2022年、東京大学は「東京大学ダイバーシティ & インクルージョン宣言」を定めた。この宣言によって、東京大学の活動において「多様性が尊重され包摂される公正な共生社会の実現を促していける」ことが目指されている。
この宣言のように、近年、ダイバーシティの推進がすすめられている。そこには、人種・エスニシティ、ジェンダー、セクシュアリティ、障害、年齢などの点で多様な背景をもつ人びとが協働することは社会を豊かにするという含意がある。企業などでも、ダイバーシティの推進は生産性を高め、イノベーションを促すと肯定的に捉えられ、奨励されるようになっている。
一方で、ダイバーシティをめぐる研究では、ダイバーシティの奨励が構造的な差別や不平等・格差を不可視化させる効果をもつことが論じられてきた。たとえば、BLM (ブラック・ライブズ・マター) 抗議運動が提起した制度的な人種差別も、企業によるダイバーシティの配慮と活用へとすり替えられてしまっている現実があるという。本書の編者である岩渕功一は、こうした現象を念頭におきながら、ダイバーシティの奨励という文脈では、しばしば、文化的、経済的にプラスになる差異は肯定的に語られる一方で、「制度化・構造化された不平等、格差、差別の問題」が置き去りにされる危険性を指摘する(p. 16)。また、経済的な生産性と結びついたダイバーシティ推進が、新たな排除や不平等を生み出すこともある。
本書は、LGBT / SOGI、多文化共生、フェミニズム、生活保護など具体的なトピックとの関係で、ダイバーシティ推進がもたらす副作用、あるいはそれが「見えなくさせるもの」に焦点を当て、その取り組みを批判的に検証することを目指している。こうした視点は、ダイバーシティ自体が重要ではないから採用されるのではもちろんない。むしろダイバーシティ推進の取り組みが「より平等で包含的な社会の構築に向けて展開するためには、見落とされている根源的な問題」(p.18) に目を向ける必要があるのだ。あわせて本書は、当事者研究会や「共生のフィールドワーク」、アート / ミュージアムにおける実践に着目することによって、安易なダイバーシティ奨励を乗り越える方途を探る。
本書の議論が示唆するのは、ダイバーシティ言説や実践がどのような意味や効果をもたらすのかは、あらかじめ決められているわけではないということだ。果たして東京大学のダイバーシティ & インクルージョン宣言はどのような帰結をもたらすだろうか? ダイバーシティを批判的に検証する視点を提示する本書は、自らの足元を見直す知の実践への誘いでもある。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 准教授 髙谷 幸 / 2022)
本の目次
1 BLMとD&Iの取り違え
2 「多様性 / ダイバーシティ推進」が見えなくするもの
3 日本での多様性 / ダイバーシティ推進
4 多様性との対話
5 誰もが生きやすい社会に向けた横断的連携
6 インターセクショナリティと連帯の可能性
7 学び (捨て) の実践
第2章 ダイバーシティ推進とLGBT / SOGIのゆくえ――市場化される社会運動 新ヶ江章友
1 ダイバーシティ推進とは何か
2 経営学におけるダイバーシティ・マネジメントとは何か
3 ダイバーシティ・マーケティングとLGBT / SOGI
4 LGBTマーケティングと人権問題への意識
論点1 多文化共生がヘイトを超えるために 塩原良和
第3章 移民・多様性・民主主義――誰による、誰にとっての多文化共生か 髙谷 幸
1 多文化共生をめぐるこれまでの批判
2 多文化共生をめぐる問い――「何」から「誰」へ
3 誰にとっての多文化共生か
4 移民にとっての多文化共生か、地域にとっての多文化共生か
5 誰による多文化共生か
第4章 生活保護言説における「日本人」と「外国人」を架橋する 河合優子
1 生活保護制度の歴史と現状
2 生活保護言説と「日本人」
3 生活保護言説と「外国人」
論点2 メディア研究における「ダイバーシティ」の現在 林 香里
第5章 「生きづらさからの当事者研究会」の事例にみる排除の多様性と連帯の可能性 貴戸理恵
1 「個人化・リスク化した排除の苦しみ」としての生きづらさ
2 当事者研究での個別性・多様性と共同性のつながり
3 多様性に立脚したつながりとは何か
第6章 「同じ女性」ではないことの希望――フェミニズムとインターセクショナリティ 清水晶子
1 「#トランス女性は女性です」
2 インターセクショナリティ
3 「交差」の誤解
4 同じではないことの連帯
論点3 みえない「特権」を可視化するダイバーシティ教育とは? 出口真紀子
第7章 共生を学び捨てる――多様性の実践に向けて 小ヶ谷千穂
1 「共生のフィールドワーク」という授業について
2 体当たりの邂逅――「正しい共生」のプレッシャーからの解放?
3 距離をとられる、という経験――自らのまなざしに気づく
4 ミックス・ルーツの学生の経験――自分自身を問い直す
第8章 アート/ミュージアムが開く多様性への意識 村田麻里子
1 多様性の砦としてのアート / ミュージアム
2 多様性の奨励とその課題
3 アート / ミュージアム実践が投げかける問い
論点4 批判にとどまらず具体的に実践すること 松中 権[インタビュー聞き手:岩渕功一]
あとがき 岩渕功一
関連情報
【新刊試し読み】岩渕功一 編著『多様性との対話』「第1章」を公開します! (青弓社 | note 2021年3月18日)
https://note.com/seikyusha/n/n9b66b711d47b
書評:
近代ナリコ 評 (『日本海新聞』 2021年4月30日)
https://www.nnn.co.jp/
書籍紹介:
話題の本棚「多様性のある社会」ってなんだ? (京大生協『綴葉』No.399 2021年7月)
https://www.s-coop.net/about_seikyo/public_relations/images/teiyo-399.pdf
小ヶ谷千穂教授が、コミュニケーション学科「共生のフィールドワーク」についての論考を『多様性との対話~ダイバーシティ推進が見えなくするもの』に寄稿しました (フェリス女学院大学ホームページ 2021年3月30日)
https://www.ferris.ac.jp/news/2021/03/941.html