蔵出し!文書館 第49回


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蔵出し!文書館 収蔵する貴重な学内資料から 140年を超える東大の歴史の一部をご紹介 |
第49回 「大森貝塚」をめぐる文書たち
「柵内通行之節大森ステーション之近傍ナル鉄道線路ニ接近セル断崖ニ於テ稀在之古生物等ヲ発見いたし候」(S0004/10『諸向往復 明治十年分貮冊之内甲号』)。有名な理学部教授モースによるエピソードですが、当時の文書をみるともう少し込み入った状況がみえてきます。
遺跡発掘をめぐり、モースには同じ東京大学のナウマンや、外交官で考古学研究に関心の強いシーボルトというライバルがいました。東京大学は上記の言をうけ、1877(明治10)年9月に東京府と鉄道局に発掘を申請しますが、モースが線路柵越しに遺跡を見たのは6月、文面には焦りがみえます。「右発見候ハ全ク同氏ヲ以テ初メ」で、伝聞から採掘を願出る者があっても状態保護の観点から「暫ク本部〔東京大学〕ニ」限るよう依頼しました。さらに原稿段階では「同氏ノミニ」とあり、当初はモースに限定するつもりでした。
その後、鉄道局の全面協力のもと発掘はすすみ、12月に天覧に供する成果を上げました。しかし同じ時期、鉄道局から報告が入ります。「午前八時十九分横浜出発上リ列車ニテ外国人一名日本人両名同道大森停車場ヨリ下車」し、発掘場所へ行きたいと告げたため、駅長は氏名と東大の身分証を求めたところ、その人物は拒否、何も言わず線路外から遺跡にむかい発掘を始めます。駅長は所轄外の場所でもあり「強テ差止メ」るのも難しく、モースの採掘点ではない「近傍ヲ相穿」っていた旨を知らせました。東京大学はこの報に感謝し、今後も報告してほしいと返しています。さて、この外国人はいったい誰なのか…。
さてもう一点、「大森貝塚」の発掘地につき論争がありました(その名残に現在も2つの碑があります)。文書には当初「大森駅」付近であることから「大森発見古物」のように「大森」の地名が冠されました。しかし発掘場所は「大井村内字鹿島谷」とあり、隣の大井村域です(S0004/16『諸向往復 明治十一年分三冊之内丙號』)。この情報が交錯し、大学作成文書にも所在地「大森村」の誤記を「大井村」に修正したものが存在します。しかし上記の天覧の文部省通達には「大森村発見」とあり、次第に所在地情報が誤って伝えられる結果となりました。モースが線路内から発見し「大森駅」から発掘に行かなかったら、「大森貝塚」は「大井貝塚」だったのかも知れません。
(助教・秋山 淳子)