平成13年度入学式総長式辞

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式辞・告辞集 平成13年度入学式総長式辞

式辞

国立大学法人東京大学総長 佐々木 毅
平成13年(2001年)4月12日

 

本日ここに21世紀最初の入学式を迎えられた三千余名の皆さんに対し、東京大学を代表して心から歓迎の意を表する次第であります。
さて、皆さんはそれぞれに喜びや希望をもって今日を迎えたと思いますが、皆さんを取り巻く社会状況はそれこそ予断を許さないものがあります。この数年、今まで盤石の基盤を持っていたかのように思われてきた幾多の企業や組織が消滅し、歴史の猛烈な渦巻きにわれわれの生活が巻き込まれつつあることを皆さんも実感していると思います。この歴史の渦巻きは静まるどころか、これまでの仕組みの有効性は失われ、しかも、社会の精神的エネルギーや人材の力量や能力に対する深刻な疑念が高まり、「日本は危機にあり」という実感はますます深まっているように見受けられます。その結果として、政策の変更や仕組みの改革を越えたもっと根本的な変革、人間のあり方の変革が必要だとの認識が深まっています。昨今の教育に対する関心の高まりの背景にはこうした危機感が確実に存在します。
従って、皆さんはこの数十年間なかったような古い秩序の終わりと歴史の「裂け目」を実感しつつ、入学式を迎えたということになります。こういう中でどのように人生の舵取りを進めていくかは、われわれ全てがそれぞれに考えなければならないテーマですが、特に、皆さんにとっては絶対に避けて通れないテーマであります。
これまで世間では東京大学に入学し、卒業することは将来の安定を保証するものだといったものの見方が流布してきたように思われます。しかし、歴史の「裂け目」が牙を剥き、組織を次々と呑み込むような状況の中では、東京大学を卒業しようと、もはや一生の安定が保証される時代でないことは明らかであります。従って、皆さんに求められるのは先のような世間の俗説に支配されることなく、原点に立ち返って徹底的に今後の人生について考えることを今日から早速始めることだと思います。そこで基本的に求められるのは安定のために安定を求める「安住の精神」ではなく、これからの新しい社会の形成に具体的な場で積極的に取り組む「挑戦の精神」であります。「安住の精神」は「日本の危機」を長引かせ、社会的な閉塞感を増大させ、新しい展望を切り開く上で大きな障害となりつつあります。これから人生を本格的に歩み始める皆さんにとっては「安住の精神」は何物も与えてくれませんから、「挑戦の精神」をエネルギーに自らの進路を切り拓いていく以外に選択肢は基本的にないと思われます。東京大学は皆さんが自らの「挑戦の精神」を試し、鍛えるのに応答するだけの十分な人材と環境を備えていることは保証できます。皆さんに求めたいのは、そうした環境を使いこなす意志と気力です。
20世紀の日本は終わりました。それは暦の上で終わっただけではなく、その社会の実態においても終わりました。国家を中心に組織の網の目が張り巡らされ、そのどれかに属することによって安定を享受するという仕組みは今や切り裂かれ、財政の巨額の赤字が示しているように政府の将来に対してすら警戒信号が点滅している有様です。この10年近く日本は諸々の改革を実行してきましたが、その成果は極めて不徹底なものだとしかいえませんでした。そして、21世紀の日本は仕組みの大改革と組み替えを行ないながら、新たな展望を確固としたものにしていかなければならないことはこれまた明らかであります。問題はそれに必要な人材と精神的なエネルギーをどのようにして調達できるかという点にあります。現在のところ、「安住の精神」と「挑戦の精神」との闘いはさながら拮抗状態にあるように見受けられます。こうした状態が続いているのは構造改革そのものが極めて巨大であり、一世紀にそう何回もないような大規模なものであるからであります。そこには多くの人間的な犠牲も伴わざるを得ません。しかし、努力と工夫によって犠牲を出来るだけ少なくすることは可能です。他方で、安定のために安定を求める態度は目先の犠牲に敏感であっても、実際には将来において巨大な犠牲を払わざるを得ないような墓穴を自ら掘っているとも言えるわけです。ここでわれわれは二つのことを確認しなければなりません。第一に、どのような社会秩序もその存続能力には限界があること、安定は安逸を生みだし、安逸は堕落と解体につながり、どこかで再び「挑戦の精神」による社会の建て直しが必要になるといった一種の社会的循環が厳然としてあるということです。これは古来の賢人たちがそれぞれに指摘してきたところです。第二に、社会がどのような運命を辿るかは、結局のところ、そこに生きる人間たちの精神の持ち方に帰着するということです。歴史には多くの偶然がつきまといますが、こうした基本を忘れることは許されません。
こうした中にあって将来の世代の教育を引き受ける日本の教育機関、特に、大学の責務は実に重いものがあります。大学はこれまでのように社会秩序の安定性や有効性に頼って自らを設計するわけには行きません。むしろ、その建て直しに必要な人材の供給が任務となります。この点で東京大学としても是非とも応分の責任を果たしたいものだと思っております。東京大学としては、新世紀冒頭のこの歴史的な大転換に際し、良質な「挑戦の精神」の持ち主を数多く輩出し、更には、先駆的な役割を実際に果たすような人材を各方面に供給すること、それによって日本や世界に貢献できることは何よりも喜びとするところであります。それは内外の社会と東京大学との関係が新しい歩みを始めること、その関係がより幅広く深いものとなることを意味するからです。その意味で皆さんにかかる期待はとりわけ多大なものがあります。
こうした大枠を踏まえて皆さんがこれから東京大学で取り組むべき課題についてより具体的に考えてみたいと思います。それは一言で言えば、「基本に帰る」ということです。現在の「日本の危機」の根本原因としては基本が見失われ、気休めと先送り、「安住の精神」で物事を処理しようとするリアリズムの深刻な欠如をあげることができます。皆さんは絶対にこの轍を踏んではなりません。「基本に帰る」ということは、物事の本当の姿を冷徹に見極める精神的な意味での実力を身につけるということに他なりません。これは一生の課題だとも言えますが、若い時代にこうした努力と自己訓練を行なったかどうかがその人間の資質に決定的な刻印を残すことだけは断言していいと思います。
問題はその実力の中身です。昨今、ジャーナリズムの世界を中心に「学力低下」問題が議論の焦点として浮上して来ました。この問題自身、そう簡単には議論できない問題を含んでいます。しかし、例えば、特定の科目について単に知識が欠如しているといった意味での「学力低下」問題について言えば、東京大学としてはそれこそ情け容赦なく「学力低下」を防止し、その水準維持に努めざるを得ません。その意味では東京大学は決して卒業し易い大学ではありませんし、こうした「学力低下」問題への学部長や教授たちの関心は高く、早晩、各学部において学力のより厳格な管理システムが導入されるものと覚悟しておいていただきたい。この種の「学力低下」問題は私としてもこれを最も重要な課題の一つとして態勢作りに意欲的に取り組むつもりでいます。従って、皆さんもゆめゆめ油断することなく、この意味での学力の涵養に日夜心を砕いていただきたい。
しかし、大学で涵養しなければならない実力はこうした特定科目の学力に限られるものではありません。それは実力の必要な条件ではあっても十分な条件ではありません。その他に必要なものとして、従来知性だとか、教養だとか、考える力(思考力)であるとかいった回答がなされてきました。これらは先の特定科目の学力のようにはっきりとした輪郭のある知識ではありませんから、マニュアル化できないもの、とらえどころのないもの、何か知的アクセサリーに過ぎないものといった印象を生みだして来ました。とらえどころのないものは当然のことながら説明しにくいものであり、結果として「どうでもよいもの」と見なされることも珍しくありませんでした。日本社会がある面でマニュアル社会だと言われていることは裏返していえば、こうした知的能力を軽視するような傾向があったことを示唆しています。しかし、全てがマニュアルで済むならば人格の持つ意味はなくなってしまいますし、本当に大事な事柄は実はマニュアル化できないという点に最大の特徴があるといってよいでしょう。大事なことに直面するとしばしば「想定外のことで」という言葉が発せられますが、それで大事なことが処理できるわけではありません。
この輪郭が余りはっきりとはしないが決定的に大事な知的能力を仮に思い切って単純化して説明してみると、それはわれわれの判断に関わる能力ということができるでしょう。わたしたちが生きていく過程とは判断をしていく過程です。その中にはマニュアル化されたものもありますが、根本に遡って考えなければならない場合も少なくありません。われわれの直面する状況は個性的であり、何時も同じ判断をするわけにはいきません。また、いろいろな要素を考慮しながらわれわれは判断をすることになりますが、どこまでの要素を考慮に入れたらいいかについてそれこそマニュアルがあるわけではありません。特定の学問的知識を積み重ねれば判断を下せるというわけでもありません。そして、人間の存在感や人材の資質が言われるのは適切な判断を下す知的能力と結びついておりますし、世の中において重い責任を負っている人々はほとんど毎日こうした難しい判断をすることを期待されております。また、学問の世界において目覚ましい業績をあげるためにはマニュアルの世界を越えた深い思考と洞察力が不可欠なことは改めて言うまでもありません。
世の中で「学力低下」を論ずる人々がこうした意味での知的能力の問題までどの程度意識しているかは明らかでありませんが、皆さんに求めたいのはこうした判断力の基盤となる人間や社会についての知的能力の幅広い陶冶です。文化という言葉は語源的にみて、こうした人間的態度に根差すものと言えます。この陶冶は一生続くともいえますが、柔軟な気質を持つ若い時期にそれを始めない限り、多くの成果を期待することはできません。ここで耕すべき対象は自分自身であり、いわばフロンティアは自分自身の中にあります。読書にしろ、他人との接触にしろ、それらは全てこのフロンティアの開拓のために活用可能なものです。「安住の精神」はしばしばマニュアル型の生活態度につながりますが、「挑戦の精神」を持ち、世の中で先駆的な役割を果たそうとする人間にとってこうした知的能力の涵養、「魂の深さ」の涵養は不可欠の要件です。
最後に学力であれ、知的能力の涵養であれ、それらを支えるものとしての各人の意志が問題になります。この意志は目標設定と深く結びついています。安定が行き渡った時代が終わったことはわれわれに強い意志が求められる時代が来たことを意味します。自らの実力を信じ、目標に向かって邁進することがますます必要になることでしょう。そこでは、実力と結びついたプライドが常にテストされます。実際には、高い目標を狙った矢がそれに届かなかったということは人生では珍しくありません。しかし、それは決して不名誉なことではありませんし、初めから目標を持たないことが賞賛に値するものでもありません。東京大学には大きな目標を持った人材が雲霞のように集まって来ていると思います。互いに切磋琢磨しながら、皆さんのそれぞれの目標を鍛え、それを通して自らを厳しく鍛えていただきたい。
但し、目標の設定に当たって念頭に置かれなければならないことは個人的な目標に満足することなく、広く社会や「公共の事柄」に思いを致すという「志の高さ」を忘れないことです。これは「魂の広さ」とでも言うべき問題です。個人的な目標は所詮は個人的なものでしかありません。そこには緊張感の乏しさと堕落の可能性がないとはいえません。また、個人的な目標しか眼中にない人々が寄り集まっていくら政治を批判しても政治がよくならないのは何も不思議なことではありませんし、「公共の事柄」を有効に運ぶためにはそれにふさわしい人材が必要なのです。そして、「挑戦の精神」と「志の高さ」を備えた人材が皆さんの中から出てくることを日本社会は期待しています。
ある時期の日本社会は大学を出た若者にその実力を問うことなく気前よく職場を与え、それなりに安定を保証してくれました。しかし、今や皆さん自身が自らを鍛え、相当の準備をすることによってのみ将来が拓けてくるという覚悟で学生時代を送らなければならなくなりました。これを「運が悪い」と考える人が皆さんの中にいるかも知れません。しかし公平に見て、ある時期の日本の学生たちの呑気さぶりが異常であったのであり、諸外国の経験に鑑みればむしろ事態は正常化しつつあると言っても過言ではありません。そして、社会が呑気な学生時代を送った世代に対してよりも皆さんの世代に対して大きな期待を寄せていることも恐らく事実でしょうし、真摯な学生生活を送ることは大きな人間的資産を将来皆さんに残すことにつながると信じます。
最後にこれから皆さんが数年間を送ることになる東京大学について幾つかの事柄を述べておきたいと思います。東京大学は学部学生だけで15,000名、10,000名を越える大学院生、医学部附属病院や研究所を含めると7,000名を越える教職員を擁する非常に規模の大きい大学です。また例えば、自然科学の権威ある国際的雑誌に掲載された論文を執筆した研究者の所属大学を調べてみますと、東京大学の研究者の執筆した論文数は世界の大学の中でトップクラスに入ることが知られています。これは本学がいかに大きな学問・知的資源を蓄積しているかの一例です。しかし、こうした高度の研究は国民の財政的支援によって初めて可能になったものであり、従って、それを社会に対してどのように「お返し」をしていくかが東京大学の大きな課題となっているのです。ここに大学と社会とがどのような関係を作っていくかという、現在の大学が抱える重要なテーマの一つがあります。そしてますます明瞭になった事実は、大学の知的資源を上手に活用できない社会は世界のなかで間違いなく遅れをとるということです。その意味で大学は大事な公共財と考えられますし、どこの国でも少なからぬ公的資金をそれに投じているのはそのためです。
かつて大学は「象牙の塔」と呼ばれた時代がありました。それは大学が科学や学術をそれ自身のために研究する場であり、他の社会活動とは違った目標を持った組織であるということを示す言葉でした。これは今でも基本的に変わりがありません。大学には企業や官公庁などに見られるような厳格な上下命令関係がほとんどありません。学生の皆さんを含め、全てのメンバーが科学と学術を追究し、真理を求めていく組織です。そして大学のメンバーは他の組織のメンバーと比べて極めて自由であり、自由を基盤に真理の追求が可能なわけです。そして皆さんは今日からこの自由な組織のメンバーになるわけです。これは他の社会組織では見られない実に大学らしいところであり、このことの意味を皆さんに十分に噛み締めていただきたいものです。勿論、大学を企業のように経営すべきだとか、官公庁のように指揮命令系統で律するべきだとかといった議論が時々見られます。しかし、これは大学がどういうものであるかが分かっていない議論です。大学が社会的に意味があるのはそれが企業や官公庁のようなものでないからであり、大学をこれらと同じようなものにしてしまえば大学の存在意味がなくなってしまうだけのことです。要は、それぞれがその本来の任務を着実に果たすことが肝心な点であって、全体を雑然と混じり合わせるといったことはむしろ避けるべきなのです。
その上でなお大学の活動を社会が上手に活用したいと考えることは差し支えありません。これは大学といえども社会の一員であり、決して独立王国なわけではないからです。また、大学の知的活動の成果は国境の内に留まるものでもありません。「象牙の塔」という言葉は時には大学の社会的孤立を指摘するのに用いられましたが、今や大学は社会の知的活動の中心としてその成果を広く還元すべき存在なのです。大学はいわば「住み分け」を前提に社会の片隅で世間とは別世界を作り出すものであるよりも、もっと社会的な存在感が大きくなって然るべき存在なのです。しかも、企業その他がそうであるように大学も国際競争がますます熾烈になってきました。大学の活動についての規制緩和がますます必要なことは言うまでもありません。
このように考えますと、大学についての報道が入学試験との関係で専らなされてきたという、皆さんもよくご存じのような状況や、いわゆる国立大学の護送船団方式といわれたものは、いかに20世紀日本の仕組みと一体となった「住み分け」の発想に基づいているかが分かります。しかし、先にも述べたように20世紀の日本は終わったのです。どの大学に入学し、卒業するかではなく、何をどれだけ学び、何ができる人間を育てたのかが大学に問われている点なのです。社会の関心が入学と卒業という区切りにばかり向き、その内部でどのような教育や研究が行なわれているかに無関心でいられる時代は終わったのです。これは大学に勤務する教職員の能力を厳しく問い直すことにつながることは言うまでもありません。そして例えば、教育面での改革は今や緊急の課題ですが、教育面での改革を実施していくためには皆さんの建設的な協力が是非とも必要です。教育面での皆さんからの改革提言を大いに歓迎しますので、私に直接具体的な提案を寄せてください。
さて、研究・教育の面で思い切った見直しを行ない、教職員の潜在的能力を引き出していくために、東京大学は独立した法人格を持つことに躊躇すべきでないというのが私の見解です。先に述べたように大学はあくまで研究・教育の場であるという点を確認した上でどのような運営の仕方をするかという点については、人材をより適切に配置し、より適切に処遇することや、有益な外部の意見を取り入れるといったことなど、工夫すべき点は多々あると思います。しかし同時に、こうした大学のあり方を実現するためには貴重な資源の「横並び的」配分とは違った、選択的・集中的投下の仕組みが、政府の政策目標として明確に示されることが不可欠な条件であることを強く申し添える必要があります。
以上縷々述べましたように、現在の日本は巨大な規模の変革期に当っております。社会も大学も、そして個人個人もその渦巻きの中で格闘しております。この変革期を恐れるどころかむしろ一つの好機ととらえ、「挑戦の精神」と「高い志」とを武器に堂々と、生きていただきたい。東京大学はそうした若い人々に対する満腔の支援を惜しまない。これが今日ここに入学式を迎えた皆さんに対する私の、そして東京大学のメッセージです。

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