平成21年度学位記授与式総長告辞

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式辞・告辞集  平成21年度学位記授与式総長告辞

平成21年度学位記授与式総長告辞

平成22年(2010年)3月24日
東京大学総長  濱田 純一

 このたび東京大学より博士、修士、そして専門職の学位を授与される皆さん、おめでとうございます。東京大学の教職員を代表して、心よりお祝いを申し上げます。また、皆さんが学業にいそしんできた間、しっかりと皆さんを支え、今日のこの晴れの日をともにお迎えになっていらっしゃるご家族の皆様にも、お祝いの気持ちをお伝えしたいと思います。
 皆さんは、大学院に進学することによって一段と深い学問の世界に足を踏み入れました。学問の世界の大きな広がりを考えると、まだまだ出発点に近いところですが、それでも学部の時代とはまた異なった、学問研究の奥行きの深さに触れることができたのではないかと思います。そうした奥深さの一端に触れて感動したこともあれば、あるいは、さらに遠くへと広がる学問の世界を目の前にして、自分の小ささ、無力さを感じたことがあったかもしれません。
 いまの時代は、学問研究をじっくりと行っていくには、いささか慌ただし過ぎる環境ともなっています。時代が大きく変化していく中で、科学研究や技術開発あるいは国立大学の運営にかかわる政府予算をめぐって、昨年来さまざまな動きがあったことは、おそらく皆さんもご承知だろうと思います。大学の立場から、社会の基盤としての学問の重要性をさまざまな形で訴えてきましたが、教育と研究は、絶え間のない着実な積み重ねを通じてこそ、初めて、その豊かな成果を社会で結実させることが可能になるのは、言うまでもないことです。
 たしかに今は、国の財政自体が大変な時期です。また、金融危機、経済危機の影響を受けて、国民生活もとても厳しい状況にあります。こうした時に大切なことは、これからの日本の高等教育や学術研究の目指すべき水準について具体的な目標を明確にした上で、それを実現するための仕組みや財政的な基盤をしっかりと確認していくことです。グローバルな規模での知の競争を考えると、そのための議論をもっと盛んに、もっとスピーディにすすめていかなければなりません。今日、経済危機後の新しい時代を見据えて、アメリカや中国をはじめ多くの国々が、高等教育や科学研究への投資を強めています。
 これからも日本の国立大学や学問をめぐる厳しい状況はなお続くでしょう。しかし、私は、日本の学問の将来を決して悲観してはいません。というのは、学問というものは、いつの時代においても国や社会を支える究極の力であり、一人ひとりの個人を意味ある存在とする本質的な力であるからです。学問が衰える時は、国も個人も衰えていきます。近代の歴史において、知識を基盤として発展してきた日本という国が、自らを衰微させる選択をするはずはないと、私は確信しています。
 高等教育や学問研究を取巻くこうした環境の中で、大学院という、より高いレベルの学問の世界を経験してきた皆さんにも、自分が行っている、あるいは行ってきた学問の社会的意味ということを、ぜひ考えてもらいたいと願っています。なぜ国が、皆さんの教育や研究に多くのお金を投じているのか、そして、皆さんの学問が人びとの幸せや社会の未来にとってどのような意味をもっているのか、じっくりと考える機会を持ってほしいと思います。
 そして、それと同時に、皆さん自身にとって学問とは何なのか、どのような意味をもっているのか、そのことも改めてしっかりと見つめなおしてみることが大切です。学問の社会的意味については、たくさんの人が考えますが、学問が自分にとって持つ意味というのは、自分自身で考えるしかありません。
 ドイツ文学でよく知られた、ゲーテの『ファウスト』という戯曲があります。ここでは、かつて文学部でドイツ文学を講じていらした柴田翔先生の翻訳を使わせていただきたいと思いますが、その戯曲の主人公であるファウスト博士は、膨大な本や実験装置を用いて、「世界をそのいちばん奥深いところで束ねているもの」「すべてを創る力と種子」を探し求めました。しかし、どうしてもそこに到達しえない絶望の中で、生きることの喜びの究極を求めて、悪魔に魂を売り渡す契約を結びます。そして、人間に可能なあらゆるものを味わい尽くそうとするのですが、そのきっかけは、いま触れたように、学問によってなしうることの限界を感じたところにありました。「すべての理論は灰色だ。そして生の黄金の樹こそが緑なのだ」と語る、悪魔メフィストーフェレスの言葉は、それを象徴しています。
 ただ、そのようなファウスト博士の苦しみは、学問に携ろうとする者が用いることのできる知識、経験、道具、さらには研究体制などが、きわめて限られていた時代のことでした。こうしたものを活用できる環境が、現代ではまったく異なっています。学問をより深く掘り下げ、より広く展開していくための手掛かりは、ファウスト博士が生きたとされる16世紀の頃とは比べようもないほど豊かです。「世界をそのいちばん奥深いところで束ねているもの」「すべてを創る力と種子」を求める努力は、そう簡単に絶望してしまうようなものではありません。
 そうした意味では、ファウスト博士の苦しみは、時代に条件づけられたものであったとも言えます。しかし、私は、彼の絶望に、ある種の共感を感じる部分もあります。それは、ファウスト博士が、自分の学問と、人生、生き方を重ね合わせようとしていたところです。それゆえにこその「絶望」であったわけです。さきほど私は、皆さん自身にとって学問とは何なのか、それを考えてみてはどうだろうか、ということを言いました。皆さんにそのことを考えていただくための参考までに、私自身が自分の学問を、人生、生き方とどのように重ね合わせてきたのか、少しお話しておきたいと思います。
 私は、法学政治学研究科の大学院で憲法学を専攻しました。ちょうど大学紛争が終焉に向かう頃の時期でしたが、研究をスタートしたばかりの大学院生は、海外のどこかの国を選んで、その法制度の研究からまず入って論文をまとめる、というスタイルが一般的でした。私はドイツ-当時は西ドイツでしたが-の法制度を選んだのですが、そのうち私は、自由の保障をめぐる「主観性と客観性」というテーマに取り憑かれました。
 「自由」というと、おそらく皆さんも直感的に、それは主観性の領域に属する事柄だ、という風に考えるでしょう。自由というのは人間の自然権、生まれながらにして持っている権利ですから、そのようにまず考えるのは自然です。しかし、当時、私が初めて出会ったドイツの理論は、自由権は、主観的側面だけでなく、客観的側面も持っている、というものでした。その議論の不思議さを解きほぐしていくことが、私の大学院時代の一貫した仕事になりました。
 その解きほぐしへの手掛かりを簡単に言えば、ここで議論の対象となっている自由というのは、基本的人権として、法という制度に定着させられた存在であって、生の事実的な自由とは異なる、ということです。法として制度化された自由である以上は、一定の範型と安定を要素とする客観性をもつことは当然だ、という話になります。しかし、自由が客観的な存在であるということを強調しすぎると、生の自由のもつ活力や創造力が損なわれてしまう可能性があります。
 そこのところを微妙に橋渡ししているのが、たとえば、「個人の自由は、制度からその『具体的形態』を受け取るとともに、制度に生命を吹き込む」というフレーズです。つまり、自由を法的権利として保障している制度は、主観性と客観性の相互的な交流を許容し、それによって制度の発展性と安定性のバランスをとっているわけです。そこに、自由の基本的人権が「主観性と客観性を持つ」、と議論することの意味がありました。そこでの議論の方法は、厳密に法学的な領域に止まらず社会学的な領域にも広がっています。制度というのは、規範でありまた事実でもあるのです。
 こうした「主観性と客観性」という捉え方は、学問的な認識にとどまらず、私自身の生き方にもずいぶんと影響を与えました。あるいは逆に、私のもともとの思考のスタイルが、そうした理論を研究の対象として選ぶことになったのかもしれません。変化と安定が綾をなす構造のダイナミズム、また自由という主観的なるものがもつ創造力とその客観的な定着、そうしたプロセスの絶えざる反復、というモデルは、私自身が社会や個人の動きの態様を観察し、さらには私自身の行動の指針とし、あるいは組織の運営などに携わる時に、つねに私自身の感覚の中に存在していたものです。このようにして、「主観性と客観性」というテーマに取組んだ私の学問は、私の生き方そのものでもありました。
 このような研究を行う過程で、最初は理解の糸口さえ見つけられなかった、自由における「主観性と客観性」の共存という不思議なテーマについて、おぼろげの構造が見えるようになった時は、私はある種の感動を覚えました。さきほど、ファウスト博士は、生きることの喜びの究極を求めて悪魔との契約を結んだと言いましたが、その契約では、「留まれ!お前はあまりに美しい!」と感動の言葉を発した瞬間に、自分の魂を譲り渡すということになっていました。知識欲からの解放を願ったファウスト博士は、残念ながら、学問の外部にその「美しさ」を求めようとしたわけですが、私は、「主観性と客観性」の絡み合いを解きほぐす手掛かりを見つけた時に、やや大げさに言えば、そのような「美しさ」を感じたことを思い出します。
 皆さんが大学院で学問研究に取組んできた場では、どうだったでしょうか。おそらく皆さんそれぞれが、何らかの形で、学問の感動、「美しさ」というものを経験してきたのではないかと思います。それは、新しい発見であれ、概念や論理の見事な構築であれ、あるいは技術の創造であれ、いろいろなきっかけがあったことと思います。そうした小さな主観的な感動の積み重ねが、やがて大きな客観的な学問の世界を形作り、社会の知識基盤を構成していくことになるのです。
 いま私は、「主観性と客観性」というテーマに触れて、自分の学問と生き方とのかかわりをお話しました。ただ、このテーマを取上げたのは、それだけの目的ではありません。実は、皆さんに対して、「制度を変化させていく主観性」というポイントも強調したかったのです。「制度」という言葉を使うと、法制度といったものを思い浮かべがちかもしれませんが、それだけではなく、もっと広く、習慣的に用いられている概念や論理の枠組み、あるいは仕事のやり方や実験の手法なども、ここに含めて考えてもらうとよいと思います。
 社会の仕組みであれ学問研究の方法であれ、一定の行為の範型を安定的に保持していく仕組みの存在は不可欠です。そうした安定性は、人びとの行為の予測可能性を高め、行為の合理性を担保する効果を持ちます。しかし、それ自体から新しい変化は生まれません。それを生み出すことが出来るのが、生の自由、主観性です。そうした力の躍動を皆さんに期待したいのです。ドイツにおける「主観性と客観性」の制度論に大きな影響を与えた、あるフランスの憲法学者は、「客観的形式である法制度を形成していく際の主観的権利の圧力ないしイニシアティブ」、というものの重要性を語っていました。そして、その主観性は、「企業的自由」、「賭けと投機の情熱」、「創造的自由」、といった言葉で表現されています。
 最初にお話ししたように、時代はいま大きな変化の時期を迎えており、そこに多くの困難な課題があることはたしかです。しかし、同時にいまの時代は、変化を生みだす個人の役割、言いかえれば主観性の機能に対して大きな期待をかけている、と捉えるべきでもあると思います。日本では、近年、規制緩和や自己責任の議論なども経て、さまざまな政治哲学や社会哲学などの違いはともかく、すでに存在している客観的な仕組みや制度を墨守するのではなく、社会を動かすイニシアティブを個人により求める動きが強まってきています。つまり、客観性より主観性が重視される時代、主観性の持つ創造力を通じて新しい制度づくりが期待される時代に入っています。
 皆さんの中には、これから、さらに大学院で研究を続ける人もいれば、社会のいろいろな現場に出ていく人もいます。しかし、いずれにしても、学問とのかかわりからは一生離れられないはずです。学問研究にさらに沈潜するにせよ、学問研究そのものからはある程度の距離を置くにせよ、大学院修了というこの機会に、自分と学問との関係を見つめなおす中で、自らが持つ主観的なるものの価値や力もまた再確認して、次の時代を創っていく一歩を踏み出してもらいたいと考えています。
 そうした主観的なるものの発揮は、いつも一直線に客観的なるものの形成につながるとは限りません。「求め続けている限り、人間は踏み迷うものだ」これは、戯曲『ファウスト』の中に出てくる主なる神の言葉です。学問において、さらには生きるということにおいて、私たちが踏み迷うのは当たり前のことです。この変化の時代にあって、新しい挑戦に躊躇をする理由はないように思います。
 皆さんのご健闘をお祈りします。
 

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