平成26年度学位記授与式総長告辞

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式辞・告辞集  平成26年度学位記授与式総長告辞

平成26年度学位記授与式総長告辞

 

 本日ここに学位記を授与される皆さん、おめでとうございます。晴れてこの日をお迎えになった皆さんに、東京大学の教職員を代表して、心よりお祝いを申し上げます。このたび大学院を修了する学生の数は、修士課程2,848名、博士課程1,135名、専門職学位課程337名です。合計で4,320名となります。留学生の皆さんはこのうち720名で16%ほどの割合を占めており、母国を離れて生活する大変さの中で見事に学位を取得してくれたことを嬉しく思います。また、これまで長い期間にわたり、皆さんの勉学を支え続けて下さったご家族の皆さまにも、感謝とお祝いを申し上げたいと思います。

 皆さんがこうして学位を取得するまでには、学ぶこと、研究をすることの厳しさ、苦しさに直面し、挫けそうになったこともあるだろうと思います。それは、おそらく、真剣に学びの道を志した誰しもが経験することです。第二次世界大戦が終わって間もなくの時期に、東京大学の総長に就任して大学の再建に心血を注いだ南原繁先生は、アララギ派の歌人としても知られていますが、その句の一つに次のようなものがあります。
 「愚かしくひとつのことに思ひこり学びつづけつつ吾が生は経むか」
というものですが、卓抜した政治学者であっても、研究の途上でこのような感懐を持つこともあったのです。「愚かしく」というのはなかなかに強い表現であり、また、句集の中でこの句が収められている節には『業苦』という題名が付されているのですが、私自身の研究生活を思い起こしても、そうした感覚にとらわれた経験がたしかにあります。ただ、そうした経験や思いも乗り越えて晴れて学位を得た皆さんには、次のような句もぜひ紹介しておきたいと思います。 これは、やはり南原先生が、旧制の第一高等学校に長く勤務していた友人の死を悼んで詠んだ句の一つですが、
 「学者君が一生の業やもろつ人の心に染みて永久にのこらむ」
というものです。皆さんが身を削るような勉学や研究の上に生み出してきた成果は、まさしくこの句にあるように、時代や場所を超えたものとして多くの人々に共有されていく可能性を持っています。今日この安田講堂に集っている皆さんは、そうした価値ある仕事に携わってきたことを誇りに出来る人たちです 。

 さて、この大講堂-安田講堂ですが、かなり大規模な耐震改修工事が行われてきましたので、ここ2年の学位記授与の式典は学外で実施されてきました。つい先日やっと工事が終わり、このたびの式典からまたこちらに戻って挙行されることになりました。この工事にあたっては、構造部分や天井などの耐震性の強化と併せて、設備を現代的な水準にあわせるための整備も行われ、使い勝手が大変よくなりました。また、講堂創建時のオリジナルな意匠の復元にも力が注がれました。のみならず、かつての竣工時にはまだ完全な整備がなされていなかった1階、2階部分についてもこのたび計画的な部屋割りが行われて、この学位記授与の式典が、安田講堂のいわば本当の意味での完成のこけら落としの機会となります。大学院で知の頂点を究めるべく学び続けてきた皆さんを、長い歴史を越え先人の思いを受け継いで知のシンボルとなったこの安田講堂から、今日送り出せることを、まことに嬉しく思います。

 もっとも、いま知のシンボルという言葉を使いましたが、その「知」をめぐる現代の状況はどのようなものでしょうか。それは、歴史の中で敬意を払われてきた知と同じような地位を今も保っているのでしょうか。知識が持つ大切さは、たとえば「知識基盤社会」といった言葉が用いられることにも見られるように、決して色あせているわけではありません。少し以前のものになりますが、平成17年に出された「我が国の高等教育の将来像」と題する中央教育審議会の答申では、21世紀は、新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増すと述べられていました。これが「知識基盤社会」であるというわけです。

 このように知識の重要性を誰しも疑うことはありませんが、他方で、「知性」ということになると、この言葉をポジティブな意味合いで聞くことが最近は少なくなってきた気がします。むしろ、「知性の限界」ということが語られたり、あるいは「反知性主義」が時代の一つの空気として話題になったりすることもあります。また、知性と類縁関係にあるであろう理性という用語についても、その登場場面が減ってきているような印象を受けます。むしろ、理性の限界、理性のゆらぎ、理性の不安といった言葉もしばしば耳にします。さらには、知的なものが、短期的・直接的な課題への対応のための、いわば道具として期待される傾向が強まっているように見えることも気になります。そして、物事への取り組みにあたって、多角的に丁寧な議論を重ねるよりも、感覚的な判断や期待・願望・雰囲気に応えることがしばしば優先される時代になりつつあるような気もします。そのような、いわば知性の地位低下の理由として何があるのかは真剣に考えてみなければなりませんが、たとえば、科学的な言説や学問的な認識の限界に対する失望があるかもしれませんし、現代の情報化社会でさまざまな知識が断片化し、知識とたんなる情報との境界が崩れてきているような状況も関係しているかもしれません。さらには、知識がしばしば権威や権力と結びつく場合があることへの批判の感情もあるように感じます。

 知性がこうした状況にあることは、どのような影響をもたらすのでしょうか。知識がさまざまな具体的課題の解決やイノベーションに役立つことはたしかです。ただ、知性という観念が薄れていくことは、知識の役割が短期的な道具的用途に向けられがちな傾向を強めていくような気がします。知性なり理性というものは、本質的に長い時間軸の中で形成され、かつ長い時間軸の中で効用を生み出していくものであるはずだというのが私の理解です。

 「知性」という言葉について、これまであえて定義を与えることなく話をしてきました。知性を表す言葉は、当然に国によってさまざまな言語表現があり、またギリシャの昔から数限りない人々によって論じられてきたものであって、一つの定義で事足りるということはありません。ただ、少なくとも、知性というのは、アリストテレスの時代以来、感覚的なものとは区別されるものと捉えられ、抽象化や概念化、理解や推論、多様な経験や観察による思考の総合化や相対化を踏まえた認識をなしうる資質と理解してよいだろうと思います。また同時に、こうした資質の涵養は、人格の形成そのものと重なるものとも捉えられてきたように思います。こういうと難しい話のようですが、実はそれは、皆さんが学部で真剣に学び、そして大学院で研究を突き詰めてきたプロセスと重なっています。皆さんは、学びや研究の中で、意識的にせよ無意識的にせよ、十分な時間をかけた、絶えずリフレクティブな過程を経て学術の成果をまとめ上げてきたはずです。そして、おそらくその過程の中で、自分自身の成長ということも実感しているはずです。それが、知性というものを身に付けてきた、ということです。意識すべきなのは、その知性を存分に発揮できる場を見出す、あるいは作り出すということ、そしてその知性をさらに磨き続ける、ということです。

 いま知性というものが置かれている時代環境を考えさせる事例として、私が最近関わってきた学外での活動に触れておきたいと思います。それは、経済界、労働界、学識者の有志で組織するグループの勉強会で、新しい日本の創造を目指して公共を担う人材の支援や日本の政策形成の人的・知的ネットワークの立て直しを図るべく、2030年を想定して日本の自画像を描いてみようと議論を重ねてきました。その詳細をここでお話しする余裕はありませんが、そうした未来の日本の姿を描こうとする時には、当然、いま現在、何が課題なのかを意識的に俎上にあげることが必要となります。そこで未来に向けた取り組みを妨げるものとして批判的に取り上げられているのが、社会における「余剰幻想」というものであり、また「短期的思考・志向の広がり」という現象です。「余剰幻想」というのは過去の成長の遺産に寄りかかり、過去の考え方、生き方、働き方のままに将来を描き続けようという体質を指しています。日本の場合は、戦後の高度経済成長の余剰幻想から抜け切れないで、財政危機や少子高齢化などの課題に対して抜本的な対策をとれないでいることの問題が指摘されているわけですが、こうした余剰幻想は、社会の諸々の変化のスピードの速さに追われて生じている面もある「短期的思考・志向の広がり」と必然的に連動しているはずです。すなわち、これまでの社会のかたちがこれからも基本的にそのまま続いていくだろうという感覚を持ち続ける限り、短期的な視野でものを考えていればよく、長い目で将来を見通すような議論は必ずしも必要ではないということになってしまいます。

 いまお話ししたような時代状況が、どうやら、さきほど話してきたような、知性が置かれている現代の環境と関連しているように思います。すなわち、これまでの社会的な枠組みや価値観の延長上で考える「余剰幻想」がある限りは、長い時間軸に立った思考や見通しを提供する知性、また長い時間軸がなければ十分に機能を発揮することが出来ない知性の役割は限られてきます。ただ、逆に、こうした「余剰幻想」の支配する時代状況を突破していくことができるのも、知性に他なりません。さきほどの研究グループのレポートは、富のように「見えるもの」だけでなく、社会の中で育まれてきた美や感性や倫理といった価値、培ってきた技術力や社会構想力の可能性といった、「見えないもの」の大切さということにも言及しています。そうした「見えないもの」をじっくりと育み、認識し、また支え続けていくのも、やはり知性以外の何物でもありません。日本の社会が、あるいは世界の多くの国々がさまざまに困難な課題を抱えていることは事実です。そして、そうした課題の少なからずが、現状の延長上の思考や枠組みだけでは解決できないことも事実です。それだけに、いまここに大学院という厳しい知的な修練の場を経て明日の時代を担うべく旅立っていこうとする皆さんに、社会における知性の再興、知性の再活性化という課題を託したいと思います。

 今日の話の冒頭で、この安田講堂の改修ということに触れましたが、皆さんの目の前の舞台上に描かれた壁画にちょっと目をやっていただきたいと思います。これは安田講堂の創建時に、小杉未醒(みせい)という洋画家によって描かれたもので、このたびの改修にあたって東京藝術大学の研究室の手を借りて修復されました。くすみがとれて、かつてより絵がずいぶんと鮮明になったように見えます。舞台正面に向かって左が「湧泉」、右が「採果」と題されており、「知恵が泉のように湧き出し、大きな成果となって実を結ぶ」というテーマを寓意的に描いたものであると、伝えられています。この講堂が90年にわたって見つめ続けてきたであろう東京大学の教育研究の歴史は、実際、そのようなものでした。この絵に描かれている人々からは不思議な印象を受けます。あるいは天平風のようでもあり、あるいはギリシャ・ローマ風でもありますが、はっきりしません。当時の記録を読むと、大学側から絵のモチーフを「時代と場所を超越」したものにしてほしいという希望があったということが、小杉画伯の言葉として出てきます。

 まさしく知性というものは、かくあるべきだと思います。皆さんがこれから社会の現場に出て行くのであれ、あるいは、大学など研究機関で研究を続けていくのであれ、限られた時間や特定の場でしか通用しない知識だけでなく、「時代と場所を超越」して躍動する知的な世界を保ち、かつ磨き続けていただきたいと思います。知性というのは、完結したものではなく過程であって、つねにリフレクティブに自らを成長させ続けているという状態が、その本質です。そのダイナミズムを意識的に維持し続けることが皆さんの人生をさらに豊かなものとし、また、さまざまな形での社会への貢献を確実に生み出していくはずです。

 タフに、そしてグローバルに、皆さんのこれからのご健闘をお祈りします。 

平成27年3月24日
東京大学総長
濱田 純一


 
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