かつての戦後日本政治は、「保守対革新」という対抗軸で性格づけられてきたが、共産主義・社会主義陣営の自壊により冷戦が終焉した後、社会主義的志向と結合していた「革新」という語が使われなくなった。そのため、世紀の変わり目あたりから、歴代自民党政権を支持してきた保守勢力と対抗する立場が「リベラル」の名で呼ばれるようになり、「保守対革新」に代えて、「保守対リベラル」という対抗軸が語られるようになった。しかし、党派政治の文脈を越えた思想的な意味で、保守とは何か、リベラルとは何か、両者の根本的な対立はどこにあるのかは、明らかではない。思想の曖昧さが諸政党の対抗図式の混乱も生んでいる。
本書は、思想漫画という独自のジャンルを開拓し「真の保守主義者」を自任する小林よしのり氏と、リベラルに「成り済ました」革新の欺瞞を批判し、正義理念を基軸にしてリベラリズムの哲学的再編に努めてきた私とが、天皇制と民主主義の関係、戦争責任と歴史認識、憲法九条問題と戦後思想の貧困という、戦後日本の三大テーマについて討議することにより、保守とリベラルの思想的核心、両者の対立点と共通点とを解明する試みである。
日本の自称保守・自称右翼は、平成天皇の意向を無視して皇室典範改正に反対し、対米追従姿勢を強める安倍政権を支持しているが、小林氏は彼らを「逆賊」や「バカ保守」と呼んで厳しく批判する。日本の自称リベラルは護憲派を名乗るが、私は彼らが政治的御都合主義で憲法を捻じ曲げ立憲民主主義を蹂躙している贋リベラルであることを厳しく批判している。小林氏も私も、左右の党派集団・運動団体がそれぞれの蛸壺に閉じこもり自勢力の固守拡大にのみ汲々としている日本の現状を批判し、一人一党の立場から自由かつ自立的に現代日本社会の問題と向き合い、対立者との対話を通じて思想的な自省を深めるという姿勢を共有している。小林よしのりVS井上達夫の対談は多くの人々にとって想定外だったかもしれないが、我々が共有している思想的姿勢から見るなら、自然の成り行きだったとも言える。
論点となった三大テーマについては、憲法九条問題で護憲派の欺瞞を批判し、安全保障における安倍政権の対米従属強化を日本の政治的主体性の放棄として批判する点、さらに権力を批判する思想言論の自由を徹底的に擁護しようとする点で、小林氏と私は一致している。天皇制については存続論の小林氏と廃止論の私は対立し、戦争責任問題についても、欧米列強の帝国主義的圧迫からのアジア解放という日本のアジア主義者の意図を重視して、日本の戦争責任を否定ないし限定しようとする小林氏と、欧米の戦争責任を追及する倫理的資格を日本がもつためにも、日本の戦争責任 (昭和天皇の戦争責任も含めて) の率直な承認が必要だとする私とは対立している。しかし、対立する論点についても、共通点が伏在している。小林氏が天皇制を擁護するのは、民主主義が多数の専制へと暴走するのを抑止することが必要だという私も共有する視点からである。違いは民主主義の暴走への抑止力を小林氏が天皇に求めるのに対し、私は立憲主義的人権保障にそれを求める点である。天皇・皇室の人権を侵害する現状を批判する点でも我々は一致している。戦争責任問題でも、自らの戦争責任を棚上げする欧米列強の欺瞞を批判する視点は共有している。
本書を読んだ小林ファンの読者から「リベラルにも井上達夫のようなまともな奴がいるのは発見だ」という感想が寄せられ、リベラル派の読者からは「小林よしのりは右翼だと思っていたけれど、意外にリベラルな面がある」という感想が寄せられたと聞いている。立場を異にする著者二人が真摯な対話を通じて保守とリベラルの相互理解を深化させるという本書の狙いは、ある程度成功したようである。なお、憲法九条問題については、「九条を削除し戦力統制規範を憲法に組み込む」というのが私の持論だが、本書ではこの持論をはじめて具体的な憲法改正案文の形で提示して展開していることを参考までに付記したい。
(紹介文執筆者: 法学政治学研究科・法学部 教授 井上 達夫 / 2017)
本の目次
第2部 歴史認識を問う
第3部 憲法9条と思想の貧困
関連情報
三浦瑠麗『プレジデント』2017年1月30日号
中野 翠『サンデー毎日』2017年2月1日号