私たちが日本にいながら楽しめる食材は極めて国際的である。それを物語るように、日本の食料供給の外国依存率も62%と高い。なのに、コロナ禍で人の移動こそ制限されても、私たちの食生活はそれほど変化していないのは驚くべきことだろう。フィリピンのバナナも、フランスのチーズも、ブラジルのコーヒー豆も品切れになっていない。強いてニュース沙汰になったのは、フライドポテト用のじゃがいもが不足して、ファーストフードの店でフライドポテトが買えなくなったことくらいだろうか。他国で味わい持ち帰る食材、人が移住して様変わりする料理など、人や物の移動によって、わたしたちの食は変容し、豊かになる。
『食と移動の文化史――主体性・空間・表象をめぐる抗い』は、食と移動にかかわる人々の主体性に目を向け、文化史的な観点から考察したものである。フランスの社会学者アンリ・ルフェーヴルが『空間の生産』の中で「空間とは (社会的) 生産物である」と論じているが、食をめぐる社会空間がどのような社会構造を反映し、また社会構造への抗いを起こす場として機能したかを19世紀から20世紀前半に生きていた環太平洋の人々の日常的な食の営みから事例を引き論じたのが本書である。
本書の特長は、食の歴史を紐解くにあたって国家、国境ありきの歴史的視座からの脱却を目指したところである。日本料理、イタリア料理、韓国料理の歴史というように、国家、国境ありきの歴史的視座を用いた食の研究はこれまでなされてきた。国家単位で語られる食の歴史研究は、どうしても国境の内と外で起こる食の営みを本流と傍流に区分したくなる。しかし、異なる文化の人から教えてもらった目新しい食材を日ごろ作っている料理に試しに使ってみるという行為は、傍流や我流と蔑む必要はなく、これら食の営みは国家が管理できるものではない。人間を中心に据えた時に、どのような日常の食の歴史が書けるか、というテーマを本書では追究した。
例えば、明治時代に北米で日本茶ブームが起こったが、船貿易、陸路運輸に堪えられるように製茶の再加工が必要だった。その加工に関わった女工たちは、外国人居留地の茶場でどのような労働現場にいたのか。また北米で日本茶は白人女性たちにどのように消費されていたのか。このようなことを小澤智子は調査した。北脇実千代は日系二世の女性たちが、アメリカで日本料理をどのように学び、またそれがどのようなジェンダー規範、社会規範との文化交渉を意味したのか、論じている。小澤は、アメリカで生まれ育った日系二世の女性たちが日本への留学中に日本料理をどのように表象したか、卒業制作プロジェクトの料理本を史料に考察している。北脇は、ハワイのさとうきびプランテーションで移民たちがどのように食の交流をしたか、オーラルヒストリーの証言を史料に解いている。そして板津木綿子は、1920年代ロサンゼルスのピクニックの習慣に目を向けた。たわいのないことのように思えるピクニックが、南カリフォルニアの文化となる過程を写真や新聞記事をもとに書き起こし、かつ、ピクニック文化の政治性を解明した。
(紹介文執筆者: 情報学環 教授 板津 木綿子 / 2023)
本の目次
第2章 戦前の日本人移民社会における料理講習会に関する考察 (北脇実千代)
第3章 ハワイにおけるプランテーション住民の交流――食文化を中心に (北脇実千代)
第4章 茶をめぐる歴史――人びとの移動と文化の創出 (小澤智子)
第5章 日系アメリカ人女生徒がつくった料理本にみる「ジャパニーズネス」(小澤智子)
関連情報
徳永悠 評 (『移民研究年報』第28号 2022年6月25日)
https://www.akashi.co.jp/book/b608390.html
松永京子 評 (『アメリカ学会会報』No. 208 p. 13 2022年4月15日)
https://www.jaas.gr.jp/doc/newsletter/208.pdf