平成26年度東京大学大学院入学式 総長式辞

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式辞・告辞集 平成26年度東京大学大学院入学式 総長式辞

 このたび東京大学の大学院に入学なさった皆さん、おめでとうございます。東京大学の教職員を代表して、心よりの歓迎とお祝いを申し上げます。言うまでもなくこの東京大学は、学術の幅広い分野において世界トップ水準の研究を行っている組織です。そうした研究から生まれてくる成果に、皆さんがこれまで以上に身近に接して知的な力を鍛えていくと同時に、そうした優れた研究成果を東京大学がこれからさらに生み出していくことが出来るよう、皆さんが貢献してくれることを大いに期待しています。大学院ではこれまで以上に、深い専門の世界に入り込んでいくことになります。そこでは皆さんは、これまでのように、先人が作った概念や論理や手法を学び、それらを使いこなせるようになるだけでなく、自分自身の概念や論理や手法を生み出し、そこから学術の新しい発展を生み出していくことが出来るようになるはずです。大学院における皆さんの成長を楽しみにしています。
 今日、この場には、皆さんの勉学を支えて下さっているご家族の皆さまも、多数ご出席になっています。皆さまにもお祝いを申し上げたいと思います。いまここにいる大学院生の皆さんは、これから研究の世界で、あるいは社会のさまざまな現場で、つねに知の最先端を目指し、人々の夢と豊かさを実現するために活躍するであろう人たちです。時には学問の奥行きの深さにたじろぎつつも、精神的につねに自分自身とも闘いながら、人類の知のフロンティアを開拓すべく日夜努力を続ける人たちです。このようなチャレンジを行おうとしている皆さんを、ぜひこれからも応援し、支え続けてあげていただければと思います。

 今年の大学院への入学者は、4509名です。その内訳は、修士課程が2889名、博士課程が1261名、専門職学位課程が359名です。うち留学生の数は444名で、入学者のおよそ1割を占めていることになりますが、留学生のみなさんには、自分が慣れ親しんだ地を遠く離れた場所で研究に携わることによって、新鮮な学問的刺激を受けるだけでなく、異なった生活や考え方、文化や価値観の違いなどを大いに楽しんでもらいたいと思います。日本人の学生の皆さんも留学生の皆さんといろいろな機会に交じり合って、さまざまな人々が持っている豊かな魅力に触れてほしいと思います。また、大学院に入学する人たちの中には、東京大学以外からの皆さんもたくさんいて、全体の4割くらいになります。新しく東京大学で学ぶ皆さんは、最初は慣れないことが多いかもしれませんが、積極的に行動して、これからの東京大学を担う主体となっていただきたいと思います。個人の成長にも学問の発展にも大切なのは多様性です。東京大学の大学院は、学部以上に多様な環境に恵まれています。東京大学の学部から進学してきた学生だけでなく、海外からの学生、そして東京大学以外の大学からの学生の皆さんも一緒になって、それぞれの能力と持ち味を発揮しながらお互いに刺激しあうことで、新しい活力や創造力が生まれていくはずです。大学院ではそうした多様な人たちが切磋琢磨する環境を、思い切り楽しみ、自分の成長に生かしていって下さい。

 いまここにいる皆さんの将来の計画、未来への思いはさまざまであろうと思います。研究者としての道を歩もうとしている人もいれば、より専門的な能力を身につけて社会に出て行こうとする人もいます。いずれにしても、これから大学院でより深く学問というものにかかわって行くにあたって、いくつか意識しておいてほしい研究姿勢というものがあります。昨今の話題では、研究倫理ということもその大きな柱の一つです。それは決して他人ごとではなく、皆さん一人一人がこれから真剣に受け止めていかなければならないテーマです。東京大学では、この3月に、研究倫理の保持についてこれまで以上に緊張感をもちながら日々の研究を進めようと、『研究倫理アクションプラン』をまとめました。それは、今日いくつかの資料とあわせて皆さんの手元に届いていることと思います。今後、このアクションプランを踏まえて、すべての学生に向けた研究倫理教育、研究者の研修、全学的な啓発活動、研究倫理推進室の設置、研究データの保存体制の整備などといった具体的な措置をとっていくことにしていますが、このプランのサブタイトルに付している言葉は、「高い研究倫理を東京大学の精神風土に」というものです。その意味するところは、研究倫理というものを皆さんが、時々注意して思い出すというよりは、身に染み付いたものとして、日々の研究活動の自然な一部としてほしいという強い思いです。そうした思いを、今日ここにいる皆さんとしっかり共有することができればと思います。

 この研究倫理と並んで、皆さんが学問に携わるにあたっての姿勢として意識しておいてもらいたい概念の一つに、「勇気」というものがあると私は考えています。
 勇気というのは、戦いの世界、武の世界では、当然のように登場するテーマです。しかし、学問に携わる時に、勇気という言葉が出てくることには、皆さんは奇異な感じを受けるかもしれません。最近はあまり使われなくなりましたが、「文弱の徒」という表現もありました。つまり、学問や文学などをやっている者は肉体的にも精神的にも弱々しい存在である、といった意味の言葉です。しかし、すでに実際に勉学に励んできた皆さんは、文弱という言葉にはかなり違和感を持つのではないかと思います。真剣に研究テーマに向き合う人は、そこで求められる精神の緊張の厳しさを実感しているはずです。精神のたくましさがなければ、難しい試験問題に取組むことは出来ませんし、まして幾たびの失敗にもめげずに何度も実験を繰り返したり、言葉の一字一句を精選しながら文章をまとめ論理を積み上げていったりすることは出来ません。そこでは、文弱という言葉はまず当てはまりません。とはいえ、では、そこに勇気という言葉が馴染むかというと、やはりしっくりこない感じがあるだろうと思います。

 勇気という言葉は実に多義的で、いろいろな意味合いがあります。これまでの人類の歴史の中で、もっとも多く論じられてきた言葉の一つではないかと思います。古くはギリシアの時代からも、そうした議論がありました。例えばプラトンの対話編の中に『ラケス』というものがあります。ラケスというのはアテネの軍人の名前ですが、この人物にもう一人の軍人やソクラテスたちが絡んで、いつもながらの対話が進んでいくのですが、そこで子どもたちへの教育を論じる中で、「勇気とは何であるのか」というテーマに話が及びます。もっとも、ソクラテスの対話でしばしばあるように、この議論は結局は、アポリア、行き詰まり状態に陥っているようでもありますし、私も哲学の話はさほど得意ではありませんので、ここでは、ごく断片的な言葉を一つだけ拾っておきたいと思います。
 私はこの本を、かつて私たちの人文科学の大学院で学ばれた三嶋輝夫先生による翻訳で読んだのですが、この対話への参加者はいずれにしても、勇気がたんなる大胆さや怖いもの知らずではないという点については一致しています。ただ、「知は勇気とは無関係だ」という意見に対して、勇気とは「恐ろしいことと平気なことについての知識」を持っていることであるという考え方が出されています。実は、ここでいう知識という言葉は、いまのフレーズがすぐ後に、ソクラテスによって、「あらゆるあり方の、あらゆる善いことと悪いことについての知識が勇気」である、という議論にも展開されていることから察せられるように、私たちが普通思い浮かべるよりは、はるかに深いインプリケーションをもった概念です。ただ、ここでは私は、とにかく、勇気が知識という言葉と結び付けられている外形的な点に興味をひかれました。
 つまり、この結び付けられ方は、知識をもつこと-それは学問をするということにつながると思いますが-、勇気の源になるということだと、素朴に理解しておきたいと思います。では、なぜ知識を有する、学問をすると勇気がでるのか。また、そのために何が必要なのかということです。それを考えるには、何より皆さんのこれまでの学問的な経験で、自分の考え方を初めて発表しようとした時の緊張感、その初心を思い返してもらいたいと思います。
 皆さんの中には、すでに、いろいろな機会に口頭で発表をしたり、論文を公表したりといった経験をした人も少なくないでしょう。ただ、ディスカッションの中で何か意見を述べるというのとはまた違って、フォーマルに何か自分の考え方や研究成果を発表するという時には、普通は強い緊張が伴うものです。その手前で立ち止まる学生の姿を、私は何度も見てきました。あるいは皆さんも、その緊張の前に立ち止まることがあるかもしれません。その強い緊張を乗り越えていくのが、学問に携わる時に求められる勇気であると、私は考えています。
 自分が公にしようとしていることは、本当に正しいのだろうか、意味があるのだろうか、誰しも迷います。そして、その迷いがあるということは、学問にとってきわめて当然かつ健全なことです。しかし、その迷いを乗り越えないと学問の世界にかかわることが出来ないのですが、そこを乗り越えるのが勇気です。ただ、問題は、その勇気の正体です。それは、たんに大胆さや怖いもの知らずということなのでしょうか。
 皆さんがおそらく何らかの形で経験したであろう、そうした迷い、躊躇、逡巡を乗り越えるために、皆さんが何をしたかを思い起こしてもらえればと思います。私の経験でいえば、何度も何度も先人の文献や膨大な資料を読み返してみる、いろいろなアイデアを紙に書いて整理してみる、それを幾度も書き直す、それでも迷いが残れば自分で考えるだけでなく先生に相談する、仲間と議論をする、そうしたことを繰り返してやっと、自分の考え方を公にするという勇気が湧きました。学問の原点はそのようなものであると思います。それは、別の観点から言えば、知というものの巨大さ、その歴史の中で磨き抜かれてきた姿に対する恐れを知るということです。

 さきほど引いた『ラケス』の話の中に、勇気というのは、「恐ろしいことと平気なことについての知識」であるという説明がありました。つまり、恐れを知らないことが勇気ではなくて、恐れを知るということが勇気につながるということであろうと思います。何に対する恐れか、というと、それは学問の世界で言えば、先人が生み出してきた高い水準の研究成果に対する恐れであると同時に、自分の能力に対する恐れ、自分が公にしようとしている考え方、用いている概念や論理、また実験の方法やプロセスの確かさに対する恐れでもあると思います。その恐れを乗り越えていく勇気を生み出すためには、研究倫理もその要素となる誠実な研究を重ねていくこと以外に道はありません。関係する文献や資料を渉猟し、それらを丹念に読み解き、あるいは何度も何度も実験や観測や観察を繰り返しながら正確なデータをきちんと蓄積して分析をくわえていく、そして、その基盤の上に、厳密な概念や論理・論証を自分の言葉で積み重ねていく、そうした誠実な研究姿勢の上にこそ、勇気は生まれます。これから大学院でより高い水準の研究の世界に分け入っていこうとする皆さんには、そのような勇気を育んでもらいたいと思います。

 このようにして培われた勇気は、他の人々に対して自分の考えを明確に主張し、批判に対しても真っ向から応えることのできる力となります。学問の成果は社会にスムーズに受け入れられて活用されていくことも多いのですが、そのような順調なプロセスだけが学問と社会との関係ではありません。むしろ、いま社会で支配的な考え方や制度に対する批判あるいは挑戦となるものも少なくありません。例えば、すでに長く学界の通説となっている学説や有力な研究者が主張している学説を批判することは、いささか勇気が求められる場合があります。また、政治や経済、あるいは社会の現状に対する批判的な意見を述べることに、勇気のいることもあります。しかし、そうした批判や挑戦を行うことこそ学問の本領というべきものであって、それを自由に行う勇気の拠り所となるのが、誠実な研究姿勢の上に組み上げられた概念であり論理です。

 こうした意味において、学問に携わることと勇気とのかかわりを確認した上で、皆さんに一つお願いしておきたいのは、そのように研究を行うことによって得られる皆さん一人一人の勇気を、他の多くの人々の勇気に、また社会の勇気として発展させていくことも、皆さんの使命として意識してもらいたいということです。これは広い意味での科学コミュニケーションの話題に属することかもしれませんが、皆さんの誠実な研究姿勢、そこから勇気が生み出されるというプロセスを多くの人たちに理解してもらう、そのために語ってもらいたいと思います。すでに3年余りが過ぎましたが、あの東日本大震災、それに伴う福島の原子力発電所の事故の後、日本の科学は深刻な状況に直面しました。科学の限界にショックを感じた人も少なくなかったと思います。たしか当時、「科学は敗北したのか」といった問題提起や、「地に落ちた信頼」といった表現も科学に対して用いられていたと思いますが、まさにこの時は科学が人々に勇気を与える力を失っていたのです。最近の科学は、その手痛い経験を踏まえながらやっと立ち直ってきつつあるように感じますが、ただ、そこで科学が人々に与えることを期待されている勇気は、盲目的な科学信仰でもなく、科学万能主義でもなく、むしろ科学の可能性に、そしてまた科学の限界に誠実に向き合うことから生まれる勇気であるはずです。そのモデルとなる姿勢を世の中に向けて皆さんに示してもらいたいと思います。

 いまの日本社会、そして世界の多くの国々が、貧困、食糧、環境、エネルギー、高齢化、安全、平和など、実に多くの課題に直面しています。これらの課題のカタログを眺めていると、意気を阻喪してしまいそうにもなります。しかし、どんなに難しい課題があっても、どんなに困難な状況があっても、勇気を奮い起こして状況に向き合い解決を見出してきたのが人類の歴史です。そうした歴史の中で、学問が果たした役割、学問に携わった人々が果たした役割は、決して小さなものではありません。その過程では、学問は、人々に利便性や安全、安心などをもたらしただけでなく、未来への勇気を生みだす役割も果たしたはずであると、私は確信しています。

 今日ここにいる皆さんが、誠実な研究姿勢から生み出されるはずの勇気によって、自らを奮い起こして学問の発展のために貢献してくれること、そしてまた、他の人々にも、社会にも、未来への勇気を呼び起こすような活躍をしてくれることを心から願いながら、私の式辞を終えることにします。
 

平成26年(2014年)4月11日
東京大学総長  濱田 純一

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