらが生産、収蔵、展示公開される過程で、総体として形作っていた文物世界の意味を復元し、さらに東アジア世界の中心として君臨した北宋宮廷という場と、それをとりまく周辺世界における「モノ」の流通の意味を明らかにするものである。
中国絵画の金字塔である北宋絵画史を考察するにあたり、本書がとったのは従来の美術史学がとってきた様式論的なアプローチを基礎としながらも、「美術」ではなく「文物」という観点から「モノ」と向き合うことであった。そのことによって、従来はバラバラであった様々な「モノ」が結びつき、意味を紡ぎ出していく過程を、はじめて明らかにすることができるからである。これらを本書前半の問題意識とすれば、それらが意味を発生させていた「場」を失い、「モノ」が社会に投げ出され、新たな共同体のなかで新しい意味を付与されていく過程を究明することが本書後半の問題意識となる。北宋宮廷は靖康の変によって永遠に失われてしまったが、そこにあった様々な「文物」のいくつかは地上に残されていた。一旦、意味の「場」を失い、社会に投げ出されたそれらの「モノ」は、今度は新しい受容者を見つけ出し、新たな意味を付与されることで、様々な共同体の中で伝来していく。この、「モノ」が作者によって制作された時に付された意味のみならず、それが人間社会のなかに伝来してきた意味とその生成の過程を問うことこそが、本書を貫く最も大きな問題意識である。本書を特に「北宋絵画史の成立」と名付けた所以である。
実は本書には、著者が博物館で勤務してきた経験が色濃く反映している。学芸員はモノを集め、保存し、研究や展示することによって、モノと自らの意味を社会に常に問うている。本書では北宋時代の宮廷でどのように文物が配置されてきたのか考察されているが、実は「おわりに」では、現代の博物館が同じ文物を展示することで如何に新たな意味を生産しているのか、ということが論じられている。人間はモノを制作して伝承し、それを使って共同体を形成する。それではそれに生かされていく人間とは何なのか、そしてこれから、モノと人間社会はどのように、お互いに意味を与えあいながら成り立っていくのだろう? これからも常に自問を繰り返さなければならない問いである。
(紹介文執筆者: 東洋文化研究所 准教授 塚本 麿充 / 2017)
本の目次
はじめに
第一節 なぜ交流が問題となるのか
第二節 日本の中国絵画史研究と交流史研究
第三節 美術史学と歴史学
第四節 「文物」という概念・交流の世界と本書の構成
おわりに 北宋文物の場所・鑑賞者とその消失から再生まで-「文物」から「美術」へ
序論 近代における「中国美術史」の成立とその認識 - 矢代幸雄・滕固・シックマン -
はじめに
第一節 最初期における「美術史」記述
第二節 中国の近代知識人と美術史
第三節 滕固『唐宋絵画史』(一九三三) と中国芸術史学会の成立 (一九三七) まで
第四節 矢代幸雄と滕固-起点としてのロンドン中国芸術国際展覧会
第五節 その後の「中国芸術史学会」
第六節 矢代幸雄とシックマン
第七節 ロンドン・北京 / 東京・カンサス
第八節 中国初期山水画史へのまなざしとそのコレクション形成
おわりに 「美術史」以前-近代の中国美術コレクションと美術史家の誕生
第一章 漢魏六朝から隋・唐の文物収蔵と文物観の変遷
第一節 文物と中国社会
第二節 漢代宮廷における文物収蔵 - 天人感応の場としての宮廷と文物 -
第三節 魏晋南北朝-法書名画と目録の誕生
第四節 隋の建国理念と佛教、宮廷コレクション
おわりに 唐から宋へ - 宮廷文物制度の完成と継承
第二章 北宋初期三館秘閣の成立とその意義
はじめに
第一節 北宋初期三館秘閣の成立 (九六〇-九九二)
第二節 佛教文物の収集と開封
第三節 啓聖禅院の構成とその意味
第四節 高文進「弥勒菩薩像」と奝然の入宋請来文物
第五節 大相国寺の荘厳とその鑑賞者
おわりに 北宋皇帝の新しい首都と文物
第三章 北宋宮廷文物公開の場と鑑賞者
第一節 真宗朝の観書会 - 秘閣・龍図閣・太清楼 -
第二節 仁宗朝の観書会 - 三朝の顕彰 -
第三節 宋朝の文物展観と館職
第四節 観書会から曝書会へ
第五節 北宋における瑞物の収集と展示
第六節 秘書省、宣和・保和殿と徽宗朝の文物宣示
第七節 「清明上河図巻」の展観とその淡彩表現
おわりに 宮廷文物・場所の消失と北宋絵画の記憶
付論 蔡襄 「謝賜御書詩表巻」と宋代宮廷の刻碑文化
附: 年表 北宋三館秘閣六閣における文物観賞
第四章 郭煕山水の成立とその意味
はじめに
第一節 帝都開封とその画家たち
第二節 郭煕の生年
第三節 郭煕「早春図」とその歴史意識
第四節 郭煕山水の高麗への下賜の歴史背景とその意義
おわりに 李郭派への長い歩み
第五章 宋代皇帝御書の機能と社会 - 孝宗「太白名山碑」(東福寺蔵) をめぐって
第一節 「太白名山碑」概要
第二節 宋代皇帝御書の変遷と孝宗書風
第三節 皇帝御書と宋代の社会
第四節 「太白名山碑」と南宋禅院
おわりに 「太白名山碑」の変容
附: 年表 宋代御書の流通主要年表
第六章 北宋三館秘閣と東アジアの文物交流世界
はじめに 北宋三館秘閣成立と東アジア
第一節 遼との文物交流と北宋三館秘閣
第二節 高麗宮廷コレクションの成立と北宋三館秘閣
第三節 日本の文物交流と「海外書」
おわりに 東アジアの蔵の交流と文化形成
第七章 李公年「山水図」(プリンストン大学美術館蔵) と北宋後期李郭派の展開
はじめに
第一節 作品の現状と落款印章について
第二節 李公年の伝記に関する若干の補足
第三節 李公年の月光表現と李郭派山水の展開
第四節 『宣和畫譜』にみる李公年への批評語の分析
おわりに 朝鮮李郭派への展望
第八章 明・清時代における李成と郭煕 - 宋代画家像の受容と変容の一例として -
はじめに 郭煕山水の特殊性
第一節 『林泉高致集』の流伝と言葉 - 郭煕、第一の歴史化 -
第二節 郭煕山水の展開 (1) - 物語の舞台としての李郭派山水・崇高性と故事性 -
第三節 郭煕山水の展開 (2) - 図様の継承 -
第四節 版本による李郭派理解
第五節 石濤「廬山観瀑図」と袁派
おわりに 近代社会と李郭派の再発見にむけて
第九章 二つの趙令穣 -「秋塘図」「湖荘清夏図巻」とその受容史について -
はじめに
第一節 北宋太祖五孫・趙令穣について
第二節 「秋塘図」と「湖荘清夏図巻」
第三節 趙令穣と近代日本
おわりに 「"中国絵画" の歴史」をめぐって - 多様な中国絵画史の構築 -
終章 宋画の描写と空間理解 -「雪中帰牧図」「蜀葵遊猫図」「萱草遊狗図」を例として -
はじめに 宋画へのまなざし
第一節 「雪中帰牧図」と宋画の精神
第二節 「蜀葵遊猫図」「萱草遊狗図」と宋画の描写
おわりに 名画伝説
付章 宋・元画のなかの器物表現 - 画中の古物表現とその意味を中心に -
はじめに 画中器物への視座
第一節 器物表現と画意
策二節 古物を描く
第三節 イリュージョンとしての古物表現
おわりに 画中器物と古物の世界
おわりに - 文物がつくる社会 -
関連情報
http://www.mishima-kaiun.or.jp/news/2018.html
『北宋絵画史の成立』販売パンフレットPDF版
http://www.chukobi.co.jp/user_data/pdf/北宋絵画史の成立.pdf