平成19年度学位記授与式総長告辞

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式辞・告辞集 平成19年度学位記授与式総長告辞

告辞

平成20(2008)年3月24日

東京大学総長
小 宮 山  宏


 本日ここに、博士、修士、専門職学位の称号を授与された皆さんを迎え、授与式を執り行うことが出来ることを、嬉しく思います。本年度、本学において博士号を取得された方々は1,121名、修士号を取得された方々は2,884名、専門職学位を取得された方々は399名にのぼり、東京大学の教職員を代表して心よりお祝いを申し上げます。また、この日に至るまで皆さんを支えて下さった多くの方たち、とりわけご家族の方々に対しても、お祝いを申し上げたいと思います。

 東京大学は、世界の知の頂点を目指した幅広い学術活動の中で、高度な水準の教育を提供していることを誇りとしてきました。そうした恵まれた環境の中で、皆さんは、日々勉学に邁進し、その成果の象徴として、今日めでたく学位を授与されることになったのです。これまで個々の専門分野を深く掘り下げて学んできた皆さんが、これからさらに力強い歩みを始めようとする節目にあたって、私からのアドバイスとして、「全体像をつかむ」という言葉を贈りたいと思います。

 ごく卑近な例からお話ししましょう。皆さんの中には、いわゆるカー・ナビを使用している人も多いと思います。縮尺を大きくすると詳細な街路の形が読み取れ、目的とする場所に到着間近の時にはとても便利です。カー・ナビは、ほぼ機器まかせで、皆さんを目的地に案内してくれます。ただ、不案内の土地では、その目的とする場所が、たとえば大きな都市の中でどのあたりにあるのか、縮尺が大きいと分かりません。そこで、おそらく皆さんは、小さい縮尺に切り替えて、俯瞰的な地図の上で、目的とする場所の当たりをつけるでしょう。そうすると、その目的の場所が、周辺の地域とどういう位置関係にあるのか、周辺に何があるのかも理解することができます。見知らぬ土地にカー・ナビを使って出かけるときには、皆さんは、縮尺の倍率を大きくしたり小さくしたりして、目的地を読み取ろうとすることが多いはずです。知的な活動に携わる場合にも、そのように、詳細に部分を見ることと、俯瞰的に全体を見ることとの、往復を行ってもらいたいのです。

 カー・ナビの場合は、あらかじめ定められたプログラムに従って、効率的に目的地にいたる経路を示し、音声で導いてくれます。その点では、大きい縮尺だけでも、決定的な不都合はありません。しかし、これから未来に向けて歩もうとする皆さんの世界は、学問の場にしても、広く社会の場にしても、あらかじめ定められたプログラムがあるわけではありません。また、だからこそ、そこに新たな発見や出会い、また、創造や工夫のチャンスというものが存在するのです。そこでは、むしろ皆さん自身がナビゲーターとなって、縮尺を大きくしたり小さくしたりしながら、自分が歩もうとする方向を見定めていかなければなりません。皆さんは、これまで大学院において、多くの場合は、対象を絞り込んだ研究、つまり、どちらかと言えば、縮尺の大きな研究を行ってきたことと思います。そこで一定の成果を収めた皆さんには、今度は小さな縮尺で、つまり「全体像をつかむ」視点での歩みも試みてもらいたいのです。

 では、「全体像をつかむ」というのは、どういうことでしょう。その核心となる概念は「知の構造化」であり、また、それを実践する教育の試みが、教養学部で開始した「学術俯瞰講義」であることを、私はいろいろな機会に語ってきました。「知の構造化」とは、とりわけ20世紀において爆発的に増え、また無数の専門分野に細分化された知識を、階層的に整理して使いやすい形にすること、知識を互いに関連づけて学問の全体像を浮き彫りにすること、さらに、最先端の学問と社会における価値とを結びつけること、です。
 今日は、この「全体像をつかむ」ということについて、概念の定義よりも、その本質を感覚として理解してもらえるような話をしておきたいと思います。

 皆さんは、「パスツールの瓶」というものをご存知でしょうか。フランスで生まれたルイ・パスツールは、19世紀を生きた人で、ロベルト・コッホとともに「近代細菌学の祖」と呼ばれています。かつて、生物は自然発生するものだと考えられていました。たとえば、コバエは、物が腐るとともにどこからともなく発生するように見えます。また、物が腐るのも、細菌など微生物によって有機物が分解される現象であるのに、栄養源さえあれば何となく起こるように見えます。パスツールの実験では、フラスコの首の部分を細長く伸ばしてS字状に折り曲げた、「パスツールの瓶」というものを用いました。この瓶を用いると、空気は出入りするのですが、チリや微生物は入りません。煮沸して殺菌した肉汁を、このフラスコ内に放置しても、コバエの発生はもちろん、腐敗もしなかったのです。この実験によって、コバエや微生物が空気中から飛んできたものであることがわかりました。
 もし皆さんが、微生物の存在を明らかにしようという当時の状況に置かれたら、どうするでしょうか。肉眼では見えない小さな生き物がいるのなら、顕微鏡の解像度を上げていけば必ず見えるはずですから、改良を重ね、自分の目で見えるように努力するでしょうか。それまで目に見えなかったものを可視化することが出来れば、それは素晴らしいことです。
 しかし、そこには難しい問題が存在します。拡大して見えたものが探している微生物なのかどうか、どのように判断するのでしょう。電子顕微鏡を使って百万倍の倍率で観察したとすれば、わけの分からないタンパク質と膜の固まりが見えるでしょう。このやり方は、部分像を徹底的に追究する、ある種の「力技」です。ただ、見えたものが一体何なのか、どういう意味をもつのか、その判断は、全体像と部分像とのしなやかな組合せを通じ本質を抽出することによって、初めてなされるのです。パスツール型の実験は、いわば全体像を描くためのものと言ってよいでしょう。パスツール自身は、微生物を取りだして見せたわけでもないのです。彼はむしろ、「パスツールの瓶」という素朴な器具と絶妙な論理を用いて全体像を描いたのです。

 これは、空間軸ないしスケール軸からの観察ですが、同様の認識は、時間軸からの観察を通じても得られます。
 たとえば、昨年ノーベル平和賞が授与されて話題となったIPCC(気候変動に関する政府間パネル)による地球温暖化問題への評価に対しては、否定的な見解も存在します。それは、地球は常に変化してきたのであって、温暖化などはそのささいな部分現象に過ぎない、などといった反論です。たしかに、130数億年の宇宙の歴史、40数億年の地球の歴史、さらには地球誕生から数億年経った頃に始まった生命の歴史、といった時間軸からみると、地球は常に変化してきました。しかし、その変化を理由に地球温暖化問題を軽んじる議論は誤りである、私はそう思います。地球温暖化問題は、100年か、せいぜい千年の問題です。100年先に気温が3度上昇したとしたら、いったい人類文明は持続できるのだろうか、という問題です。
 皆さん、100年と1億年の長さの差を実感できるでしょうか。100年が百回繰り返されてようやく1万年です。それが人類の歴史の長さです。現人類共通の祖先がアフリカを出たといわれるのが、その約10倍、10万年前のことです。10万年が千回繰り返されて、ようやく1億年になります。2億年前のジュラ紀には気温は数度高かったという地球の歴史と、地球温暖化問題とを混同してはいけません。私たちは、空間と時間からなる時空間を縦横に、また冷静に駆けめぐり、全体像と多くの部分像とを相互に位置づけ、関連づけて、問題の本質を正しく把握する必要があります。

 人類の知は、言うまでもなく、いまお話したような時空間のみならず、文化や技術、哲学、宗教などといった、多くの視点から形成されています。とても知の全貌など把握できない、私たちは知識を持ち過ぎてしまったのかもしれない、そんな風に感じてしまうほどです。しかし、多くの知を持ったことは、もちろん人類の発展そのものであって、持ち過ぎなどということはありません。必要なのは、こうした膨大な知識の多次元空間をダイナミックに飛翔し、本質を把握する、しなやかな知性なのです。白鳥の首筋のように優美な曲線をもった「パスツールの瓶」の話は、ある意味で、こうした本質を把握する知性を象徴しているのかもしれません。

 「全体像をつかむ」しなやかな知性は、狭い意味の学問の枠の中だけでなく、学問と社会とのかかわりという点からも大切なものです。
 一般に「学問が社会性を持つ」というのは、社会科学や人文科学などの領域では当然のことと考えられているだろうと思います。また、自然科学でも、工学などは、社会とのかかわりが見えやすい分野です。ただ、思いがけないところに、学問と社会とのかかわりが存在することもあります。

 しばしば世の中でバブル経済ということが話題になりますが、世界初の経済バブルは1635年、オランダで起こりました。チューリップの球根に異常な高値がつき、その売買に狂喜乱舞した時代ということで、「チューリップ狂時代」とも呼ばれています。美しい斑入りの花を咲かせるエキゾチックなチューリップの球根が投機の対象になって、それに天文学的な金額が支払われたのです。その2年後、1637年に至って、チューリップ・バブルは、やはり世界初のバブル崩壊を引き起こし、破綻します。ただ、見落としてはならないのは、そこでウイルス操作のテクニックが、それと知らずに使われていたことです。実は、こうした美しいチューリップは、ウイルス病にかかった結果だったのです。当時の斑入りのチューリップの作り方は、ウイルスに感染してきれいな斑入りの花を咲かせる球根の一部を切り取って、別の球根に植え込むというものでした。その科学的な仕組みが分からずとも、とにかく値打ちのある品種を作り出す技術が確立していたのです。実はこの技術こそ、現代のウイルスをワクチンとして接種する方法そのものです。結果として、この経験知が新たなサイエンス上の発見につながったわけですが、それには時間が必要でした。ウイルスの実態が明らかになったのは、こうしたバブルからおよそ300年後のことです。
 いつの時代にも、経済社会を動かすような画期的な技術でありながら、当初は摩訶不思議な方法として仕組みが分からないことがあるものです。同様のことは、バイオテクノロジーや超伝導、新薬などでも見られます。社会的なイノベーションにつながる科学技術には、そういうことがつきまとうのです。であるからこそ、皆さんには、学問の世界だけでなく、学問と社会とのかかわりも含めて、「全体像をつかむ」しなやかな知性をもってもらいたいと思うのです。

 このような学問と社会との深いかかわりは、「全体像をつかむ」という言葉を贈ることで、私が皆さんに何を期待しているか、ということにつながってきます。それを、最後にお話しておきましょう。
 それは、東京大学の豊かな知の財産に育まれた皆さんに、ぜひ「21世紀の社会モデル」を作ってもらいたい、ということです。とくに、これからの「活気ある持続可能な高齢化社会」をどのように作っていくか、そのモデルを考えてもらいたいということです。20世紀の100年間だけで、地球が小さくなるくらいに人間社会が膨張し、環境や資源をめぐる深刻な問題が地球規模で発生しています。また、多くの国で高齢化社会への動きが急速にすすみつつあります。これまで人類が経験したことのない、こうした課題への取組みは、ただ一片の政策を作ればすぐ対応できるという性格のものではありません。ここにこそ、大学の知、しかも「構造化された知」の出番があるのです。サステイナビリティ学やジェロントロジー(加齢学)などの新しい学問領域は、その象徴的な事例です。
  こうした「21世紀の社会モデル」を作っていくにあたって、同時に大切なことは、大学と社会との「連帯」です。私は実は、しばしば用いられる「大学の知の社会的還元」という言葉は、あまり好きではありません。それは、大学はたしかに知の重要な孵化器であり巨大な蓄積場所ではあるのですが、知は本質的に絶えず生成発展していくものであり、そうした生成発展は、大学の知と社会の知との交流によって促進されることが少なくないからです。先ほど触れたサステイナビリティ学やジェロントロジーなどの学問も、企業や自治体、市民などとの連携を通じて発展してきていますし、また、いま、東京大学が千葉県の柏の地で試みようとしている国際学術都市の構想も、地域社会と大学との連帯による「知の冒険」と呼ぶべきものです。
 つまり、大学にいようと社会にいようと、「知の冒険」に参加する機会に変わりはありません。参加する資格として必要なのは、「全体像をつかむ」ことのできる、しなやかな知性だけです。今日学位を授与される皆さんは、引き続き大学で研究を続ける人もいれば、社会の新しい活動の場に出ていく人もいるでしょう。そうした活躍の場こそ違え、皆さんには、互いに連帯し合って「知の冒険」を続けていっていただきたいと思います。

 皆さんのこれからの人生が希望に満ち、充実したものとなりますことを心より祈念して、告辞を終えることといたします。

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