東京大学教員の著作を著者自らが語る広場

表紙に男が寝ているモノクロのイラスト

書籍名

夢の共有 文学と翻訳と映画のはざまで

著者名

野崎 歓

判型など

224ページ、A5判、上製

言語

日本語

発行年月日

2016年11月29日

ISBN コード

978-4-00-025424-3

出版社

岩波書店

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夢の共有

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著者はこれまで、フランス文学 (とりわけロマン派の作家ジェラール・ド・ネルヴァル) の研究を続けるかたわら、近現代フランス文学のさまざまな作品の翻訳を手掛け、そしてまた折にふれ日本文学について評論やエッセーを発表しつつ、映画についても文章を書いてきた。そうしたいかにも統一を欠く、自らの興味や趣味を優先させて書いた文章の数々のなかから、読み返してみて多少とも愛着のある、そしてまた文学や翻訳や映画に興味をもつ読者であれば (ひょっとして) 読んでくれそうなものを選んで一巻にまとめたものが本書である。ただしそれらを一巻にまとめるというアイデアは、著者自身の発案によるものではまったくなく、ひとえに、ある日研究室を訪ねてきた若い編集者R・N氏のイニシアティヴによるものだった。著者としてはこれまで自分が書き散らしてきたもののなかから、何か少しでも統一的なヴィジョンが浮かび上がってくるのかどうか、定かではなかったのだが、R・N氏のおかげで意外にも、そこにごくゆるやかな、しかし確かに通底する主題が存在することがわかったのである。それは著者の研究歴の最も初期にさかのぼる論文の表題「ジェラール・ド・ネルヴァルと夢の共有」に含まれる、「夢の共有」というテーマだった。夜見る夢は本来、その内部に決して他人が入り込むことができないものである。だがネルヴァルの作品には、その夢を何とか他者と分かち合いたいという希求が読み取れる (それが彼の作品の「二人で見る夢」という特徴的なモチーフを生んだ)。考えてみればそうした希求とは、そもそも文学という営為の根幹を支えるものではないか。さらに、翻訳に関しても同じことがいえそうだ。翻訳とは原作を言葉の壁を超えてわかちあおうとする企てなのだから。そして映画である。物語映画は夢を媒介する強力なメディアにほかならない。こうして "後づけ" の理屈でいうならば、ここに集成されたのは、夢の共有という主題のもとに複数の領域をまたぎ、約四半世紀にわたって書きつがれた文章ということになる。ただしばらばらな成り立ちをもつテクストばかりであることも間違いないので、もし手にとってくださる方は、文学、翻訳、映画いずれかのジャンルに対するご自分の興味に従って拾い読みしていただければありがたい。ネルヴァルから始まって、ブルトン、フロイト、バルト、森鴎外、谷崎潤一郎、そしてトリュフォーやゴダールをはじめとするさまざまな映画監督たちが順次登場する。それらすべてに対する関心を共有してくださる読者などまずいないだろう。そのごく一部なりとも共有していただければ、著者としては十分幸せなのだ。
 

(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 野崎 歓 / 2017)

本の目次

文学――他者をつなぐ夢
  第1章 ジェラール・ド・ネルヴァルと夢の共有
  第2章 夢と狂気――ネルヴァルからシュルレアリスムまで
  第3章 欲望の不壊――ロマン主義からフロイトへ
II  翻訳――揺れ動く彼我の差異
  第4章 作者と訳者の境界で――ロラン・バルトから森鴎外へ
  第5章 『痴人の愛』と外国語のレッスン――文学から映画へ、映画から文学へ
III 映画――国境を越える共同体
  第6章 新しい「言語」を求めて――フランス文学と映画
  第7章 日本という鏡に映ったトリュフォー
  第8章 東風をいかに受け止めるか――ヨーロッパ映画にとってのアジア、そしてアジア映画
 

関連情報

書評:
今週の本棚 湯川 豊・評 (毎日新聞 2017年1月15日)
https://mainichi.jp/articles/20170115/ddm/015/070/013000c
 
読書人紙面掲載書評 伊藤洋司・評「不可能性と信ずること」(2017年2月24日)
http://dokushojin.com/article.html?i=921
 
松浦寿輝・評 (すばる 2017年3月号p378)
 

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