平成22年度卒業式総長告辞

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式辞・告辞集 平成22年度卒業式総長告辞

平成22年度東京大学卒業式告辞

 皆さん、ご卒業おめでとうございます。また、皆さんが学業に励んできた間、皆さんをしっかりと支え、この晴れの日をともにお喜びいただいているご家族の皆さまにも、お祝いの気持ちをお伝えしたいと思います。
 皆さんがいま、大学に入学した頃を振り返ってみると、きっと、自分が随分と変わったなという感慨をもつことでしょう。間違いなく、皆さんは知的に、そし て精神的に大きく成長したのです。これから社会に出て、あるいは大学院にすすんで、その力を遺憾なく発揮し、さらに鍛えていってもらいたいと思います。

 このたび卒業する皆さんの数は、合計三一〇一名になります。うち留学生は一〇三名です。
 今年の卒業式は、例年とは大きく異なり、各学部卒業生の代表の皆さんだけに出席してもらい、卒業証書の授与を行うこととしました。場所も安田講堂ではな く、この小柴ホールを用いることになりました。これは言うまでもなく、東北地方太平洋沖地震、そして福島の原子力発電所の事故の影響を考慮したものであ り、また多数の人間が一堂に集まった場合、万一の際の避難リスクの高さに配慮したものです。この式典の模様はインターネットで中継されていますので、多く の皆さまにご覧頂いていることと思います。

  皆さんがこの東京大学で過していた間にも、世の中は大きく変化しました。二〇〇八年のリーマン・ショックに端を発した世界的な金融危機、経済危機は、皆さ んが大学に入ってから間もなくの出来ごとです。その時からだけでも、時代は急速に動いています。経済の低迷や社会的格差の拡大、少子高齢化の進行、あるい は国際的なパワー・バランスの変化など、日本の社会に試練をもたらすさまざまな出来事が起きました。
  さらに、つい先ごろ、東北地方太平洋沖地震が発生しました。ここに卒業の日を迎えようとしている皆さんあるいはそのご家族、ご関係の皆さまにも被害が及ん ではいないかと、憂慮しています。この震災によってすさまじい数の尊い命が失われたことに、深い哀悼の気持ちを捧げたいと思います。まだ行方不明の方も多 く、関係の皆さまのご心痛はいかばかりかと存じます。また、負傷し、あるいは心に傷を負われた皆さま、生活の基盤を失われた皆さまに、心よりお見舞いを申 し上げます。このたび卒業する皆さんの中にはすでに、さまざまな形で被災地への支援活動を行っている人たちがいると思います。ぜひこれからも、さまざまな 工夫をして支援の輪を広げていただければと思いますし、東京大学としても出来る限りの努力を行っていくつもりです。
  日本は、第二次世界大戦の惨禍から驚異的な復興を遂げ、六〇年あまりを経て、今日の豊かな近代社会を形成してきました。そうした社会でなお、なぜこれほど 多くの人命が失われ、心身を傷つけられ、あるいは生活の基盤を奪われるような大きな犠牲を出さなければならなかったのか、さらには安全を極めたはずの原子 力施設をなぜ十全にコントロールすることができず、多くの人びとが不安におののいているのか、まことに無念に思います。それは、人間としての無念さである と同時に、学問に携わる者としての無念さでもあります。

  こうした大きな時代の試練を大学在学中に経験して卒業していく皆さんには、これらの出来事があったことを生涯において忘れることなく、学んできた知識がこ のような事象に対して何を出来たのだろうか、また何を出来るようになるべきなのだろうか、それらを問い続けることを、これからの仕事や研究のバネとしてい ただきたいと思います。とても残念なことですが、知識はしばしば悲劇をバネにして成長を遂げます。技術が戦争をきっかけに発展するということはよく言われ ますが、日本では第二次世界大戦後の復興の槌音の中でも技術は大きく成長しました。また、たとえば日本の社会科学は、戦争の惨禍に対する深い反省を踏まえ て大きく発展してきたところがあります。さらに、このたびの大震災は、人間と自然との関係のあり方についても課題を投げかけているように思えます。苛酷な 事態から真摯に学び、痛みが少しでも早く癒えるように、また、次の世代が同じ苦しみや悲しみを味わわなくて済むようにすることが、学問の務めであり、そし て学問を学んだ人間の務めです。
 たしかに、物事をぎりぎりまで考え抜く力は、極限的な状況に直面し、あるいは極限的な状況を想定することから生まれます。学問においては、そうした限界 状況の設定が、個人の精神の内面で生じることもあれば、外界の事情、困難や悲劇によってもたらされることもあります。いずれにしても重要なことは、そうし たぎりぎりの状況を直視することから知識は生まれる、ということです。

  いま私は、知識の役割を、社会に対する直接的な貢献の面からお話ししてきました。しかし、知識の役割は同時に、きわめて個人的なもの、すなわち、個人の人 格としての成長にもかかわるものです。『論語』の中の孔子の言葉に、「古の学者は己の為めにし、今の学者は人の為めにす」という一節があります。つまり、 かつては学問をするという行為は自らの人格を高めていく修養であった、しかし最近の学者は、「人の為にす」となっていると。この「人の為にす」という言葉 は一見、「社会の役に立つ」という意味のように受取れ、孔子はそれに否定的であったように読めます。しかし、この論語に訳註を付していらっしゃる金谷治先 生の説明では、「人の為にす」というのは「人に知られたいためにする」という意味で、孔子が否定していたのはこのような、もっぱら他者の評価を意識した学 問への姿勢です。
 孔子がいう「古の学者」の姿は、「知を愛求する者」として自らの存在を規定した、ギリシアのかのソクラテスやプラトンの姿勢に通じるところがあるように 感じます。知るということをとことん突き詰めていくことを通じて、自らの魂の完成を目指した、その姿勢です。もっとも彼らの場合は、魂の完成は神への奉仕 と重なっていますが、人びとの精神的基盤が近代個人主義に支えられている現代においては、そうした重なりを想定するかどうかは個人によって異なるでしょ う。
 ここで重要なのは、このように自らの魂の完成を知の追求を通じて目指すこと、修養ということが、社会にとっても意味あるものだということです。魂の完 成、人格の成長の効用は、個人だけのことにとどまらないのです。たしかに知の愛求は、それ自体として社会の生産性を高め物質的な豊かさをもたらすわけでは ありません。むしろ、それは、彼らが生きたアテネでは社会に有害なものとして退けられ、ソクラテスへの死刑宣告までもたらしたことはご存知のとおりです。 しかしながら、今日までもプラトンの思想が、多くの人びとによって論じられ、参照され続けているという事実は、まさしく、自らの魂の完成を求める知の追求 が、一見個人的な事柄であるように見えながら、実は社会のためにも大きな意味を有していたということの証左にほかなりません。
 「社会に役立つ」かどうかという時、社会を構成しているのが個々の人間である以上、個人の知的精神的成長が社会に有意味であるのは当然のことです。知識 が社会のために役立つべきだと考える時には、「己の為にす」る学問の大切さも見過ごすべきではありません。このたびの惨禍と多くの人びとの痛みを、一人の 個人の内面において思いめぐらし考え抜くことも、次の時代の社会のありようを構想していくための重要なポテンシャルになるはずだと思います。

  このように、知識が社会に対して直接的に、あるいは間接的にもつ役割を理解しながら、皆さんにはこれからも、知識というものと深く付き合い続けてもらいた いと思っています。知識をさらに学び成長させていくための基礎的な力は、大学での勉学を通じてすでに皆さんに十分備わっています。もちろん、その知識は、 まだまだ素朴なものです。いま皆さんが持っている知識を絶対のものと考えて、それで世の中を割り切ることには慎重であってほしいと思います。今の自分の知 識を他の人の知識やこれからさらに学ぶ知識とぶつけ合わせる、あるいは現実の経験の中で鍛えていく、そういう謙虚な姿勢をもつことによってはじめて、皆さ んの知識は本物になります。そうしたプロセスそのものが学問を「己の為にす」る行為となるとともに、そこで鍛えられた知識は確実に社会に役立っていくこと と思います。

 最近、若者が「内向き」だと言われます。例えば海外留学に出かける若者が減っているというごく部分 的な現象だけをとれば、「内向き」という表層的な評価が出てくるのかもしれません。しかし、私は、「内向き」かどうかは、いま申し上げたような知識に対す る真摯な姿勢を皆さんが持ちつづけるかどうかで決まると考えています。この点では、皆さんが「内向き」であるとはまったく思いません。すさまじい惨禍をも たらしたこのたびの震災は、これからの日本社会の形にも大きな影響を与えることになるはずです。新しい日本の姿を求めていく格闘の中で、知識というものに 正面から向き合い続ける皆さんの姿勢が、間違いなく、次の時代を生み出す力となると信じています。
 皆さんのこれからのご健闘をお祈りしています。

平成二三年三月二四日

東京大学総長
濱田純一
 

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