平成14年度卒業式(理系)総長告辞

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式辞・告辞集 平成14年度卒業式(理系)総長告辞

告辞

国立大学法人東京大学総長 佐々木 毅
平成15年(2003年)3月28日

 

本日ここに卒業式を迎えられた医学部、工学部、理学部、農学部、薬学部の皆さんに対し、心からお祝いを申し上げたいと思います。また、皆さんの勉学をこれまで支えてこられたご両親を初め、多くの方々に対しても深い敬意を表する次第です。
皆さんの中には東京大学の課する勉学要求水準をゆうゆうと飛び越えた人もいるでしょうし、バーすれすれの飛躍に終始し、相当の手傷を負いながら今日に辿りついた人もいることでしょう。いずれにせよ、皆さんは現在の日本の学部学生に求められる最高水準の勉学要求をクリアしました。この点は大いに自信を持っていただきたい。しかしながら、学部段階で身につけることのできる専門的知識が百年前のように直ちに最高水準のものであり得ないことを考えると、次の点につき皆さんの自覚を促したいと思います。
十代から二十代前半にかけての四年の年月は人間を大きく変え、若者を変貌させる時期に相当しています。しかも、若者はこの変化を外から強制されてするのではなく自らのイニシャティブによって行なうという特別の権利を享受できます。四年前、東京大学に入学して以来、どのような変化が皆さんに起こり、どのような新たな可能性を皆さんが発見したか、どのようにこの特別の権利を生かしたか、これはそれぞれが自ら、少なくとも本日総括すべき責任があります。仮に総括すべき何物もなく、東京大学に入学した時と全く同じ自分で今日を迎えた人がいると想定した場合、どんなに成績が優れていても、この人は後にこの四年間を有効に活用しなかったことを悔やむことになると思います。他方、成績は余り芳しくないが、とにかく清々しい挑戦と自己探求の機会を味わうことができたという人は、有意義な四年間を送ったと私は思います。
今日は過去の総括の日であるとともに、新しい門出へと皆さんを送り出す日でもあります。大学院で更に研究を進めようとする人にとっても、社会に出て新たな職場に身を投ずる人にとっても、それぞれに不安があります。総じて、新しい門出には不安はつきものです。不安がなければそもそも新しい門出にはなりません。しかしながら、近年新しい様相が見られないわけではありません。それはこれまで不安をコントロールしてきた組織の力が急速に衰え、予見性が立ち難くなったという点です。この数年間における大企業の盛衰や消滅、自治体の合併に代表される公的セクターの変貌など、それぞれの組織の持続性には大きな疑問符がつくようになりました。大学もまた同様の道を辿るという指摘には事欠きません。
これまで日本では組織への帰属によって不安から解放されるという生き方が支配してきました。それは個人的な知識や能力に対する評価を一旦括弧に入れて組織への全人格的忠誠を求めることと結びついていました。かつて本学の有名な教授が日本における卒業現象を指摘したことがあります。これは大学の卒業だけではなく思想の卒業にも関わるものですが、組織への帰属や社会の潮流に合わせてそれまでの自分のあり方を「卒業」し、次々と新たな状況に適応していく現象を指します。新しい組織に入れば、「それまでのことはきれいさっぱり忘れる」ことが何よりも求められました。大学を卒業したら、先ず、「大学時代のことは忘れる」ことが課題になりました。こういう卒業現象と表裏一体となった組織依存、それによる不安の抑制という仕組みが目下崩壊しつつあるのです。
この仕組みによって不安は抑制されたかも知れませんが、同時にそれは個々人の能力の蓄積やそれに基づく満足感には全く無関心な仕組みであったことも確かです。一旦、組織が昔日の存在感を失うと、後に残ったのは他所では活用できない特定の組織のマニュアル型人間でしかないというのは何の不思議もありません。しかも、そうした人々が旧来の地位にしがみつこうとするわけですから、組織が活力を失い、リーダーに対する深刻な不信感が社会に瀰漫するのは当然の帰結です。この数年、われわれが眼前に見てきたのはこうした現象でした。
皆さんは幸か不幸か、こうした卒業現象を享受できなくなりました。皆さんは私以上にこうした変化を痛感していると思います。今や多くの企業や組織は必要に迫られて無定量の忠誠心よりも個々人の能力に注目するようになりました。この観点からすれば、組織は新卒に格別の魅力を感じないのは不思議ではありませんし、どの大学を卒業したかにも無関心になっていくでしょう。問題は彼や彼女がどのような能力や力量の持ち主であるか、どのようにしてそれを高めるかということになります。皆さんはその潜在可能性において社会的に高く評価されているでしょうが、潜在可能性はあくまでも現実のものにならなければなりません。これをどのように実現するかについては弛まぬ努力と相当の熟慮が求められます。そうした中で大学との関係も一生に一回の関係に止まるのではなく、何回も繰り返されるものになっていきます。先の卒業現象との関係でいえば、簡単に自分の経験や努力の成果を忘れたり卒業したりするのではなく、自らの努力の積み重ねを大事にすることです。それはひいては、自らを大事にすることにもつながります。
自らに対する配慮を充分に行なうというのは、生きていく上での必要条件ではあってもそれは社会のリーダーたるべき人間にとって全てではありません。実をいうと、組織に自らを丸投げして不安から自由になるという生き方は、自らに対する配慮しか眼中にない生き方とどこか通ずるものがありました。そのことはそうした形で成功した人々から社会的リーダーにふさわしいような意味のあるメッセージがほとんど発せられないということに現れています。実際、組織の人であるということは公共の事柄に配慮する人であることを必ずしも意味しません。それどころか、われわれがしばしば目にするのはこの両者の矛盾と相克です。特に、公共の事柄に配慮することを自らの任務とする公務員が厳しく批判され、その公共性が疑念の的になっているのは深刻な事態です。
ここで私は自らに対する配慮と並んで公共の事柄に対する正当な配慮を皆さんに将来にわたって求めたいと思います。公共の事柄への配慮というのは、結局のところ、われわれの生きていく上で必要とする基本的な条件や環境の抱える課題に対して知的に取組み、配慮することを意味しています。それは自らに対する配慮と矛盾するものではなく、その不可欠な補完的役割を果たすものと考えられます。その対象は地域社会のこともあれば、国レベルのこともあり、更には東アジアのこともあり、遂には地球規模のこともあります。個々人のこうした配慮とその社会的なネットワークや塊は社会の持続的で均衡ある発展にとってのみならず、迫りくるさまざまな危機を凌いでいく上でも非常に重要です。民主政治の有効性がこうした配慮の社会的蓄積と不可分な関係にあることは今日周知の事実です。
科学技術の目覚しい発展によってわれわれの生活に多くの光明をもたらした20世紀が、多くの問題との取組みをこの世紀に先送りしたことはよく知られています。日本社会の抱える相当数の問題はこれと深く関わっています。その上、次々と新しい課題が登場していることも見逃すわけにはいきません。この十年ばかりは経済のグローバル化とそれへの対応が専らわれわれの関心を占めてきましたが、今や、テロと戦争の影が地球上に大きく伸びてきています。日本の近隣でも、核開発やミサイル問題が毎日のように取り上げられ、遠い地域の出来事として済ますわけにはいかない事態となりつつあります。時々起こるような歴史の大転換にわれわれが直面しているかどうかは分かりませんが、「意図せざる結果」によって歴史の転換が生ずることは珍しくありません。
この十年余り、公共の事柄に配慮するわれわれの力量は厳しく試されてきました。その成績は私のみるところ厳しいものでした。組織に自らを丸投げし、他の事柄に無関心を決め込んできた報いが恐ろしい結果を招きました。そこへ今度は「地政学的リスク」なるものが登場し、われわれを更に鍛える機会をうかがっているように見えます。組織に自らを丸投げし、他のことは知らぬ存ぜぬで済ましてきた時代に決別し、自らの努力の積み重ねを大切にし、ひいては自らを大切にするという観点の延長線上に、これら公共の事柄に知的な関心を持ち続け、必要に応じて市民として協力の輪に加わることは当然の帰結というべきでしょう。普段は公共の事柄に無関心で合理的な議論をした経験のない人が突然に熱狂するといった態度は皆さんにふさわしいものではありません。あくまでも知的に普段からこうした課題に取組む態度を自らの習慣としていただきたい。
今日この卒業式にあたり、私は皆さんに自らに対する配慮と公共の事柄に対する配慮という二つの課題を取り上げ、改めて皆さんの注意を喚起しました。それぞれの卒業生がこの二つの配慮を背中に背負いながら逞しく生き、幸運に恵まれ、そして何よりも悔いのない人生を送るよう心から祈りつつ、私の告辞を終わります。

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