平成16年度学位記授与式総長告辞(修士課程)

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式辞・告辞集 平成16年度学位記授与式総長告辞(修士課程)

告辞

国立大学法人東京大学総長 佐々木 毅
平成17年(2005年)3月24日

 今日ここに修士課程を終えられ、学位記授与式に臨まれた皆さんに対し、東京大学を代表して心からお祝いを述べたいと思います。併せて、これまで皆さんの勉学を支えてくれたご家族を初め、多くの方々のご支援に対し、深甚なる敬意を表する次第です。特に、外国から本学に留学し、幾多の困難を乗り越えて今日の記念すべき日を迎えた留学生の皆さんに対しては、一層大きな拍手を送りたいと思います。
  皆さんの中には直ぐに社会に出て活動を始める人もいるでしょうし、これから博士課程で更にその研究に磨きをかける人もいるでしょう。あるいは、外国に出かける人もいるでしょうし、祖国に帰って働くことにした人もいることでしょう。いずれにせよ、皆さんが輝かしい未来を手に入れるためにはこれまで以上に粘り強い努力と、果敢な挑戦が求められることは言うまでもありません。修士課程において培った自らの実力に足場を置きつつ、着実に新しい可能性を切り開くべく、それぞれに積極的に前進されることを祈ってやみません。
  皆さんは学部学生と比べ、修士課程においてそれぞれに専門的知識に接し、少なくともそのある部分については先端的知識に触れ、相当の自信をもって語れる状態にあると思います。そして今や、そうした専門的知識は皆さんにとって自らの存在に匹敵するような重い意味を持っていることでしょう。しかし率直に言えば、こうした知識は早晩色あせる可能性が高く、不断に更新されることによってのみ辛うじて現在の水準を維持できるようなものでしょう。その意味では果敢ないものであり、それと自らの存在とを一体化するというのは些か心もとないことであると言わざるを得ません。つまり、知識はそれが相当程度専門的に卓越したものであれ、多くの場合それだけで一人の人間の存在を支え続けるだけの力を持ち合わせていないことになります。大学院に進学する者の数が急速に増えた現在、これは偽らざる現実でしょう。しかしこれは何も嘆かわしい現実を意味するものではありません。それは唯、皆さんのこれからの人生と身に付けた専門的知識との関係を改めて見直してみる必要があるというだけのことです。
  先程述べたことは、修士課程で身に付けた知識の間尺に合わせて人生を送ることはほとんど不可能であるということですが、それは皆さんが獲得した知識そのものよりもむしろ知識の獲得を可能にした皆さんの能力に注目すべきだということを意味します。個々の知識が枝葉であるとすれば、この能力は根であり、太い幹に相当します。この枝葉に引きこもり、それだけで手際よく人生を送ろうとすることは先に述べたように現実性を持たないのみならず、皆さんが培ってきた能力全体を考えると誠に勿体無いことであり、社会的にも大きな損失です。より多くの枝を繁らせる能力を持った人間はより大きな幹と逞しい根を持っているはずです。その可能性を十分に発揮して社会に立ち向かい、社会に新しい波を起し、社会を変えていくことこそ、これからの皆さんの生き方の基本でなければならないはずです。あるいは、新しい知識の領域に挑戦し、社会に立ち向かう専門的能力を一層磨くこともそう難しくないでしょう。この中には博士課程で専門的研究者を目指す人も多数いると思いますが、その場合でも社会との関わりを忘れて枝葉の生活に退却するのではなく、常に自らの人生の可能性を広く探求し続けることが基本にならなければなりません。そうした大きな可能性を持った人材として皆さんの将来に大いに期待しております。
  20世紀はその科学技術によってわれわれの生活に大きな変革をもたらしました。平均年齢をとってみても、日本人は半世紀の間に約1.5倍長生きするようになりました。情報化が人間と人間との関係を如何に変え、グローバルな社会構造に大きな影響を及ぼしたことは誰でも知っていることです。それは文系、理系といった教育業界の作り上げた擬似セグメントを破壊しつつあります。勿論、科学技術は人間の大量破壊にも手を貸しましたし、全てがバラ色というわけには行きませんでした。しかし何か困難が起こるたびに事態打開の切り札として科学技術への強い期待が表明されました。この数年の経済停滞の際に見られた日本の世論の動向をみればそれは明らかです。
  ところがここに大きな問題が隠されているように見えます。それは社会のマネージメントの技能を事実上科学技術によって代替させようとする強い惰性の存在です。すなわち、マネージメントの役割を担う立場にある人々が社会情勢や国際情勢の変化に対応して自らのマネージメント能力を不断に磨くという努力を怠り、あるいはそうした能力をそもそも欠いており、そのことに俗にフタをして科学技術に事態打開の機能を押し付けるという傾向がそれです。そこから何が起こるかといえば、単に「歴史は繰返す」だけではありません。何よりも、科学技術がその成果をあげればあげるほど、この化石化したマネージメント集団とその組織が温存されることになります。これが最大の問題です。
  日本ではこうした社会のマネージメント能力を涵養するのは従来文系の任務とされてきました。それは彼らが社会についてより多くを学び、マネージメントの方法や手法についてそれなりの専門的知識を持っていると考えられたからです。しかし周知のように、文系の大学院教育はその深い社会性にもかかわらず、完全に研究者養成にこれまで限られてきました。そこから新しい人材が社会のマネージメントの世界に輩出するのを警戒しているのではないかと疑いたくなる光景でした。法科大学院の発足がこうした歴史を変える大きな転機になるかどうかはなお予断を許しませんが、公的部門のマネージメント能力の停滞はますます酷くなることはあっても改善の兆候は見られません。
  社会のそれぞれの部分、特に、公的部門においてマネージメント能力を高めることはいわゆる文系だけの問題ではありません。現実には自らの努力の成果が生かされることを期待し、自らの努力に誇りを持って生きようとする全ての人が関心を持たなければならない課題です。こうした課題との取り組みにおいては、しばしば明白な解も解に向けての明快な手順も見当たりません。また、時間のファクターを入れない議論は意味を持ちません。これこそ枝葉のノウハウを身につけた人では担えない、知的に太い幹とがっしりした根を持った皆さんのような人材が率先して取組むべき課題です。
  それぞれの局面において努力していさえすれば「どうにかなる」という発想は戦後日本の繁栄の中で確かに一定の現実味を与えられましたが、そうした時代は終ったようです。犯罪が増えると自衛が必要になるように、今や無防備でも「どうにかなる」と考える人はほとんどいなくなりました。こうした中でマネージメントの責任者が相変わらず「どうにかなる」と言っていれば信用を失うのは当然のことです。今や、「どうにかしなければならない」段階にわれわれはいるというべきでしょう。誰にも遠慮は無用です。大学も決して聖域ではありませんから、これに対しても遠慮は無用です。それぞれ入り口は違うかもしれませんが、是非ともこのマネージメント能力の向上という大テーマにそれぞれの活動の局面において取組んでもらいたい。それは皆さんに新たな刺激と友人をもたらし、より生きがいのある人生へと導くものであると私は確信しております。
  最後に、皆さん一人一人の将来が幸運に恵まれ、それぞれに悔いのない人生を送られるよう、そして、東京大学で過ごした年月が皆さんにとって忘れがたい経験であったことを祈念して、私の告辞と致します。

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