蔵出し!文書館 第15回

蔵出し!文書館
収蔵する貴重な学内資料から
140年に及ぶ東大の歴史の一部をご紹介
 

第15回 農科大学に遺された三池炭鉱の風景

 干潮の有明海の浜辺に引き上げられた小さな漁船の群。遠方では高い煙突が煙をもうもうとはきだし、手前を蒸気機関車が白い煙をあげて此方に向かってくる。20世紀初頭の熊本県荒尾市四ツ山の光景です。
 荒尾市から福岡県大牟田市に広がる三池炭鉱は、第二次大戦期までの日本の主要エネルギー源であった石炭を大量に供給する役割を担いました。当初、明治政府の官営事業としてはじまった炭鉱は、1889年より三井組の経営となり、1892年に三井鉱山が創立され採炭が本格化していきます。三池炭鉱の炭層は地下にあったため、作業員は坑道まで降りて作業せねばなりませんでした。坑口には昇降用のケージ(エレベータ)が設置され、それを支えるための櫓が現在も宮原と万田に残っています。ケージの昇降用ワイヤーの巻き揚げ機、地下水くみ揚げのための大型ポンプ、石炭を港へ運ぶための鉄道、遠浅の有明海に干潮時でも大型の船舶が停泊できるよう閘門式のドックを備えた三池港などが建設されました。
 これらの施設は、近代化の装置としてこの地の景観を大きく変えました。三池炭鉱を撮影した写真が数多く撮影され、市場に広く出回ります。冒頭の光景が記録された写真は、帝国大学農科大学の地質学・土壌学講座(現在の土壌圏科学研究室)教授の脇水鉄五郎の遺した資料に含まれています[東京大学文書館F0227/SF01/0070]。台紙には説明書きが添えられ、その裏書きのひとつから、明治38(1905)年10月24日付で、牧野良平という人物から脇水に贈られたものと考えられます。脇水資料の三池炭山関係写真の被写体は、櫓やポンプなどの大型設備、ツルハシを持って切羽に立つ鉱夫、そして大牟田と荒尾の風景を写したものもあります。同じ被写体が同じような構図で幾度も撮られ、大量の複製が市場に流通しました。こうした被写体の表象の「型」は、三池という場所について人びとが共有して持つことになる景観のイメージに影響を与えたはずです。大牟田・荒尾の記憶の場としての三池炭鉱の施設の一部は、2015年にユネスコの「明治日本の産業革命遺産」の一部として指定されました。
(特任助教・宮本隆史)

今回の蔵出し資料
F0227/SF01/0070〔写真〕 三池炭山(筑後三池萬田炭坑、三池炭坑内、宮ノ浦採炭場、宮ノ原採炭場、四ツ山築港、製作工場、大牟田市街他)

四ツ山(荒尾)築港の様子

宮原坑(大牟田)の櫓と煙突

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