平成22年度入学式(大学院)総長式辞

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式辞・告辞集  平成22年度入学式(大学院)総長式辞

平成22年度東京大学大学院入学式総長式辞

平成22年(2010年)4月12日
東京大学総長  濱田 純一

 このたび東京大学の大学院に入学なさった皆さん、おめでとうございます。これから皆さんが、大学院という新しい世界、より深い学問の世界で、充実した学生生活をお送りになることを、心より願っています。
 そして、また、皆さんがいま、こうしてここにいることを可能にして下さった、皆さんのご家族はじめご関係の皆さま方にも、心からお祝いを申し上げたいと思います。
 今年の大学院の入学者は、4,701名です。その内訳は、修士課程が2,973名、博士課程が1,353名、専門職学位課程が375名です。そのうち、男性と女性の割合は、ほぼ3対1になっています。また、入学者の中で外国籍の学生の数は511名、つまり入学者のおよそ1割強ということです。
 これだけ多くの数の皆さんが、これから東京大学の大学院で、その専門的な学識をさらに深めるべく、勉学に励まれるということになります。

 大学院における教育研究環境について、東京大学は、さまざまな形で、その充実を図ってきました。各研究科におけるカリキュラムや授業内容を拡充するとともに、横断型教育プログラムや、学生版エグゼクティブ・マネジメント・プログラムなど、研究分野の横の広がりを学ぶことのできる仕組みも、整えてきています。さらに、いま全学的に国際化の動きを強化しつつありますが、その中で、英語だけで修了できるコースを大幅に増やしたり、皆さんが海外の大学や研究機関に出かけて勉学できる機会を拡大したりしたいと考えています。このところ、日本の学生が海外に出かけることに消極的になってきたということも言われますが、たんに知識を学ぶというだけでなく、異なった文化や習慣、価値や思考様式に身をもって触れることは、豊かな創造力の源となりたくましい力を育てます。ぜひ、そうした機会を積極的に活用いただければと思います。この場にいる留学生の皆さんは、まさにそうした経験をなさろうとしているわけです。さらにまた、皆さんに対する経済支援策を拡充していくとともに、キャリアサポートや学生相談体制の整備なども、大学として近年とくに力を入れてきているところです。
 このように、さまざまなレベルで教育研究環境を整えることによって、皆さんが持っている素晴らしい能力が、大学院においてさらに大きく花開くことができるように、大学として引き続き力を注いでいきたいと考えています。

 さて、皆さんを取り巻くいまの時代は、大きな変化の時を迎えています。それに対して、大学や学問は、変化をよりよい方向にリードしていく、重要な役割を果たすことを求められていると考えています。東京大学では、こうした社会からの期待に応えるべく、『東京大学の行動シナリオ』-これには『FOREST2015』という愛称を付けていますが-それを作成して、この4月からスタートさせました。この行動シナリオの基本的な内容を特集した『学内広報』が、皆さんのお手元の資料の一つとして配布されていると思います。その冒頭部分において、時代と大学との関係について記述されている部分を、少し引用しておきたいと思います。

 「21世紀という新たな時代の輪郭が次第に形作られつつあります。グローバル化が進む中で、民族紛争やテロ事件の頻発、経済格差の拡大、地球温暖化など、安全や豊かさへの脅威が増大する一方、文化、環境、医療、食糧など多くの領域で、国際的な視野と協調のもとに持続可能な人類社会を形成していこうとする動きが、急速に強まっています。未来を見通しにくい不確実性の下、社会の安定的な発展と成熟をいかに実現していくかということが、時代の課題です。
  こうした時代は、大学の存在意義と社会的責任が試される時でもあります。近年の地球的な規模での危機は、それを克服するための科学・技術や思想など、知が有する公共的な役割への関心を高めました。大学こそ、このような知の公共性のもっとも重要な担い手であり、知の創造すなわち『研究』と、知の批判的継承にもとづく人の育成すなわち『教育』とを通じて、より豊かで安定した社会の構築のために果たすべき大学の役割が、ますます重要なものとなっています。その東京大学憲章において、東京大学が『世界的な水準での学問研究の牽引力』であるとともに『公正な社会の実現、科学・技術の進歩と文化の創造に貢献する、世界的視野をもった市民的エリートが育つ場であることをあらためて目指す』と掲げた理念は、今日においてこそ試されています。」

 このように、これからの時代において大学、そして学問が果たすべき役割は、非常に大きいのです。しかし、他方で、昨年来の政府の予算の編成の際にも議論になったように、いまの社会において、科学研究や技術開発を含め、学問というものの意味について、さらには知識そのものの意味について、どのように評価すればよいのか、確信が失われつつあるようにも見えます。のみならず、私たち自身も、学問に携わる、ということがどういうことであるのか、改めて考えるゆとりもなく、いま目の前にある課題にしゃにむに取り組んでいるところもあるように感じます。こうした時代に、いま学問の世界により深く歩みをすすめていこうとする皆さんを前にして、大学において「学問をする」ということがどういうことなのか、その原点の一端を見直しておきたいと思います。

 学問が生み出す知識の役割、ということでは、最近たまたま読んだ”The Marketplace of Ideas(思想の自由市場)”という本、これはハーバード大学のある教授が著した大学教育論ですが、その序文に次のような文章があります。
  「知識は我々のもっとも重要な仕事(business)である。我々のその他の仕事のほとんどすべてが知識に依存しているが、その価値は経済的なものだけではない。知識を追求し、生産し、広く伝え、応用し、そして保存していくことは、文明(civilization)の中心的な活動である。知識は社会の記憶であり、過去への接続である。そして、それは社会の希望であり、未来への投資である。」
  同じような趣旨の知識論は、しばしば目にしますが、きわめて端的に、知識と社会との関係の本質を述べていると思います。
  現代社会の慌ただしさは、こうした知識の本質を見失いがちであり、とくに社会が経済的な困難に直面している時には、すぐ役に立つ実用的な知識が性急に求められる傾向があります。しかし社会の長い歴史の中で知識が果たすべき役割は、それだけにとどまりません。人びとの活動の合理性と創造性、そして社会の夢と豊かさのために、知識は不可欠です。そのことを、人類はとりわけ近代のあけぼの以来、身にしみて経験してきたはずなのです。知識にかかわる行為は「文明の中心的な活動」という言葉は、なかなか含蓄に富んだ表現です。
  このことを反面から言えば、知識の役割に対する評価を適切に行いえない社会は、文明に対する評価、文明のもつ力と未来に対する確信がもてない社会、ということになります。日本がそのような社会であってよいとは思いません。

 さて、いま知識というものについて話をしました。知識が社会にとってもつこのような役割は、学問の社会的意味ということと、そのまま重なります。ただ、学問と知識とは同じではありません。知識は学問の産物ないしは新たな知識を生み出すための用具であって、学問という言葉には、そのような知識を扱う行為、という契機も含まれています。つまり、学問というのは、知識にかかわる実体と行為とによって構成されている、と言ってよいかもしれません。

 そこで、次に、この知識を扱う行為、「学問をする」ということについて、少し考えてみたいと思います。皆さんが大学院を修了した後の進路はさまざまでしょう。企業などに就職して学問の世界からある程度の距離を置く人もいれば、大学や研究機関で引き続き学問の世界に深くかかわっていく人もいると思います。ただ、先々のキャリアはいずれにしても、いま皆さんは、学部時代のように「勉強をする」というのではなく「学問をする」という世界に入り込もうとしています。この「学問をする」という行為に求められる基本的な姿勢について、話をしておきたいと思います。

 学問をする姿勢の具体的なスタイルは、専攻する分野によってそれぞれ求められる特性もあります。ここでは、いずれの分野にも共通する原理に触れておきたいと思いますが、それは、一言で言えば、「知的廉直」ということです。「廉直」という用語は、最近はあまり聞かなくなった言葉です。「廉」という漢字は、「清廉潔白」の「廉」で、直というのは、直線の直です。廉直というのは、廉潔で正直なこと、要するに、心が清らかで私欲がないことを意味しています。
 この「知的廉直」という表現は、19世紀末から20世紀にかけてドイツで活躍した社会学者であり、また経済学者でもあったマックス・ヴェーバーの『職業としての学問』という講演の日本語訳の中で、訳者の尾高邦雄先生-東京大学の文学部で社会学の教授をお務めになった先生ですが-この尾高先生がお使いになっている言葉です。ドイツ語のもとの言葉は、”intellektuelle Rechtschaffenheit”で、”Rechtschaffenheit”を普通に訳せば「正直」「誠実」といった感じになりますが、これにあえて「廉直」という訳語を与えたのは、尾高先生が、このもとのドイツ語の言葉が持つ重さを、精いっぱい日本語としても伝えたかったからだろうと思います。なかなか見事な言葉の選択です。
 その言葉でヴェーバーが言おうとしていたのは、引き続き尾高先生の翻訳をほぼ借りてご紹介すると、「一方では事実の確定、つまりもろもろの文化的な事物の数学的あるいは論理的な関係およびそれら事物の内部構造のいかんに関する事実の確定ということ、他方では文化一般および個々の文化的内容の価値いかんの問題および文化共同社会や政治的結合体のなかで人はいかに行為すべきかの問題に答えるということ、-このふたつのことが全く異質的な事柄であるということをよくわきまえている」それが「知的廉直」ということです。要するに、経験科学的な事実認識と実践的な価値判断、いかに行為すべきかの問題とを、峻別しなければならない、ということです。

 これは、皆さんは、当たり前のことだと思うかもしれません。しかし、学問の世界に入る時にそのように考えていた澄んだ眼差しが、気がつかないうちに曇ってくるということがしばしばあります。とくに、いまの時代のように、学問に対して、社会的に目に見える具体的な成果が、しかも手短な時間のうちに求められがちなところでは、そのような危険が生まれます。時代の要望に応えようといそぐ余りに、事実の確定がおろそかになり、期待される価値を生み出すことに引きずられてしまうリスク、というものがあります。それは、一見、社会の必要に素早く応えているように見えて、しかし実は、社会に対する知識の本質的な貢献を損なう可能性をもっています。さきほど、「知識」のもつ社会的価値について、ハーバード大学の教授の著書を引きながら話したことを、思い出していただきたいと思います。もちろん、知識がすぐに具体的な形で役に立つに越したことはありません。しかし、その際に、事実の確定と価値の問題との峻別、という学問の基本姿勢を、決しておろそかにすることはないように、心していただきたいと思います。

 さきほど紹介したような主張をマックス・ヴェーバーが展開したことには、時代の社会的な背景がありました。この講演は、1919年に多数の学生たちを前にして行われたものですが、当時のドイツは、第一次世界大戦後の革命があり、いわゆるヴァイマール体制に移行しつつある時期でした。こうした混乱の時期に、多くの学生は指導者を求め、それに教師も応えようとする動きがありました。それに対して彼は、「予言者や煽動家は教室の演壇に立つべき人ではない」ということを強調したわけです。
 いまの時代状況は異なります。しかし、ここでのヴェーバーの言葉、考え方は、そうした時代的な文脈を越えて、学問に携わる者の基本的な姿を伝えているものと、私は考えています。事実の確定と価値判断とを峻別する「知的廉直」は、いかなる時代においても、とりわけ、学問が社会とダイレクトにかかわろうとする場面では、つねに意識されるべきものです。

 そして、ここで、「知的廉直」ということを語る時に、マックス・ヴェーバーが意図していたところを、いま少しふくらませて、あわせて皆さんへの期待としたいと考えています。
  それは、皆さんが日々の実験を行い、あるいは論文を執筆するプロセスにおいても、常に「廉直」であってもらいたいということです。実験を行う際に結果の適正な取扱いを心がけ、データのねつ造などの行為を決して行わないこと、あるいは、論文を執筆するにあたって他人の論文の盗用などを絶対に行わないこと、こうしたことは「知的廉直」という以前に、学問に携わる者のイロハであるとも言えます。しかし、研究成果を求める激しい競争は、研究環境の技術的な変化などとも相まって、そうした過ちへの誘惑の危険を高めていることも事実です。皆さんには、この当たり前のことを、もう一度、肝に銘じておいていただきたいと思います。

 現代社会では次々に新しい課題が登場し、学問の世界は、かつてマックス・ヴェーバーが生きた時代よりも、はるかに広大で複雑な領域となっています。そこでは、学問研究の手法も多様になり、たとえばIT機器の発達によって新たな研究のスタイルも生まれています。しかし、「知的廉直」という価値は、いかなる時代に生きるにせよ、学問に携わる者の変わらぬ価値であると、私は信じています。

 さて、今日は、新しく入学なさる皆さんのご家族の方々、ご関係の方々もたくさんおいでになっています。最後になりましたが、皆さまにも一言ご挨拶を申し上げておきたいと思います。博士課程に入学なさる皆さんは、すでに大学院生としての経験を持っていますし、修士課程に入る皆さんも、学部での時期を過ごした、しっかりとした大人です。すでに生活の面でも勉学の面でも、間違いなく一人でやっていけると期待出来る皆さんたちです。
 ただ、大学院での勉学、研究というのは、学部での勉強以上に、強い精神力と体力を必要とします。特定のテーマに情熱を注ぎ込むことは、肉体的な負担はもとより、しばしば、個人の内面における、孤独で苛烈な作業となることも少なくありません。そのことをご理解いただいて、ご家族の皆さま、ご関係の皆さまには、どうか、そうした厳しい学問の世界にいる皆さんに、折に触れ精神的なサポートをして差し上げていただければと思います。

 東京大学は、今日、このように多くの皆さんが、学問の未来の可能性にともにチャレンジしていく仲間として、新たにくわわって下さることを、心から嬉しく思います。皆さんに、改めて東京大学としての歓迎の気持ちをお伝えして、式辞といたします。


 

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