本書は、1985年から1987年にかけて『国家学会雑誌』に四回連載した拙稿「規範と法命題――現代法哲学の基本問題への規範理論的接近」を大幅に加筆修正して単行本にしたものである。この旧稿はまた、1980年2月末に東京大学法学部に提出した助手論文「規範と真理」を改訂したものである。
戦後の法哲学においては、価値相対主義 (value-relativism) と法実証主義 (legal positivism) ――正確には記述的法実証主義 (descriptive legal positivism)――が分析哲学の理論装置で再編されて優勢を誇っていた。研究人生の出発点において、私は、このような戦後法哲学の状況が、規範的な正義論の探究や法概念の規範的基礎の探究を法哲学の課題から排除することにより、法哲学を貧困化させていると考え、その克服を自己の課題にした。しかしまた、旧態依然たる自然法論や他の独断的法思想も不毛としか思えなかった。法哲学を再活性化させるには、むしろ、戦後の価値相対主義・法実証主義が依拠している分析哲学的思考資源、とりわけメタ倫理学 (meta-ethics) における両者の哲学的基盤をより深く掘り下げることによって両者を論駁し、分析哲学の厳密かつ精緻な理論水準を踏まえた上で規範的正義論 (normative theories of justice) と規範的法概念論 (normative theories of law’s nature) の可能性を擁護する必要があると考えた。
本書はこの狙いを達成するために、価値相対主義に連なる非認識説 (noncognitivism) を批判するだけでなく、自然主義 (naturalism)・直観主義 (intuitionism)・理由分析 (reason-analysis) など従来の認識説 (cognitivism) の欠陥・限界を克服する新たな認識説に立脚した規範理論 (a theory of norms) を、従来注目されてこなかったヘクトール・ネッリ・カスタニェーダ (Héctor-Neri Castañeda) の当為の意味論 (a semantic analysis of “ought”) に依拠して提示している。さらに、この規範理論に基づき、ハンス・ケルゼン (Hans Kelsen) やH・L・ A・ ハート (H. L. A. Hart) のような法実証主義者からロナルド・ドゥオーキン (Ronald Dworkin) のような反実証主義者に至るまで的確に解明できなかった「法命題 (Rechtssatz, propositions of law)」の謎を解明する理論を提示し、この新たな法命題の理論が、法の規範的存在性格 (the normative-ontological nature of law)、法と法学の関係、法と道徳の関係という法哲学の基本問題をいかに解明しうるかを考察している。
本書の刊行は、旧稿の雑誌連載完了から34年を経ており、「遅すぎる」という誹りもあろうが、メタ倫理学への関心が復活している現在、タイムリーな面もある。特に以下の点で、現在のメタ倫理学研究およびそれと直結する法概念論的研究に不足している点を補う意義をもつ。すなわち、(1)「合一説 (amalgamation theory)」という病巣の剔抉、(2)「語用論崇拝 (the pragmatics cult)」の倒錯の是正、(3) 指図主義 (prescriptivism) と普遍化可能性テーゼ (the universalizability thesis) を結合したリチャード・ヘアー (Richard Hare) のメタ倫理学説に対する徹底的な批判的検討、(4)「理由分析」の限界を克服する新たな認識説の探究、(5)「可能界の意味論 (possible-world semantics)」による規範様相 (deontic modality) の分析の成果と課題の検討、(6) 規範理論の刷新による法実証主義理論とドゥオーキン理論双方の限界を克服する法命題の理論 (a theory of propositions of law) の再構築、である。本書が若い世代の研究者を刺激し、メタ倫理学と法概念論の更なる発展に向けた議論に一石を投じることができれば幸いである。
なお、本書は旧稿本体に様々な加筆修正を加えているだけでなく、アルフレッド・タルスキ (Alfred Tarski)の真理論に焦点を当てて対応説的真理概念を再検討した私の未刊の長い論考を付説に掲げ、ドゥオーキンの最晩年の大著『ハリネズミの正義 (Justice for Hedgehogs)』で提示されたメタ倫理学全面否定論の批判的検討と、旧稿に対する安藤馨の批判への応答も後記で行うなど、内容を大幅に拡充しアップデート化している。
(紹介文執筆者: 法学政治学研究科・法学部 名誉教授 井上 達夫 / 2022)
本の目次
第1章 序論――法哲学の「躓きの石」と規範理論
第1節 法思考と規範
第2節 第一の躓きの石――価値相対主義の問題
第1項 「自然法論」対「法実証主義」論争における価値相対主義の位置
第2項 価値相対主義における非認識説の位置
第3節 第二の躓きの石――法の規範性と法学の規範性
第1項 法のヤヌス的存在性格――法は事実か規範か
第2項 法の「規範的妥当主張」――法は強盗の脅迫とどこが違うのか
第3項 在る法固有の規範性――H・L・A・ハートによる解明の失敗
第4項 法命題の謎――法の規範性と規範科学としての法学の存立根拠
第4節 方法と構成
第I部 規範
第2章 規範と言語
第1節 規範の存在論的身分
第1項 合一説――規範における「意味と指示」、「存在と妥当」の融合
第2項 合一説批判
第2節 言語行為の諸相と規範性
第1項 「意味」の意味――規範性分析における言語行為論の意義
第2項 真理概念の儀式化による言語行為論の迷走
――フレーゲに戻ってオースティンの理論的退行を正す
第3章 非認識説批判
第1節 情緒説の誤謬
第1項 心理操縦的パロキューショナリ・アクトへの価値判断の還元
第2項 価値判断の非操縦的意味――「意見」としての価値判断
第2節 指図主義の限界
第1項 影響造出から指針提示へ――イロキューショナリな相への視点転換
第2項 規範のロキューショナリな意味の独立性と非指図性
第3項 可能的・類的イロキューショナリ・アクト論への転換の無効性
第4章 命法・理由・規範
第1節 規範と命法
第2節 理由と規範
第1項 正しき出発点としての理由分析
第2項 理由分析の限界
第3節 普遍化可能性と規範
第1項 規範的判断の「付帯性」としての普遍化可能性
第2項 意味分析テーゼから実質的規範原理へ
――普遍化可能性テーゼの哲学的身元調査
第4節 命法の正当化と規範
第1項 分析の基本的指針
第2項 命法の意味論値としての「正当値」と規範
第3項 「一応の当為」の解明――指図主義の限界の克服
第4項 カスタニェーダ理論への補足と留保
第5節 本章の総括
第5章 規範と真理
第1節 規範と様相
第1項 可能界の意味論による様相論理学の再構築
第2項 真理様相への規範様相の還元の挫折
第2節 規範様相の意味論 (1) ――分析枠組としての規範的代替界
第3節 規範様相の意味論 (2) ――問題と展開
第1項 哲学的解釈の問題
第2項 条件規範の問題
第3項 義務の衝突、および一応の義務の問題
第4項 事態規範と行為規範
第5項 可能界の意味論に関する小括
第4節 真理概念の再定位
第1項 規範の真理値問題への真理論からの接近――二つの戦略
第2項 タルスキ真理論の<真義>を救出する
第3項 真理概念の世界指向性と存在論的包容性
第II部 法命題
第6章 法実証主義者の法命題の理論
第1節 還元主義
第2節 法命題と法規範――ケルゼンの二元的当為理論
第3節 ケルゼンの法命題の概念に対する救済的再解釈の試み
第1項 法的発話の使用と法的発話への言及
第2項 法創造的言語行為の再現
第3項 ある観点からの言明
第7章 R・ドゥオーキンの法命題の理論
第1節 ドゥオーキンにおける法実証主義批判の原点
第2節 「法命題の真理論」への展開
第3節 ドゥオーキン理論の限界と課題
第8章 法と法命題
第1節 法命題の意味論的構造
第1項 カスタニェーダ当為理論への法命題の統合
第2項 法的正当化の文脈の構造――ドゥオーキン理論の意味論的再編
第2節 再編された法命題の意味論の法哲学的含意
第1項 法と法学――「断絶か癒着か」図式を超えて批判的融合へ
第2項 法と道徳――法実証主義的「法道徳峻別論」の内在的超克
<付説> 対応説的真理概念再考
序
第1節 「事実の戦略」の破綻
第1項 説明項の問題性
第2項 ラッセルの対応説的真理論
第3項 「事実の戦略」のディレンマ
第2節 A・タルスキにおける真理論の意味論的再編
第1項 真理定義の適格性条件
第2項 真理定義の構成
第3節 タルスキ真理論の哲学的意義
第1項 問題の呈示と予備的考察
第2項 対応説的真理観の救済
(1) 「事実の戦略」の陥穽からの脱出
(2) 哲学的真理論争に対して中立か?
(3) 対応説とは異質か?
第3項 意味論的真理概念の形而上学的中立性と知的包容性
(1) 存在論と観念形態における中立性
(2) 方法論的純粋性と学問論的包容性
後記――先達の遺戒と後進の審問に応える
第1節 メタ倫理学は存在しないか?
――ドゥオーキンの規範倫理学一元論の検討
第1項 ドゥオーキンのメタ倫理学破産宣告
第2項 「日常的見解」に偽装されたメタ倫理学的野心
(1) 「日常的見解」の描像
(2) 「日常的見解」のメタ倫理学的問題性
第3項 外在的懐疑論批判のメタ倫理学的根拠
(1) 外在的懐疑論の類型学
(2) 非認識説批判における結論先取ファラシー
(3) 錯誤説批判におけるヒュームの原理への依存
第2節 相対主義か法道徳分断論が我が道か?――安藤馨への応答
第1項 自説に対する安藤馨の「本陣攻撃」
第2項 応答――「論弾」の精度と威力の測定
(1) タルスキの真理規約Tと非認識説
(2) 一応の当為の動機付与力と規範的比重
(3) 相対主義に帰着するのか?
(4) 法的当為は道徳的当為に下属不能か?
関連情報
シノドス・トークラウンジ: 法哲学の根本問題とは?――井上達夫『規範と法命題』を読む (SYNODOS 2022年5月7日)
https://synodos.jp/talklounge/27894/