平成23年度東京大学 大学院 入学式 式辞

平成23年度東京大学 大学院 入学式 式辞

 この度、東京大学大学院へ入学ならびに進学された皆さん、誠におめでとう。皆さんの入学を教職員一同、心から歓迎致します。
 また、今日まで皆さんを育て、勉学を支えてこられたご両親、ご家族をはじめ多くの関係者の方々におかれましては、本日の入学式の感慨はひとしおのものがあると思います。本日は残念ながらこの会場にご臨席頂けませんが、お祝い申しあげる次第です。
 大学院で学部とは異なる、一段と深い学問に挑戦する皆さんが実り多き充実した大学院生活を送ることを心から祈念しております。

 本日の式典に先立ち、総長の浜田先生が話されましたように、私からも東日本大震災について触れないわけにはまいりません。この度、有史以来の国難ともいうべき東北地方太平洋沖地震による大災害の被災者に対して心からのお見舞いの言葉を申しあげます。尊い命を失われた多くの人々に深い哀悼の意を表すると同時にご家族やご親族,ご友人を失われた方々の悲痛な思いは察するにあまりあり、生活基盤となる家や田畑などに壊滅的な被害を受け、困難な避難生活を余儀なくされている方々の塗炭の苦しみは想像を絶するものがあります。さらに、福島第一原子力発電所の事故は現在でもなお予断を許さない状況にあり、一日も早い復興と生活再建を心から祈念する次第であります。

 さて、今回の原子力発電所の事故は科学を志す私たちにとって看過することの出来ない重要な課題を突きつけています。それは一般国民が科学および科学技術に対して疑いの目で見るようになりつつあるということです。原子力発電については、日本では厳格な管理体制の下でコントロールされ,万に一つも人体に影響のあるレベルの放射能漏れなどない、間違ってもスリーマイル島のような事故は起きないと信じられてきました。しかしながら、巨大地震により引き起こされた津波により原子力発電所が破壊され、発電が停止したばかりか、放射性物質が放出される恐れが引き起こされています。津波による破壊後一カ月たつ現在においても事態が好転しているとは言い難い状況にあり、広範囲に及ぶ放射能汚染の可能性は未だ続いています。

 元来、日本国民は科学に対して温かい目を注いできました。先の仕分け作業においても、大学の先生方が研究を行う上で重要な科学研究費補助金も大幅な削減はなく、そのことに関して国民、マスコミから大きな批判はなかったと認識しています。
 明治以来、日本を先進諸国の一角に導いたのは日本人の努力と勤勉さと同時に、教育を重視し、それに基づく科学を強力に推進したことにあると信じられてきました。先端科学を基盤とした付加価値の高い製品を多数生み出し、それが日本国民のみならず人類を幸福に導いていると考えられてきました。しかしその考えに今回の事故は大きく疑問を投げかけているのです。

 実は、これは原子力発電だけの問題ではありません。今日は科学技術の持つ二面性についてお話したいと存じます。私は薬学系研究科の教授をしておりますが、先月二十三日に薬学関係者にとって重要な裁判の判決が東京地方裁判所で出されました。イレッサ訴訟に対する判決です。この判決は今回の大震災の報道の陰に隠れ、ほとんど注目されませんでしたが、日本の将来の医療・医薬品開発を考える上で大きな影響力のある判決です。この判決の是非をこの場で論じるつもりありません。イレッサは肺がんの治療薬です。肺がんは現代の先端医学を持ってしても極めて治療の難しい病気で、年間世界中で百三十万人が死亡しており、特に日本での死亡数は胃がんなどが減少傾向にあるのに対して急激に増加しております。特に男性にこの傾向が顕著です。イレッサは他の抗がん剤が効かない非小細胞肺がんの分子標的薬として登場しました。しかし、イレッサは非常に使い方が難しい薬で、肺がんで打つ手がない患者でも人によっては福音(ふくいん)とも言うべき劇的な治療効果を示す一方で、人によっては間質性肺炎などを引き起こし、死に至る事がある薬です。東洋人と西洋人でも効果が異なります。何故このように人によって、作用が異なるのか、現在その作用の一端が解明されつつありますが、四、五年前まではその機構は全くわかりませんでした。
 仮に、五年前、皆さんのご両親、ご家族が肺がんになって、既に有効な治療法がない状態で、このままでは死を待つばかりの時に、皆さんはイレッサを処方してもらうでしょうか。人によってはがんが劇的に治る、人によっては死期を早めることもある。極めて難しい選択です。
 君たちならばどうするでしょうか。治るかもしれない。あるいは副作用で早期に死を迎えることになるかもしれない。その時点において絶対的な正解がないという点ではどこかの国の「白熱教室」におけるような質問ですが。
 ここで私が申しあげたいことは、科学が進歩しその波及効果が大きくなるに従って科学の持つ二面性が顕在化して、「想定外」の言葉で表される負の面が前面に出て来るということです。薬に関することで「毒にも薬にもならない」という表現がありますが、確かに一般に毒にならないものは薬にもなりません。皆さんはサリンという毒性物質をご存知ですか。ここにご列席の先生方で誰一人知らない人はいない大事件を引き起こした毒物ですが、この化合物の作用は、少し専門的になりますが、アセチルコリンエステラーゼという加水分解酵素の阻害です。驚くべきことに老人性認知症で知られているアルツハイマー病の治療薬であり、世界中で最も広く用いられているアリセプトも同じ酵素アセチルコリンエステラーゼを阻害することにより治療効果を発揮します。

 さて、この科学の持つ負の面を克服する方法は何かと問われたときに、人間が有する手段はただ一つ、それはやはり科学です。新たな科学でもって従来の科学の負の面を克服していく以外に道はないのです。ここで申し上げている科学は、いわゆる理系の自然科学だけを指しているわけではありません。人文科学、社会科学を含めたすべての科学を念頭において述べているのです。
 科学者は前人未踏の分野を開拓するものです。前人がなした仕事を追試してもそれは単に「例題」を解いただけです。新たな科学で前人が行った負の面を持つ科学を解決するという未知の分野は教科書に解決方法は書いてありません。正解があるのかもわかりません。薬学で言えば、がん細胞のみを殺傷し、副作用が全くない治療薬が求められているのです。

 皆さんは、今日からその科学の戦いの最前線に立つのです。今まで小学校以来行ってきたことは、「例題」を解いただけです。「例題」には正解があります。大学院の研究は「例題」ではありません。正解があるか否かもわかりません。抗がん剤に副作用があっても仕方ないと考えるか、いつの日か必ず、と考えるかで研究者としての志の高さが覗えます。
 科学に対する国民の疑念を解くことは我々研究者の責務です。易きに甘んじることなく、自らを厳しく律し、物事の本質を見通す目を養って頂きたいと願っています。

 科学との戦いに臨むにあたって、「高い志」を持つことの重要性を強調しておきたいと存じます。
 最近の日本経済の停滞から、ともすると日本の若者が萎縮した傾向にあるように見えます。しかし日本国内だけを考えることはありません。今日の世界は十、二十年前に比べ、極端に小さくなっており、世界のある場所で起こった出来事が分単位で世界中に周知されます。この世界における情報の共有化は加速度的であり、皆さんが社会の中核として活躍する二十年後は私たちが今、東京とニューヨークの間に感じている距離がおそらくは東京と関西の間くらいになるのではないでしょうか。皆さんが日本だけではなく世界を活躍の舞台とすることはもはや当然のこととなるでしょう。狭くなりつつある世界で日本だけが諸君の活動の場ではありません。
 そして、世界で活躍する場合においても重要なことは、「高い志」を持つことです。その志を実現するためには幾多の困難を乗り越えなければなりません。この困難は諸君を鍛え、磨き上げ、更に高い目標に向かっていく力を養います。東京大学の学生は社会のエリートであり、社会を牽引する能力を持っております。是非ともその能力を鍛え上げる努力を今後とも惜しむことなく、初期の志、目標に向けて真正面から取り組み、人類の役に立つ大仕事を成し遂げることを期待しております。志の高い人は欲得で行動してはいけません。広く世の中のために尽くすことを第一義において頂きたい。
 今からおよそ半世紀前の一九六四年三月の東大卒業式で、当時総長であられた大河内一男先生は卒業生に贈る言葉として「太った豚になるより痩せたソクラテスになれ」と述べられました。誘惑に負けない、清廉な人になれと言われ、この言葉は当時の若い学生に大きな影響を与えました。

 私は皆さんの今日の新たな出発に当たって「志士仁人(ししじんじん)」の言葉を送りたいと思います。これは論語に出てくる言葉で、志士は志が高いひと、仁人は仁徳のある人、志士仁人は生を求めて以て仁を害するなし、と述べられています。志の高い人は生きる上において、人の道に背くようなことはない、と私は解釈しています。高い志を持つと同時に、その志は仁愛の精神に基づいたものであり、人々に歓迎されるものでなければなりません。それがエリートに課せられた任務です。私は、諸君のこれからの大学院の研究者生活において、世界の人々のリーダーとして活躍する気概を持って臨むことを期待しています。

 この式辞の結びに当たって、健全な心身の重要性を述べておきたいと思います。私は高い志を持て、そしてそれは自らの私欲に根差すものであってはならないと言いました。このような志を成し遂げるには高い能力だけではなく、強靭な身体が必要です。全ての基盤は健康な体力と精神です。高い志を成し遂げる上において、心身ともに健全であることの大切さを強調しておきたいと思います。

 最後に,国民は輝かしい未来の構築に向けて、東京大学の学生に大きな期待を抱いております。この期待を背負い、諸君が逞しくそして悔いのない大学院生活を送ることを希望しております。これからの諸君に幸多かれと心から祈念して、私からの式辞と致します。

平成23年(2011)4月12日
東京大学大学院薬学系研究科長
長野 哲雄


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