本書は、この世界には避けがたく「運」が存在し、人生には「賭け」の側面が伴うという観点から、道徳や倫理をめぐる人間の思考の歴史を紐解いていく講義です。
私たちはいつの間にか、幸運や不運は道徳的な善し悪しとは無関係だという見方を、当たり前のこととして受け入れています。本書は、そうした常識的な見解の前で立ち止まり、むしろ「運」の積極的な役割に目を向けるという意味で、「不道徳」な倫理学の書だと言えます。
取り立てて言うまでもなく、私たちの人生の道行きは「運」というものに大きく左右されています。人生で得られるチャンスは、生まれや育ちといったものによって大きく影響を受けます。また、これから行うことの帰結も、思いもよらない出来事によって大きく変わるかもしれませんし、長年苦労して積み上げてきたものが、急な災害などによって瓦解してしまうこともありえます。
けれども、あるべき行為や人生をめぐって議論が交わされるとき、なぜかこの「運」という要素は無視されがちです。特にその傾向は、道徳や倫理について学問的な探究を行う倫理学に顕著だと言えます。それはなぜでしょうか。
本書では、そもそも「運」とはどのような概念なのかを詳しく探究したうえで、人生における「運」の問題が主に倫理学の歴史でどう扱われてきたのか――あるいは、どう排除されてきたのか――をたどります。
そのため本書は、正統な倫理学史ではあまり案内されない裏通りにむしろ足繁く通う、独特な構成になっています。倫理学の入門書や概説書がすでに数多く存在するなか、そこに新しく本書を加える意義があるとすれば、それはさしあたりこの点にあるでしょう。
また、そのように倫理学史の裏通りに光を当てることは、古来の倫理学のあり方、さらには、一般に広く受け入れられている道徳についての見解を、問い直すことにつながるはずです。
本書は、その道筋において、道徳とその外部、理想と現実、人間一般とこの私、賢者と愚者、神と人間という対比を、何度も照らし出していきます。それは総じて、人間のあるべき生と、人間のあるがままの生の裂け目を見つめることであり、人間とはいかなる存在と言えるかについて、いまあらためて考えることでもあります。とりわけ本書で焦点を与えるのは、(神の偉大さとは異なる) 人間の偉大さとは何か、(生真面目な生き方とは異なる) 真摯な生き方とは何か、という問題です。
したがって本書は、まずもって、不道徳的な観点から倫理学史やその前史を辿る講義だと言えます。すなわち、この世界には運が存在し、人生には「賭け (博打、ギャンブル)」の側面が避けがたく伴うという観点から、道徳や倫理をめぐる人間の思考の歴史を紐解こうとするものです。
また、その試みはやがて、運の要素を受け入れて取り込む倫理学――言うなれば、不道徳的倫理学――とはどのようなものでありうるのか、それを素描する営みにもなっていくでしょう。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 准教授 古田 徹也 / 2019)
本の目次
第I部 「運」の意味を探る
第1章 現代における「運」
1 日本語の「運」
2 英語の「luck」「fortune」等
第2章 古代ギリシアの文学作品における「運」
1 くじ、割り当て、運命
2 神は運命を左右できるのか
3 運命の不平等さ、理不尽さ
4 「テュケー」をめぐって
5 無力さのなかでもがく人間
第II部 「運」をめぐる倫理学史――古代から近代までの一断面
第3章 徳と幸福の一致を求めて――アリストテレス以前
1 無知の言い訳としての偶然、運――デモクリトスの場合
2 善き生き方への問い――ソクラテスとプラトンの逆説
3 「幸福者の島」と「奈落」――プラトン『ゴルギアス』終盤の神話
4 運命の自己決定と自己責任――プラトン『国家』終盤の神話
第4章 アリストテレス
1 「幸福とは、徳に基づいた活動である」
2 徳を発揮する可能性に影響を与える運
3 徳を備える可能性に影響を与える運
4 完全な幸福としての観想――神の生活という理想
第5章 ストア派
1 ストア派の先駆――シノペのディオゲネス
2 決定論的世界観
3 徳、幸福、感情
4 ストア派にまつわる諸問題
5 現実性と一貫性――キケロの診断
6 これまでのまとめと、これからの展望
第6章 後世へのストア派の影響――デカルトの場合
1 デカルトのストア派的側面
2 心の平静に至る道筋
第7章 アダム・スミス
1 道徳的評価の二種類の枠組み
2 偏りなき観察者
3 ストア派への接近
4 ストア派からの離反
5 <感情の不規則性> をめぐって
6 まとめ
第8章 運に抗して――現代の手前まで
1 理性に基づく自足――カントへ
2 いくつかの異見――ヘーゲルへ
3 此岸から彼岸へ
第III部 道徳と実存――現代の問題圏
第9章 道徳的運
1 現代の論争の起点
2 道徳的運とは何か――ネーゲルの議論に即して
3 反「道徳的運」(1)――認識的運への還元
4 反「道徳的運」(2)――日常の安定性に訴える議論
第10章 倫理的運
1 バーナード・ウィリアムズにおける道徳的運
2 力及ばぬことへの責任
3 道徳と実存の問題の間
エピローグ――失われた <耳>
文献表
あとがき
索引
関連情報
古田徹也『この世界に避けがたく存在する「運」について』 (Webちくま 2019年5月28日)
http://www.webchikuma.jp/articles/-/1734
著者インタビュー:
古田徹也氏ロングインタビュー「運に向き合い、倫理を問いなおす」 (2019年9月6日)
https://dokushojin.com/article.html?i=5893
第1回 運と道徳の関係に関心/倫理学史の外部の視点
https://dokushojin.com/article.html?i=5893#tokushuu1
第2回 努力と運の極端な語られ方/評価に入り込む運の要素
https://dokushojin.com/article.html?i=5893&p=3
第3回 準備の先にある意外なもの/徳を語る言葉の本来の迫力
https://dokushojin.com/article.html?i=5893&p=4
第4回 ストア派、ウィリアムズ /運を多角的に考えるために
https://dokushojin.com/article.html?i=5893&p=5
第5回 自分をかたちづくるもの/自然な感情の肯定
https://dokushojin.com/article.html?i=5893&p=6
第6回 人間ならではの偉大さ/あるがままの生の実相
https://dokushojin.com/article.html?i=5893&p=7
セミナー:
第35回新潟哲学思想セミナー(NiiPhiS) 「運」とともに / 「運」に抗して――古田徹也『不道徳的倫理学講義』を読む (新潟大学 2019年9月13日)
http://www2.human.niigata-u.ac.jp/~mt/ningen/2019/09/35_niiphis_201991316301830.php
書評:
池田 喬 評 「2019年上半期の収穫から Part 2」 (『週刊読書人』第3298号 2019年7月26日)
https://dokushojin.com/article.html?i=5716&p=7
苅部 直 (政治学者 東京大教授) 評 「徳」をめぐる考察 (『読売新聞』 2019年6月16日)
https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20190615-OYT8T50194/