平成13年度学位記授与式(博士課程)総長告辞

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式辞・告辞集 平成13年度学位記授与式(博士課程)総長告辞

告辞

国立大学法人東京大学総長 佐々木 毅
平成15年(2003年)3月29日

 

本日ここに長年にわたる勉学の結果として博士号を取得された皆さんを迎え、授与式をとり行うことができましたことは私の非常な喜びとするところであります。
本年度本学において博士号を取得された方々は九五四名にのぼり、皆さんに対して、心から祝意を表します。また、長い間にわたって皆さんの勉学をささえられたご家族の方々に対しても深い敬意を表する次第です。今年はこれまでと異なり修士号、博士号の学位記授与式を別々に行なうことに致しましたが、これは従来の学位記授与式が大学院重点大学のそれにしてはやや配慮において十分ではなかったとの私なりの反省に基づくものであります。また、安田講堂の内部にご家族の方々に入っていただいたのは、長年にわたる成果を皆さんと同じ儀式空間で喜んでいただきたいと考えたからです。また、来年以降は別の新機軸を考えております。その一方で私は多数の告辞を用意しなければならない状況に追い込まれ、歴代の総長が体験されなかったような苦境に追い込まれた点については少なからず御同情をいただきたく存じます。
言うまでもなく、学問研究の世界においては終点はありません。しかし、幾つかの「区切り」があることは事実であり、博士号の修得はその最も大きな「区切り」であることは明らかです。同時にそれは外から課せられる他律的な「区切り」の最後のものであり、今後は自ら課する「区切り」しかない世界へと皆さんは入っていくことになります。研究者として独り立ちするということは、正に外から課せられる「区切り」がなくなり、自らの研究戦略のみを頼りに研究を進めることを覚悟することに他なりません。指導の役割を負ってきた教官が長い時間をかけて博士号を修得した学生を見る心境は、さながら子供が独り立ちしていくのを見る時に親が感ずるほっとした心境に非常によく似ております。この教官の心境を裏切ることなく、博士号といういわば研究者としての独立宣言を手に入れたことを機に新たな活動に向け、そのエネルギ-を爆発させていただきたい。
ところで研究生活はその静かな外観とは異なり、絶えざる内面的な焦燥と葛藤によって彩られています。研究の独創性は未知なるものとの取り組みを前提とし、その当初の目論見が達成される確実な見込みに立脚するものではありません。そこでは最小限であれ、「リスクをとる」ということが前提になります。「リスクをとる」ことは研究の目論見が実現しない可能性を常に含んでいるため、不安と内面的葛藤は止むことがありません。それだけに研究の目論見が達成された場合の快感と達成感は一段と素晴らしいものとなります。しかしながら、この達成感は次の未知なるものへの関心によって直ちに相対化され、新たな「リスクをとる」作業が始まることになります。こうしたことの繰り返しを何故に続けるのかという問いが発生することは避けられません。
また、「リスクをとる」ということの中には他の研究者や社会によってその研究がどのように評価されるかという、別の要因も含まれていないわけではありません。今日のように学問の世界がグロ-バル化されている中では、重要な研究は一定の時間の中でそれなりに公平な評価を受けるチャンスが大きくなっていますから、運不運の要素が持つ意味は少なくなっていると思います。しかし、人間世界では自己評価と他者による評価とは永遠に一致することはありませんから、そこに不満や葛藤が蓄積する可能性は常に存在します。しかも、学問研究の場合には自らの選択という契機が大きいため、これが一層募るということもあるでしょう。なお、日本では「リスクをとる」人材が少ないなどと言われておりますが、研究を志す人々こそ正に「リスク・ティカー」であると考えられます。「リスク・ティカー」が乏しいという問題はむしろ大学の外の問題であることをこの際銘記すべきでしょう。
こうした特徴を持つ研究生活の最大の危険は研究を志向する「内面のバネ」とでもいうべきものが切れてしまうことです。他の職業においてもこうしたモティベ-ションの低下現象はありますが、研究生活においてはこれは直ちに致命傷になると考えられます。博士号を修得した段階での「内面のバネ」は瑞々しく、潜在的可能性に満ちておりますが、未だ強靱さを備えておりません。意味のある研究生活を続けるということはこの「内面のバネ」を甘やかし過ぎることなく、慎重に鍛え、強靱なものにしていくということに他なりません。皆さんにはこの「内面のバネ」を倦まず弛まず鍛えていただきたい。そうすれば一定の評価は必ずや得られると確信しております。
ここで、皆さんの前途に横たわっている一つの大きな社会的問題に言及せざるを得ません。それは大学・研究所を除き、日本の諸組織が博士号を持つ人々に対して極めて閉鎖的であるという点です。この状態を解消しない限り、日本における人材の有効活用は極めて困難であるというのがわれわれの判断です。一方で、日本の組織は官庁に見られるように学位に無関心なところがあり、長い間にわたってそれに安住してきました。昨今、高度先端技術開発による産業の活性化が言われつつも、事態に大きな変化が起こっているという話はほとんど耳にしません。大学の知的資源の活用を唱えつつ、博士号修得者に門戸を広く開けるわけでもないということでは、日本の経営者は一体何を考えているのか分からなくなります。文部科学省は博士号修得者を採用するメリットを訴え始めておりますが、その影響はなお限定的であるといわざるを得ません。他方、大学の方はこの三十年余り、学問研究のための学問研究の傾向がますます強くなって来ました。これは私の体験からしてもかなり確実に言えることです。そしてそれが日本の研究水準の国際的飛躍など多くのプラスを生み出してきた反面、先のように博士号修得者の増加にもかかわらずその活動の場がなかなか広がらないという現象の一因になったとも考えられます。ご存じのように、現在は博士号修得者への門戸開放よりも、専ら産学連携の推進に傾いている状況にあります。
この問題について大学にできることは限られていますし、特に、即効性のある対策が手許にあるわけではありません。しかし、この問題を超えてわれわれ研究者として考えるべき点として、「何のために」(for what?)という発想をもう少し念頭に置くという課題が考えられます。改めて述べるまでもなく、この問題は細心の注意を払って取り扱う必要があります。若し、「何のために」を極めて即物的で目先の利便性といったものに限定するようなことがあれば、学術研究は自滅の道を辿ることになります。実際、大学という組織の最大の特徴はそのメンバ-がこの「何のために」を極めて自由に設定し、自由に構想することができる点にあります。このことを放棄すれば大学は自滅するか、他の組織と大差のないものになってしまいます。従って、世間の目からすれば甚だ迂遠としか言えない「何のために」であっても大学はそれを守らなければなりませんし、守るべきです。しかし、このことと学問研究はおよそ「何のために」という発想と無関係であるべきだという主張とは違います。
私がここで言おうとしているのは、この「何のために」をもう少し意識に上らせ、そうしたことについてお互いに語ることを躊躇しないようにしようということに尽きます。先程の言葉を使えば、「何のために」という問いは「内面のバネ」とも決して無関係ではないでしょう。そして、基礎とか実用とかいった既存の枠組みに頼って事柄を処理することは却ってこの問いの顕在化を妨げることにつながります。互いの研究に十分な敬意を払いながら、新たな飛躍と結合を求めてこうした語り方をもっと日常化させていくことは研究者としての大事な任務であると考えます。これは今後の大学運営においても大事なポイントですが、そのことはまた研究者と社会との接点を広げ、やがては人材の流動化にもつながる可能性を秘めているように思われます。
さて、博士号を得られた皆さんは今や東京大学の教育体系から自由になり、自らの力で研究の前途を切り開くべき時点に立っております。その活動がどこにおいて行なわれるにせよ、本学の博士号修得者にふさわしい活躍をされることを心から祈念して告辞と致します。

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