日本社会で生きる私達にとって漢字は仮名同様に毎日接する文字と言ってよいでしょう。漢字を適切に使うことで日本語の表現は豊かで彩りのあるものになります。一方で、絶対的多数の人々にとって漢字は教育の場で学習するものであり、そこでは往々にして字体・字音・字義という三つの側面について「規範」を受け入れることが求められます。筆画一つを取っても、試験で点画の違いに神経を尖らせた方は少なくないはずです。画一的な教育の場で学習する漢字は制度化されているのです。
ところが、そうした固定的な様相と相反して、漢字は生産的、可変的、有機的な特性を有する文字でもあります。歴史的に字体の新造は続いてきましたし、その過程では異体字や俗字が出現しました。また、漢字文化圏の東西南北では漢字に影響を受けた独自の字体も生まれてきました。「畑」や「辻」は日本で、「𡗶」や「𠀧」はベトナムで創られた字体です。そして、字体の新造や独自の文字現象には、構成要素を一つの字体に纏める「造字法」の存在が強く関わっています。本書は、こうした「文字としての漢字の本質」を「漢字系文字」という大きな枠組みから総合的に論じることを試みています。
本書の言う「漢字系文字」とは、本源たる漢字はもとより、漢字に影響されて創製された文字体系、そして漢字と異なる文字体系に入り込んだ個別の漢字まで含めた総称です。そこには、西夏文字という文字体系や、(本書では取り上げませんが) 象形文字・表語文字である「ナシ象形文字」の中に借用される漢字の字体まで含めています。
序章では、伝統的な文字史研究が抱える偏向とその背景について述べ、日本から「漢字系文字」について声を上げることの意義を論じます。第1章では、中国語の内なる他者とも言える非主流派の諸言語──特に広東語と福州語──を表すために新造された字体について、19世紀の文献を基礎資料として述べます。第2章では、中国語とベトナム語の間に分布する諸言語の中で最大の人口を誇るチワン語 (壮語) の「古壮字」を取り上げ、造字法の分類を試みます。第3章では、ベトナム語を表記するために20世紀中頃まで使用されたチュノム (字喃) を取り上げ、その造字法に基づく分類や各造字法の出現頻度、造字プロセスについて述べます。第4章では、11~13世紀に中国西北部を支配した西夏国で制定された西夏文字を取り上げ、体系性、文字機能、派生字、合成字などについて述べます。第5章では、日本製漢字と朝鮮製漢字を取り上げ、その歴史、造字法、本源たる漢字との関係について述べます。終章では、以上5種類の漢字系文字に対して様々な角度から横断的比較を行い、共通点と相異点を明らかにします。この種の横断的比較としては、文字種、項目ともに類を見ない多さを誇ります。
本書の執筆陣は漢字系文字を通して、最終的には「人間にとって文字とは何か」というグローバルな視座を必要とする問いへと進みたいと考えています。本書を手に取った皆さんと、共に考える機会が得られることを願っています。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科・教養学部 教授 吉川 雅之 / 2022)
関連情報
日本漢字学会
https://jsccc.org/
刊行記念イベント:
公開ワークショップ「漢字系文字の世界」 (オンライン [アジア文字研究基盤の構築 (2)] 2022年6月12日)
http://www.aa.tufs.ac.jp/images/events/sinoformscripts_28811.pdf
関連イベント:
「漢字系文字の世界――漢字の歩みと広がり」 (オンライン [東京外国語大学オープンアカデミー] 2022年10月07日~2022年11月11日 (全6回) )
https://tufsoa.jp/course/detail/1772/