令和5年度 東京大学学位記授与式 総長告辞

令和5年度 東京大学学位記授与式 総長告辞

本日、東京大学で学位を受けられるみなさん、おめでとうございます。みなさんの努力と成長は、私たち教職員の大きな誇りです。みなさんに心よりお祝いを申しあげるとともに、支えてくれたご家族の方々にも感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。

人生100年時代と言われますが、長い人生を意義深いものとするためには、好奇心を持ち続け、常に新しく学び、探究を深めていくことが、ますます大事になってきています。みなさんが東京大学の門を出て新たな挑戦へと踏み出すいま、他者とともに自ら学び続けることの大切さについて、お話したいと思います。

テクノロジーの発展と学びの進化は密接な関係にあります。その一例が、グーテンベルクによる活版印刷技術の発明と定着です。西洋印刷史を研究したエリザベス・アイゼンスティンの『印刷革命』は、この複製技術による量産が、ヨーロッパにおける書物の価格を引き下げて、これを広く普及させ、テクストを綿密に比較照合する文献学をはじめ、ルネサンスのさまざまな学問を生みだした、と論じています。そして正確な図版の共有は算術、幾何、音楽、天文学の四学芸を飛躍的に発展させました。

20世紀に入ると、ラジオやテレビなどの放送技術の開発が進みます。知識や情報をより広範囲に拡散する役割を果たすとともに、マスメディアとしての一方向的な情報伝達が主流となりました。この環境を大きく変えたのが、インターネットの普及です。情報の双方向的な流れが開かれ、個々人はただ受信するだけでなく、積極的に発信も受信もすることが可能になります。テクノロジーは、人間が生きる時空を変容させましたが、それは学びのプロセスと環境が大きく変わったことを意味するものでもあります。

そこで重要なのは、学ぶ目的であり、目指すべき理想であり、倫理観です。テクノロジーはツールであり、その使い方も方向性も私たち人間の手に委ねられています。生成AIは質問すれば即座に回答してくれますが、学習したビッグデータと入力された文字情報をもとに計算を実行しただけですから、人間から見ると偏見や誤解を含み、誤った断定が出力として返ってくる可能性もあります。だからこそ、私たちの批判的思考と注意深い判断が必要不可欠です。未来を形作るのは、AIのようなテクノロジーそのものではなく、それを使う私たちのビジョンであり、倫理であり、意志であることを忘れないでください。倫理的かつ責任ある使い方を心がけるとともに、テクノロジーのポジティブな可能性を最大限に引き出して、人間性を豊かにし、社会の発展に寄与していく方法を探究し続けなければなりません。新しいテクノロジーとのつきあい方を多角的に考え続けることこそが、良い未来を形作る力になります。

ひとの学びについて研究したジーン・レイヴとエティエンヌ・ウェンガーの著書『状況に埋め込まれた学習』によれば、学びは個々人の頭の中だけで起こるのではなく、共通の目的や関心事にとりくむ人びとの間の相互作用において生じています。この理論は、新しい知識やイノベーションが人びとのコラボレーションの場から生まれることを示しています。

学術コミュニティでも、コラボレーションは大切です。たとえば、人類学ではかつて、たった一人で異文化のなかに飛び込んでフィールドワークを行い、民族誌を執筆するのが主流でした。ところが最近では、「チーム・エスノグラフィ」が注目されています。属性や専門領域が異なる調査者の経験、分析視点を活かし、それぞれが収集したデータを突き合わせて議論することで、多面的な解釈や新しい洞察が得られ、よりリアルなフィールドの描写が可能になるというアプローチです。

もちろん、コラボレーションは簡単ではありません。けれども、学問の境界を越え、不慣れな場所で他者とともに考え、学ぶことが、自己変革とイノベーションに結びつくのです。

私自身のキャリアにも、越境の経験と他者との学びが少なくありません。私は海中ロボットの研究で博士の学位を取ったのち、しばらくは本学の生産技術研究所で教員を務めていましたが、その後、理化学研究所にポスドクとして就職しました。そこで、ロボティクスからバイオロジーという全く違う分野に越境するなかで、自分のロボット分野における専門性を生物学に活かす方法がないかを考え続けました。その頃の着想が、その後のマイクロ流体デバイス研究の飛躍につながりました。この経験から、領域を超えた時に知識や技術の新たな組み合わせが生まれ、イノベーションが起きることを身をもって学ぶことができました。それは、当時理化学研究所にいた多くの研究者との対話のなかで閃いたものです。

みなさんは大学院教育を通じて、各自の専門分野において深い知識とスキルを獲得されたはずです。その領域だけにとどまらず、ディシプリンの境界を柔軟に越え、新たなコミュニティでも学び続けてほしいと思います。東京大学では文理を越境する、という理念を重んじるとともに、企業や市民社会とのコラボレーションを展開し、多様な立場の人びとが互いに学びあう場を創り出してきました。みなさんが今後さまざまな課題に向きあい、ディシプリンや組織の境界を越え、多様な人びとと対話し、ともに学びあうなかで、自身のオリジナリティを発見し、飛躍されることを期待しています。

コラボレーションの難しさは、われわれが自分以外の誰かの立場に立って、物事を考えることの難しさでもあります。とりわけ、自分が満たされた生活を送っていると、社会的弱者の立場を想像したり、その声に耳を傾けたりする機会が乏しくなりがちです。

弱者の視点について深い示唆を与えてくれるのが、大江健三郎氏です。東京大学は昨年9月に大江健三郎文庫を発足させ、1万8千枚におよぶ自筆原稿のデジタルアーカイブと4,000点近い関連資料を研究者に公開しました。障害者や戦争被害者の痛みに寄り添う大江氏の作品は、社会的に弱い立場にある人びとへの想像力を働かせ、「われわれの文化の中心指向性」を乗り越えることの重要性を説いています。たとえば、1965年に発表した『ヒロシマ・ノート』において大江氏は、広島の被爆者の声に耳を傾け、被爆者が経験した苦痛や社会からの疎外感を深く掘り下げることで、核兵器の脅威と戦争の悲惨さ、そして平和な社会を実現することの大切さを世に訴えました。

ロシアによるウクライナ侵攻、そしてガザ地区での悲劇など、今なお世界の多くの地域で紛争が続いています。私たちには、戦争という極限状態で生きる人びとの苦しみを本当に理解するのは難しいとしても、なぜこのような悲惨な出来事が起こるのか、その原因を社会的弱者の側に立ちながら問いつづけ、どうしたらそうした不幸を世界から無くすことができるか、これを追究することは可能です。

今年1月に発生した能登半島地震では多くの方が被災されました。今も厳しい避難生活を強いられている方々がいます。平穏な日常を突然奪われた人びとに思いを馳せ、自分にできることを考え、行動に移すべきです。寄付、支援ボランティア、政治参加など、私たちにできることは多岐にわたります。大事なのは、自分の生活圏を離れた場で起こる災いをただ傍観するのではなく、弱い立場にある人びとへの想像力と共感を働かせ、社会正義と平和のために行動することです。それが創造的地球市民に求められる義務と責任だと言えるでしょう。

未来はそもそも見えないもので、目の前には存在していません。一方で未来は、みなさんの選択が築いていくものです。単純な正解はありませんが、それが本当に望ましいものかについて、私たちは考え、話しあうことができます。本日、東京大学で学位を受けられるみなさんには、創造的地球市民としての共感をもって、社会的弱者の声に耳を傾けることを忘れないでほしいと思います。多角的な視点で世界を見ることも、そして公共的なビジョンの下でテクノロジーを活用することもまた、真の知性を磨く鍵です。コンフォートゾーンから抜け出し、越境する経験に踏み出してみてください。アウトサイダーであるからこそ、自分の独創性に気づき、他者のために力を発揮できることも多いのです。対話を通じた創造的で協働的、そして共感的な学びの経験は、みなさんの長い人生の航海をとても豊かなものにするはずです。

東京大学は、社会に開かれた大学として新たな知識と未来を共に創っていきます。みなさんとのつながりを保ち、いつでもみなさんが訪れることのできる学びの場でありたいと思います。東京大学の一員としての誇りを胸に、いま、新しい世界へと飛び立っていくみなさんの成長と成功を心より願っています。本日は本当におめでとうございます。

令和6年3月21日
東京大学総長  藤井 輝夫

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