平成25年度学位記授与式総長告辞

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式辞・告辞集  平成25年度学位記授与式総長告辞

平成25年度学位記授与式総長告辞

 

 本日ここに学位記を授与される皆さん、おめでとうございます。このたび大学院を修了する学生の数は、修士課程2,753名、博士課程851名、専門職学位課程308名です。合計で3,912名となり、そのうち留学生は431名で一割を越える割合を占めています。晴れてこの日をお迎えになった皆さんに、東京大学の教職員を代表して、心よりお祝いを申し上げます。また、これまで長い期間にわたり、皆さんの勉学を支え続けて下さったご家族の皆さまにも、お祝いを申し上げたいと思います。

 今年度の学位記授与式は、安田講堂の耐震改修工事がまだ行われていますので、昨年度に続いて、この有明コロシアムで執り行うことになりました。本日、この場に、これからの日本社会、そして世界の国々の科学や技術の卓越性を、あるいは文化や制度、経済などの豊かさを、支えていくことになる知性が一堂に結集していることに、深い感動を覚えています。皆さんの中には、これからさらに研究を続け学問の世界にいっそう奥深く分け入っていこうとする人もいれば、いよいよ大学から離れて社会のさまざまな現場で活躍しようとしている人もいます。

 どのような道に進むにしても、皆さんは、これまで大学院で精一杯に培ってきた専門の力を存分に生かしながら、これからの人生を送り、社会に対する貢献を行っていくことになります。そうした優れた専門家としての道を歩んでいこうとする皆さんを送る言葉として、生涯にわたって教養の学びを続けてもらいたいということを、お伝えしたいと思います。それぞれの分野で専門を生かしていくにあたって、つねに専門以外の事柄にも大きく目を開いて、新しい知識や異なったものの見方や思考の方法を絶えず学び続けることで、皆さんの研究や仕事、そして人生を豊かにしていっていただきたいと願っています。

 教養の学びをしっかり続けてほしいということは、実は、昨年の春に、新しく大学院に入学する皆さんにも伝えました。それによって、自らの専門性を鍛えていくとともに、自由な精神を具えた人格としての成長を遂げてもらいたいという話をしました。同様のことを今日皆さんにもお話ししたいと思った理由は、一つには、皆さんが大学院を修了して専門家として最初のステップを踏み出すタイミングでいま一度、知的な視野をつねに広く持つことの大切さを思い起こしてもらいたかったということと、そして、もう一つには、最近、教養の学びということの意義について、改めて目を開かれる文章に出会ったからです。それは、今日この式典の壇上にもいらっしゃる、教養学部長・総合文化研究科長の石井洋二郎先生の文章です。昨年末の『教養学部報』に掲載された「グローバル化時代のリベラルアーツ」と題する文章がそれですが、そこで石井先生は、教養という概念の見直しの必要性にも言及しながら、この概念としばしば絡めて論じられる「リベラルアーツ」という言葉に触れて、「これは要するに、人間を種々の拘束や強制から解き放って自由にするための知識や技能を指す言葉だった」と指摘されています。その上で、現代人がリベラルアーツを学ぶ意味を次のように記しておられます。すなわち、「種々の制約によって私たちの人間関係や社会活動は否応なく限定されている。言ってみれば、私たちはみな有限であるがゆえに、何重もの不自由さに囲い込まれた存在なのである。だからそうした不自由さから自らを解き放つために(言葉本来の意味において『リベラル』になるために)、私たちは未知の外国語を学んだり、異なる分野の学問を勉強したりしなければならない」、ということですが、この考え方には、私も同感します。

 専門の道を究めていくこと、それと自由であることとの関係は、一瞬よく分からなくなるような感もあります。専門の道を究めるのは、「脇目もふらずに」という言葉が使われることもあるように、きわめて禁欲的に、ある一筋の道に専心してこそなされうるものです。いわば、自由の拘束です。しかし、いくら狭い分野に全力を注ぎ込む場合であっても、その時皆さんの精神は自由であるはずです。そうでなければなりません。自由であるからこそ、好奇心が生まれ、新しい概念や論理が湧き出し、発見や工夫を生み出すことができるのです。

 ただ、そうした場面であっても、と言いますか、自分は自由であると思い込んでいる場面であるからこそなおさら、自分は本当に自由なのか、と問い直してみることが大切です。おそらく皆さんの中にも、専門的な研究を深めていく中で、ふと、自分は何やら固定観念に囚われているのではないか、という感覚に襲われた人も少なくないのではないかと思います。それがまさしく、自分の知性や精神は本当に自由なのか、自由に思考しているのか、と半ば無意識的に感じている瞬間です。そして、そうした瞬間を越えた時に、思いがけないアイデアが浮かんできたという経験をした人もいるはずだと、私は自分の研究者人生を振り返って、そう想像します。

 こうした話をしていると、私は、もう半世紀近くも前に教養学部の学生時代に学んだ、まさに一般教養の一部として学んだ、カール・マンハイムという学者の「存在被拘束性」という概念を思い出します。これは、「人間の社会的存在が人間の意識を規定する」といったマルクス主義の階級意識論にある部分は重なっているところもあり、私のような1960年代末から70年代はじめの頃を大学紛争の中で過ごした世代には、何となくそうした概念を記憶している人も少なくないと思います。

 このマンハイムという人は、ハンガリー生まれの社会学者でドイツやイギリスの大学で教鞭をとったのですが、1929年に『イデオロギーとユートピア』という本を著しています。ここでは、かつて私も教えをいただいた高橋徹先生が翻訳にかかわっておられる日本語版を使ってお話をしたいと思いますが、そこでは、「あらゆる歴史上の思想は事実上立場に拘束されている」というのが近代の歴史主義と社会学のもたらした洞察である、ということがベースの舞台設定です。この命題は、いわゆる知識社会学、すなわち、知識や認識などのありようを時代や社会構造とのかかわりにおいて理解しようとする学問分野の基本枠組みとして提示されているのですが、ここでは、先ほどからお話ししている、専門と教養という観点に無理矢理引き付けて、私なりの意味づけをしておきたいと思います。

 マンハイムの表現を借りると、「認識視角やカテゴリー上の道具立てが社会的に拘束されていることは、かえって現実への根ざしを意味し、特定の存在領域を把握するうえで、いっそう大きな力をもつチャンスに恵まれることになる」、とあります。つまり、専門分野の知識や思考方法に十分に慣れ親しむことは、それとして研究を深化させていく上で意味のあることだ、ということになります。その通りです。

 ただ、マンハイムはさらに、次のように続けます。少し長い引用になりますが、「しかし、社会や現実に根ざしていることは、たんにチャンスを意味するだけでなく、また現実による束縛をも意味する。ある特定の立場にとっては、それ以上自分では拡大できないようなある種の視野の限界がある。ある立場をとる以上、免れることのできない視野の狭さや制限を、対立する他のさまざまな立場によって克服するために、たゆみなく前進しながら努力を重ねるところにこそ、生の生たるゆえんがあるのではなかろうか」、という主張です。

 こうした考え方を私の言いたいことに引き付けて言えば、自らの専門という立場を時折は越えてみること、つまり専門の枠にとどまることによって「免れることのできない視野の狭さや制限」に対して、他の専門分野が具えているであろう多様な視野を広く学び続けるという姿勢を崩さないことが、まさしくマンハイムのいう、「たゆみなく前進しながら努力を重ねる」ということに他ならないのであり、「生の生たるゆえんがある」-これは、「専門家が本当の意味での専門家たるゆえんがある」と言い換えてもよいかもしれませんが-ということになるのではないかと、私は考えています。

 すなわち、これから皆さんが、研究の道に進んでさらにその専門の分野を究めていくにしても、あるいは学んだ専門知識を社会の現場で生かして行くにしても、自らの専門の枠の中でいっそうの知識や方法を身に付けるために学び続けることは当然として、同時に、専門の枠の中だけでは自分の知識や想像力に限界があるのではないかと疑いを持つこと、そして、その限界を越えるためにたゆみない努力を続けることが大切です。そこで、皆さんに、教養の学びというものを生涯にわたって継続してもらいたいと思うのです。

 一つの専門分野を越えて複数の多様な専門分野間の協働が必要なことは、近年、さまざまな社会的課題が複雑な構造として立ち現れてきている状況に直面して、しばしば指摘されています。環境保全、防災、エネルギーや原子力、遺伝子治療や再生医療、少子高齢化など、いずれをとっても一つの専門分野からだけでは解決の難しい問題です。そうした場面で、他の分野との協働を通じて得られるのは、端的には新しい知識であり方法ですが、さらには異なった視野、視座、つまりものの見方や想像力の持ち方といった、より根源的な価値も含まれるはずだということは、意識し、期待しておいてよいように思います。

 教養の学びを続けていくためには、いろいろな方法があります。自分自身で専門の枠を越えて異なった分野の本を読むというのは、とりあえず身近な方法です。さらには、できるだけ多くの人と、とくに違った分野の人たちと意識的に交わりを持つことも大切です。また、これからの時代は、大学院の課程を修了して社会に出てからも、大学と関わりを持ち続けていただくこともよいと思います。

 専門分野の研究や仕事に邁進するかたわらで、自分の教養世界を広げようと意識的に努力することは、たしかに大変です。しかし、例えば、このたび修士課程を終えて博士課程でさらに学びを続けようとする人には、いま進めている教育改革の中で、分野横断的に学べるようなカリキュラムが強化されつつあります。また、これから社会に出ていく人たちには、近年東京大学では一般向けの公開講座やさまざまな分野の公開シンポジウムがずいぶんと増えてきていますので、ぜひ活用していただきたいと思います。あるいは、この間卒業生と大学とのネットワークが強化されてきた中で、卒業生向けの教育プログラムも少しずつ拡充されています。さらに一般的に言えば、海外の大学でもしばしば見られるように、もっとたくさんの社会人が大学で学び直しをする機会が増えるとよいと考えています。企業の経営者とも時々話をしますが、社会全体でそうしたキャリア設計により高い価値が置かれるようになるべきだと思いますし、大学としてもそのような動きに応えられる仕組みをもっと整備していかなければならないと考えています。

 こういった機会を活用しながら、専門以外の分野についても多様な学びの機会を持ち続けることによって、皆さんは、その専門の力そのものもさらに鍛え、研ぎ澄ますことができるはずだと考えています。また、きっと、皆さんの人生もさらに豊かなものとなっていくはずです。先ほど、カール・マンハイムは、「ある立場をとる以上、免れることのできない視野の狭さや制限を、対立する他のさまざまな立場によって克服するために、たゆみなく前進しながら努力を重ねるところにこそ、生の生たるゆえんがある」と、ちょっと聞くと大げさすぎるかもしれないと思えるほどの表現をしていましたが、大学院での学びを経て知的な専門家としてのスタートを切った皆さんは、さらに教養の学びを意識的に続けることによって、この言葉を実際に自分自身において実現することの出来る十分な可能性を持っていると、私は信じています。

 皆さんが、深い専門性と豊かな教養を併せ持つことによって、たえず自らの知的精神の自由度を高めながら、これからの日本を、そして世界を、力強くリードして行くことを期待して、私の告辞を終えることにします。



 

平成26年3月24日
東京大学総長
濱田 純一


 
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