平成25年度東京大学大学院入学式 総長式辞

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式辞・告辞集 平成25年度東京大学大学院入学式 総長式辞

 このたび東京大学の大学院に入学なさった皆さん、おめでとうございます。これから皆さんが、学問の森にさらに奥深く分け入って、充実した学生生活を送り、大きな成果をあげてくださることを願っています。ここにいる皆さんの中には、博士課程に進学する人もたくさんいますが、さらに研究の最先端を究めてもらいたいと思います。とくに研究者の道に進もうと考えている皆さんの場合、私自身の経験を振り返ってみても、研究者人生における基本的な枠組みの少なからざる部分が大学院生の時期に形成されます。そのような貴重な時間を大切に過ごしていただきたいと思います。
 また、今日のこの場には、皆さんの大学院への入学を支えて下さった、ご家族の皆さまにも多数ご出席をいただいています。心からお祝いを申し上げます。いまここにいる大学院生の皆さんは、いずれも、これからの日本の、また世界の多くの国々の知性の未来を担っていく人たちです。そうした人たちが皆さんの家族であることを誇りと感じていただければと思います。大学院での勉学、研究というのは、学部での勉強以上に、強い精神力と体力を必要とします。特定の研究テーマに情熱を注ぎ込むことは、肉体的な負担はもとより、自分の骨身を削るような精神的緊張を要する作業となることも少なくありません。そのことをご理解いただいて、ご家族の皆さまには、どうか、そうした厳しいチャレンジを日々続けている皆さんに、折に触れサポートを差し上げていただければと思います。

 今年の大学院の入学者は、4,475名です。学部の新入生は3,100名余りですから、その約1.5倍近い数ということになります。これは、東京大学が、大学院重点大学、研究ということに重きを置いている大学であることの証でもあります。その内訳は、修士課程が2,807名、博士課程が1,297名、専門職学位課程が371名です。入学者の中で留学生の数は428名、つまり入学者の1割近くを占めていることになります。入学する人たちの中には、東京大学以外の大学からの皆さんも数多くいます。これらの皆さんが、東京大学に新鮮な力をくわえてくれることはもちろん、教育研究環境に多様性をもたらしてくれることを、大いに歓迎したいと思います。新しく東京大学に入学した皆さんは、最初は戸惑うことも多いと思いますが、この大学のシステムに早く慣れていただくとともに、皆さんそれぞれの個性を十分に生かして、活力ある知的コミュニティを形成し、その中で自他ともに成長を遂げていただければと願っています。

 現代社会は、皆さんがすでに承知しているように、複雑で多様な課題を数多く抱えています。そこでは、「解決のモデルのない時代」だということもよく言われます。このように「解決のモデルのない時代」というような時代規定がなされることは、大学という組織にとっては大きなチャンスであり、また同時に、大きな責任を引き受けることにもなると、私は受け止めています。つまり、これまでの技術や制度や仕組みをどこからか真似るだけでは課題解決が出来ないとなれば、救いは、新しい知識や知恵を生み出すことの出来るところに求めざるを得ません。そうした場の最たるものが大学です。最近、大学改革をめぐる議論が盛んになってきています。その背景として、いわゆるグローバル人材の育成への期待ということもありますが、同時に、イノベーションという言葉に象徴されるように、これまでにないような新しい技術や経済・社会の仕組みなどが創造されていくことに対する大きな期待があります。そうした時代の期待にしっかり応え社会に役立っていくということは、この大学の大学院で研究を行う者の責任であり、かつ誇りでもあると思います。

 いま私は、「社会に役立つ」という言葉を使いました。その言葉で通常思い浮かべるのは、社会に対してなんらかの具体的な成果をもたらすような活動、というイメージだろうと思います。しかし、学問研究には、必ずしもそのような直接的な形ではない成果があります。長い目で見れば、そちらの成果の意義の方が大きいと言えるかもしれません。それは、学問研究に必然的に伴われるはずの、自由な精神、批判的な精神、そして、真理を求める好奇心と喜びということです。そうした精神を社会の一部として担い続けていくことは、大学、そして学術の持つ大きな価値であると、私は考えています。そして、そうした精神に対する敬意を持ち、さらにはそうした精神が普遍化する社会こそ、さまざまな困難な課題を乗り越えて新しい時代を創造していくことのできる社会であると思います。

 皆さんの中には、東京大学の研究組織の一つで、Kavli IPMU、カブリ数物連携宇宙研究機構という名前を聞いたことがある人もいると思います。この機構は、文部科学省が定めた世界トップレベル研究拠点プログラムの一つとして、柏キャンパスを拠点に、研究の先端性や国際性などの点で素晴らしい成功を収めている組織です。ただ、そこでの研究のテーマは、「宇宙は何で出来ているのか」、「宇宙はどのように始まったのか」などといった、一見すればいまの社会に直接的に役立つことが見えにくい内容です。この組織を率いている村山斉さん、この先生は、カリフォルニア大学バークレー校の教授と東京大学の教授を兼務して、太平洋の上を頻繁に行き来しながら活動している大変魅力的な先生ですが、ある本のあとがきで、こんなことを書いておられます。

 「IPMUではこうした宇宙の大きな謎に迫るため、数学者、物理学者、天文学者が集まって日々がやがやと新しいアイディアを考えています。いまはまさに『革命前夜』といった雰囲気が漂っています。」
 「一方、『こんなことを調べて一体何の役に立つんだ?』と疑問に思われた方もいると思います。実は私は文部科学省や財務省、また一般の方々から同じような質問を受けることがありますが、いつもこのように答えています。『日本を豊かにするためです』と。『豊か』という言葉は、経済的な意味もありますが、心、精神、文化の豊かさも含んでいます。人生の半分近くを外国で暮らした私から見ると、日本はこうした広い意味での『豊かさ』をとても大事にする国です。これからもそうあってほしいですね」、そう、結んでいらっしゃいます。

 もう一人、やはりこの組織で一緒に仕事をなさっている、カリフォルニア工科大学の大栗博司さんという先生の言葉も引いておきたいと思います。
 少し前に、ヒッグス粒子の発見ということが話題になったのを、皆さんも記憶していることと思います。別にそんなことが分かろうと分かるまいと私たちの日常生活には何の関係もなさそうです。だのに、なぜ、報道などでも大きく取り上げられ、多くの人びとが関心を持つのでしょうか? このことについて、大栗先生は次のように述べておられます。
 「まだ何の役に立つのかわからないヒッグス粒子の発見は、私たちの知的好奇心を満たし、科学のすばらしさを教えてくれました。」
 「こうした科学の成果が与えてくれる喜びは、文学、音楽、美術などがもたらすものと変わるところがありません。自然界の奥底に潜む真実を解き明かす科学は、この宇宙における私たち人間の存在について、深く考えるきっかけを与えてくれる。それこそが科学の喜びであり、私たちが大切にすべき価値だと思います。」

 このように、「真実を解き明かす」という言葉、それをさらに理念化、抽象化すれば、「真理を探究する」という言葉は、日々の変化が激しく目前の課題への対応に追い回されることの多い現代社会では、さらには、真実であるとされることの危うさにしばしば出くわすような経験もしてくると、この私でさえ、もはや死語に近づきつつあるのではないかという錯覚にとらわれることもあります。
 しかし、学問という世界だけに限らず、日々の仕事や生活においても、真実や真理といった究極的なものに対する憧憬は、何であれ、より良いものを目指して新しい課題に挑戦していこうとする行動の根底に存在しているように思います。真実や真理といったものを、意識的にせよ無意識的にせよ観念するからこそ、人は現状に満足しないで夢を持ち、前へ前へと進んでいくことが出来るのだと、私は信じています。そうした意味では、「真実を解き明かす」、あるいは「真理を探究する」という観念に対して信頼や評価が与えられない社会は、明日の時代を築いていく活力を失っていくでしょう。皆さんが大学院で研究というものに携わる原点かつ究極の意味は、実はそこにあります。皆さんが真摯に研究に打ち込むという姿勢そのものが、何か具体的な成果を生み出す以前に、そもそも、こうした社会の根幹となるべき原理を再生産していく活動なのだ、その意味でも「社会に役立つ」のだということを、改めて自覚し、また誇りとして、研究に励んでもらいたいと思います。

 このように自由な精神をもって真実を解き明かそうとする時に、「教養」というものがもつ大切さについて、皆さんにお話ししておきたいと思います。
 大学院では皆さんは、これまで以上に専門分野、特定のテーマに入り込んで研究をすすめていくことになります。そういうタイミングで、改めて「教養」という言葉を聞くのは、皆さんには違和感があるかもしれません。教養を学ぶということは、もう大学の1,2年生の時期で終わったと考えているかもしれません。たしかに、大学に入って専門分野を学ぶに先立って、学問の世界の豊かな広がりを理解しておくことは大切なことです。しかし、教養を学ぶということは一生涯にわたって続いていくものだと、私は考えています。

 東京大学の歴代の総長には沢山の素晴らしい方々がいますが、そのうちでも、第二次世界大戦終了直後に就任された南原繁総長は、戦後の東京大学の制度の基盤を作ると同時に精神的な基盤を作られた総長です。南原総長は、戦後の大学の復興にあたって、「人間性」や「精神の自律」という観念を柱に据えられましたが、新たに東京大学に教養学部が発足したこともあって、しばしば「教養」の意義ということに触れておられます。昭和26年の入学式、やはり今日と同じ4月12日という日に開催されていますが、そこでのお話の中に、次のような一節があります。少し長いのですが引用させていただきたいと思います。
 「教養の意義は、さやうにして、諸君のこれからの専門知識と研究が展開されてゆく普遍的基盤を提供するばかりでない。その目ざすところは、畢竟、もろもろの科学を結びつける目的の共通性の発見であり、かやうな目的に対して深い理解と価値判断をもった人間を養成することに在る。この意味において、教養は、まさに時代の高きに生きんとする人間の何人もが、欠くことのできない精神的条件である。
 かやうなものとしては、それは諸君が、大学において単に教養科目を修得したり、教養学部を修了することをもって、終わるものではない。諸君のすべての学究時代を通し、否、全生涯を通して、常に心がけなければならぬところのものである。それは究極において、われわれがおのおの一個の人間として、人生と世界に対する態度―随って、深く道徳と宗教にまで連なる問題を決定する。かくして、遂にわれわれの裡なる人間性の自覚と独立に向はしめずには措かぬであろう。
 然るに、われわれが生を生きるのは、他ならぬ他人との共同生活においてである。だから、教養とは、結局、われわれが自主的に価値を選別し、真理と自由と思惟するところを、社会と同胞との間に実現する能力と勇気を具えた社会的人間の養成といふことに外ならない。そして、それを可能ならしめる根拠は、あくまで人間の自由の自覚と精神の自律である。」

 このお話は、ちょうど私が生まれた頃になされたものですが、言葉遣いは別として、その内容は今でも実に新鮮です。ここには、教養を身につけるということが持つ意義が多様に、かつ統合的に示されています。
 教養を学ぶことの実践的な意味合いということで言えば、大学に入ったばかりの時に受ける教養教育が、まさに「これからの専門知識と研究が展開されてゆく普遍的基盤」ということになります。また、「もろもろの科学を結びつける目的の共通性の発見」という言葉がありましたが、それを無理矢理、現実的、実践的に解釈すれば、それは、専門分野に進んでからも他の専門分野に目配りすることの必要性、ということにつながってきます。
 専門分野に限らず、幅広い分野の知識をもつ、幅広いものの見方ができるということは、「学際」であるとか「学融合」という言葉もありますが、今日では、専門分野に進んでからもさまざまなところで求められるようになっています。たとえば、さきほど触れたIPMU、数物連携宇宙研究機構の活動がまさしくそうですし、あるいは、ナノバイオテクノロジーや医療技術などの分野における医学と工学との連携なども、よく知られています。すべてが複雑化しつつある現代社会においては、現実の課題を具体的に解決していこうとすると、複数の学問分野の連携が求められるという場面が非常に多くなってきています。こうした意味で、皆さんが大学院で専門分野を深く掘り進めていくにしても、同時に、知識や知恵を、また、ものの見方をより幅広くしていく努力をつねに怠らないというのは、とても大切なことです。

 もっとも、さきほどの南原総長の言葉は、そうした直接的に実践的な意味を超えて、人格の陶冶にかかわる内容が含まれています。むしろそれが、南原総長の伝えたかったことであるはずです。そこには、知的な活動に携わるということの本質的な性格が、しかも、私たちが日頃つい忘れがちになる究極的な意味が、述べられているように思います。その大切な部分の引用をもう一度繰り返しておきたいと思います。
 「教養とは、結局、われわれが自主的に価値を選別し、真理と自由と思惟するところを、社会と同胞との間に実現する能力と勇気を具えた社会的人間の養成といふことに外ならない。そして、それを可能ならしめる根拠は、あくまで人間の自由の自覚と精神の自律である。」
 大学院での研究生活はどうしても特定のテーマに特化した研究活動になりがちです。しかし、皆さんには、時には、このような言葉も思い起こしながら、大学院で自らの専門性を鍛えていくとともに、自由な精神を具えた人格としての成長も遂げていただきたいと願っています。

 自由な精神を具えた人格、これが大学院での皆さんの理想像の一面だとすると、最後に一言申し上げておきたいのは、これから皆さんが研究の成果として発表していくものは人格の一部である、という意識をしっかりともっていただきたいということです。
 論文であれ研究報告であれ、何かを発表するというのは、自分の人格の一部を外に表現するということに他なりません。人間の精神は、たんなる中継器のように、外から入ってきた情報をオウム返しに又外へ送り出すといった類いのものではありません。そこには、必ず人間としての精神の作用が介在します。つまり、自分で新しい考え方を、新しい論理を、新しい概念を、新しい言葉を、新しいエビデンスを、探し求める過程が、表現をするという行為の前に存在するはずです。そのように精神が介在するからこそ、人は成長し、またそこから創造がなされるわけです。
 そうした意味で、皆さんが何らかの形で研究の成果を発表するとき、安易に人が書いた文章を窃用する、あるいは裏付けとなる資料やデータを欠いたままに発表を行うといった行為は、自らの人格を損なうことになります。研究に従事するという活動は、研究対象、研究テーマとの戦いというより、実は自分自身との戦いという面が少なくありません。今日この場にいるすべての皆さんが、幅広い教養に裏打ちされた自分の全人格をかけて豊かな研究成果を生みだし、学術の未来の可能性に大胆なチャレンジをしていくことを、心から期待しながら、私の式辞を終えることにします。
 

平成25年(2013年)4月12日
東京大学総長  濱田 純一

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