事務というと何が思い浮かぶだろう。事務仕事、事務能力、事務所、事務机……。こうした言葉から連想されるのは何より仕事や作業の場であり、そこには道具もついて回る。昔ならソロバンと鉛筆。その後はファックスとか、指先にぴったりはめるあの小さなゴムとか、茶色い封筒とか。その後はパソコン、プリンター、USB、QRコードなど。息が長いのものもある。給茶機、ホワイトボード、付箋。もうひと押しすれば、透明のビニール傘が何本も挿ささった傘立てとか、個包装のカントリーマアムとか、あるいはデスクの引き出しの隅に転がった十円玉や一円玉が転がったデスクも、事務っぽい。
誰もが心に「事務センサー」を持っている。しかし、いつセンサーが反応するかは個人差がある。私の場合、とくにセンサーが働くのは「添付ファイル」だ。届いたEメールに添付ファイルがくっついていると、事務モードを感知してたちまち心は陰る。添付物をクリックしてから開くまでの零コンマ数秒は「悪魔の間」だ。目は輝きを失い、頬はどろんと垂れ下がり、気持ちは白濁する。
もちろん事務に罪はない。私も人に添付ファイルを送りまくっている。他ならぬこの原稿も、ワードの添付ファイルで担当の齋藤さんに送ったものだ。添付ファイルには、苔のように事務成分が張り付く。私は齋藤さんに事務苔を送りつけたのである。
いったい誰が悪いのだろう。どこに悪者がいるのか。そもそも事務は「悪い」のだろうか。加害者なのだろうか。ならば被害者は一体誰だというのか。事務がいったい何をしたというのだ!
というわけで、このささやかな思弁からもわかったように、私は本書を通し、現代の社会で不当に軽視され、嫌がられ、ときには蔑まれさえしてきた事務の営みについて、再考したいのである。可能であればその汚名を晴らしたい。汚名どころか、事務には美名がふさわしいのではないか。事務は魅惑の世界への入り口ではないのか。事務は人類の知恵であり、救いなのだ。事務のおかげでこそ、私たちは今、このように暮らすことができる。事務は文化と文明の担い手だ。広大な事務の楽園では、事務の子羊や事務の兎が駆け回る。何と甘美な光景だろう。思わず目頭が熱くなる。
少し褒めすぎた。事務はそこまで甘美なものではない。私たちは事務の現実を知っている。事務は面倒くさく、複雑で、抑圧的だ。事務を前にして、私たちはいつも「しまった!」と言わされる。それが私たちの宿命なのだ。そんな事務の現実を見据えながら、それでも私たちが事務にとりつかれてきた、その跡をたどってみよう。人類と事務の間に、いったい何があったのだろう。
(「はじめに」より)
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 阿部 公彦 / 2024)
本の目次
目次
第1章 漱石と大日本事務帝国
第2章 事務の七つの顔
第3章 事務処理時代の「注意の規範」
第4章 『ガリヴァー旅行記』の情報処理能力
章5章 失敗から考える事務処理
章6章 身体儀式と事務の魔宮
第7章 事務を呪うディケンズ
第8章 鉄道的なる事務
第9章 エクセル思考で小説を書く
第10章 事務の「感情」を考える
第11章 事務に敗れた三島由紀夫11 303 第 章
第12章 事務と愛とバートルビー
おわりに
関連情報
事務能力の奥深さ 英文学者・阿部公彦 (日本経済新聞 2024年3月28日)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD21A110R20C24A3000000/
事務は踊る 英文学者・阿部公彦 (日本経済新聞 2024年2月1日)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD263XX0W4A120C2000000/
「事務」は面倒で抑圧的な悪者か、それとも人類の知恵であり救い主か?事務から「人間」を考察する (現代ビジネス 2023年10月07日)
https://gendai.media/articles/-/117187
阿部公彦「事務こそ人生。現代社会で生き延びるための必須条件、「事務」と人間の関係をとことん考察する」 (現代ビジネス 2023年9月22日)
https://gendai.media/articles/-/116433
対談:
阿部公彦×楠木 建「事務を知れば、世界の神経構造が分かる」 阿部公彦(東京大学教授)×楠木 建(一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授) (中央公論.JP 2024年7月10日)
https://chuokoron.jp/culture/125319.html
書評:
楠木建 評「「事務」というレンズを通した人間観察」 (『日経ビジネス』 2024年8月5日号)
https://business.nikkei.com/atcl/NBD/19/culture/00291/
渡辺祐真 評「なぜ「事務的ミスの積み重ね」と述べれば、裏金が許されるのか?話題書『事務に踊る人々』を読む」 (現代ビジネス 2024年2月19日)
https://gendai.media/articles/-/124286
星野太 評 (artscape 2024年2月5日)
https://artscape.jp/report/review/10190055_1735.html
小澤英実 評「「注意の規範」が生む豊かな世界」 (『朝⽇新聞』 2024年1月6日朝刊 [p. 22])
https://book.asahi.com/article/15103124
https://www.asahi.com/articles/DA3S15832215.html
中条省平 評「事務と文学の危険な関係」 (『群像』 2024年1月号 [pp. 490-491])
三宅香帆 評「あの作家たちも、事務に苦しめられていた?」 (『ダヴィンチ』 2024年1月号 [p. 74])
磯前大地 評「事務仕事は得意ですか?…考えるだけで暗い気持ちになるあなたに読んでほしい魅惑の「事務」本」 (現代ビジネス 2023年12月19日)
https://gendai.media/articles/-/120701
佐々木敦 評「秘密に迫る 知的興奮」 (共同通信配信 2023年11月26日)
仲俣暁生 評「「事務に追われること」への嫌悪感は高まっているが…実は入り組んでいる、事務と文学の“意外な関係”」 (『週刊文春』 2023年11月16日号)
https://bunshun.jp/articles/-/66923
武田裕藝 評「事務 前向きに捉え直す」 (『読売新聞』 2023年11月11日夕刊 [p. 5])
三宅香帆 評「「事務と文学」の不思議な関係を解き明かし、私たち自身を知るための名著『事務に踊る人々』」 (現代ビジネス 2023年11月10日)
https://gendai.media/articles/-/118793?page=1&imp=0
森永卓郎 評「週末オススメ本ミシュラン」 (『日刊ゲンダイ』 2023年11月5日朝刊)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/331566
鴻巣友季子 評「近代人の本性は「凝視」にあり」 (『日本経済新聞』 2023年11月4日朝刊 [p. 18])
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD254ND0V21C23A0000000/
「現在の周辺:「事務」と文学の意外な接点」 (『毎日新聞』 2023年10月30日夕刊 [p. 4])
https://mainichi.jp/articles/20231030/dde/014/040/006000c
#170 注目の新刊/『乱数』『数の値打ち』『謝罪論』『近代美学入門』『事務に踊る人々』『パピルスのなかの永遠』ほか (哲学の劇場 | YouTube 2023年10月20日)
https://www.youtube.com/watch?v=dwojQipDN6A
大村紋子 評「地味で冴えない存在の奇妙な磁場」 (建築討論 2023年10月20日)
https://medium.com/kenchikutouron/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E3%81%AB%E8%B8%8A%E3%82%8B%E4%BA%BA%E3%80%85-2a75893d33cb
和合亮一 評「日々の雑務と「文学」の関係」 (『産経新聞』 2023年10月7日朝刊)
https://www.sankei.com/article/20231007-IGOT6J466NP6TCZB3XQEPZ7IUM/
メディア出演:
「第四夜「本を読めない?」時代の読書論@丸の内」 (プラッと|NHKラジオ 2024年11月12日)
https://www.nhk.jp/p/rs/MPZ6XPWMV5/episode/re/PYLZ971NRK/
「著書紹介 インタビュー」 (マイあさ!著者からの手紙|NHKラジオ 2023年11月26日)
https://www.nhk.jp/p/my-asa/rs/J8792PY43V/episode/re/Y61139JJZR/
イベント:
『事務に踊る人々』(講談社)刊行記念トーク 阿部公彦×飯間浩明~事務と人間を「言葉」からひもとく」 (丸善ジュンク堂書店池袋本店 2023年10月11日)