平成28年度東京大学学部入学式 教養学部長式辞

式辞・告辞集 平成28年度東京大学学部入学式 教養学部長式辞

 

新入生の皆さん、私はまず、皆さんが多くの難関を乗り越えて、このたび東京大学で学ぶ機会を得られたことを、心から祝福いたします。また、ご両親をはじめとするご家族の皆様にも、お祝い申し上げます。皆さんはこれからの少なくとも2年間を、駒場にある教養学部で過ごすことになりますが、私は、教養学部に所属する教員および職員を代表して、夢と期待に胸を膨らませてやって来る皆さんを、心から歓迎いたします。

皆さんがこれから過ごす教養学部での2年間は、東京大学では前期課程と呼んでいますが、そこでリベラル・アーツ、すなわち、教養教育の基本的な理念に基づく幅の広い一般基礎教育を受け、その間にさまざまな可能性を模索しながら、自分の専門を決めて、後期課程の学科に進学していきます。専門を決めて入学した人たちも、同じ教育を受けながら、自らの選択の再確認と専門への準備をします。

その教養学部での2年間は、これをどう過ごすかによってその後の長い人生が変わると言ってもよいほど、大切な期間です。その間に皆さんは、自分が本当に喜びをもって深めていけるものを見出してください。と言われても、そもそも、自分が本当は何が好きで、何をやりたいのかもわからないという人も少なくないと思います。しかし、それは、まったく心配することではありません。それどころか、むしろ当然のことです。なぜなら、皆さんのこれまでの人生経験も、学んできたことも、ごく限られたものに過ぎないからです。

教養学部に入られた皆さんはまず、自分の世界を拡げる努力をしてください。それは、できるだけ広い学問分野に触れ、その中に入り込み、迷いを重ねることです。この努力は、すでに進路を決めたつもりの人にとっても必要です。自分の世界が拡がると、それまで当然のこととして決めていた自分の進路を見直すことになる可能性もあるからです。教養学部は、皆さんのその努力を、さまざまな形で強力に後押しします。それが、教養学部におけるリベラル・アーツ教育です。

皆さんは、これからさまざまな授業に参加し、また、課外活動にも勤しむことになりますが、その際に心に留めていただきたいことがあります。それは、自ら直接体験することの大切さです。私はこれを俗な言い方ですが「生(なま)の体験」と呼び、これに対して書物や画像や音声記録などのいわゆる「メディア」を通して得る体験と、はっきり区別しております。その分かり易い例が、音楽の聴き方です。現在では音楽の演奏はCDやネットを通して聴くことが非常に多いのですが、同じ演奏者による同じ曲であっても、生の演奏を聴くと、その迫力や味わい深さに驚くほどの相違があるのに気づかされます。これは、音楽好きの人ならば誰でも知っていることです。

私にはこのことに関しまして、深刻な経験が一つありますので、ついでにご紹介しておきます。私の父は、晩年になって認知症を患ってからは、かつて繰り返し聴いていたお気に入りの曲でさえ、機械で再生したものには反応しなくなりました。ところが、老人ホームの広間で私がピアノを弾きながら歌を歌ったところ、それまで不機嫌に黙っていた父が、笑みをたたえて、かつての父のように上機嫌で話し始めました。同じ広間で聴いていた認知症の他の人たちも、生き生きとしゃべり始め、「ふるさと」や「七つの子」などを一緒に歌うこともできました。父は、私が帰るまで、ご機嫌でした。

その一週間後、私は、また同じ人たちの前で歌いました。歌う前は、前回と同じように、誰もが無表情に押し黙っていましたが、歌い始めると、会場の雰囲気が一変し、一曲歌い終わると、不機嫌であった父も、上機嫌でしゃべり出しました。前と全く同じことが起こったのです。

私は、生の音楽のもつ力に圧倒されました。音楽には人の心と心を深く結びつける力がありますが、それが生まれるのは、音楽が奏でられるその現場で、同じ音を聴き、同じ空気を吸い、同じ空気の揺れを、歌い手と聴き手がともに感じるからこそであると実感しました。

「生」が大切なのは、教育の場で行われる授業も同様です。つまり、授業にはその場に出席して直接体験することが極めて大切であるということなのですが、しかし授業における「生」のありがたさは、音楽ほど簡単には分かりません。というのは、授業の主目的が当該分野の知識体系の教授にあるとすると、それには必ずしも授業を受けることが必要とは言えないからです。たいていの授業は、その内容がすでに本に書かれていますし、簡単に手に入る講義の動画も増えていますので、そのような本や動画を使って勉強すれば、むしろ、その方が授業に出るよりも効率よく学べるかもしれません。そうだとすると、いったいどうして大学では授業が行われるのでしょうか?少なくとも、なぜ、授業には出席した方がよいといえるのでしょうか?

その理由の一つは、授業で説明を受けた方が理解しやすいことです。一人で本を読んでいても理解できなかった難解な内容が、授業で明快な説明を受けたら、すっと理解できたという経験は、きっと皆さんもおありでしょう。

もう一つの理由は、授業に出席すると、それが担当教員と深い心のつながりが生まれる機会となりうるからです。そのことがよく分かるのは、中高生のときに、ある科目が好きになった理由として、その科目担当の先生が好きだったことを挙げていることです。

東京大学の多くの教員は、それぞれの専門分野の学問の構築に関わってきた研究者です。そのような研究者は、授業においては、単に知識を授けるのではなく、一つ一つの内容について、自身の思いを込めようとするものです。その思いが聴き手に伝わったときに、教員と聴き手の間の心のつながりが生まれます。それが聴き手の間でも共有されることもあります。それは、聴き手である学生にだけでなく、教員にとっても、自らの学問を豊かにし、新たな発見の契機ともなりうるものです。それこそが、「生」の授業の力であり、大学で授業が行われる意義なのです。

授業には学生と教員との相性もあり、また、教員と学生の興味のもちかた、あるいは、必要とされる予備知識のレベルの不一致などのために、個々の学生にとって、深く感動できるような授業はごく限られたものになるでしょう。しかし、教養学部では多様な授業が数多く開講されています。その中から、一つでも心に残る授業に出会えたら、それを通して生涯の師が得られることが期待できるのです。

「生」の体験が大切であることは、課外活動についてはもっと分かりやすいでしょう。教養学部では、伝統的に学業だけでなく課外活動も重視されており、きわめて多様な活動が盛んに行われていますが、共通しているのは、誰もが好きなことに打ち込んでいることです。好きなことに没頭するときに得られる高揚感は、生きる喜びそのものです。また、好きなことに徹底的に取り組み、努力していけば、やがてそれは、自分だけではなく、他の人にも喜びをもたらせるようになることも分かるでしょう。

たとえば、スポーツや音楽演奏は、最初のうちはなかなかうまくできません。それでも、困難を一つ一つ克服してゆくのはとても楽しいものです。努力を重ねてある程度上手にできるようになってくると、自分だけでなく、それを見たり聴いたりしてくれる人にも楽しんでもらえるようになります。これは、他の人との間で深いレベルのコミュニケーションが成立し、それによって喜びが生まれることを意味しています。そして、これはまさに自ら直接体験するからこそ実現できることです。

自分の思いが深いレベルで他者と共有される喜びは、創造を伴うあらゆる営みに共通します。自然科学、人文科学、社会科学を問わず、研究の喜びは、自分が発見したことの面白さを伝え、それが共有してもらえることにあります。教養学部において課外活動も重視されている理由はここにあります。

最後に触れておきたいのが、教養学部における友人との「生」の付き合いの大切さです。東京大学の学生は、広範囲にわたって潜在能力が高く、学業に優れているだけでなく、それ以外の才能にも恵まれた個性豊かな人たちが大勢います。ここにいる皆さんは、やがて、それぞれの専門分野の第一線で活躍されることになりますが、大きな可能性を秘めた皆さんが、将来の進路が決まる前の段階で知り合い、親しくなることができる場が教養学部です。夢と期待で胸を膨らませながらいっしょに入学してきた皆さんが駒場で育んだ友情は、きっと生涯にわたって続くでしょう。

皆さんが、駒場にいる間に、多くの「生」に触れることを通して、良き師と良き友に巡り会うとともに、自分が本当に喜びをもって深めてゆけるものを見出して、その道に進むに十分な基礎を養われることを心から願い、私の式辞といたします。

 

平成28年(2016年)4月12日
東京大学教養学部長  小川 桂一郎

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