平成29年度卒業式総長告辞

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式辞・告辞集 平成29年度東京大学卒業式 総長告辞

 

本日ここに学士の学位を取得し、卒業式を迎えられた10学部、3,031名の卒業生の皆さんに、東京大学の教職員を代表して心からお祝いを申し上げます。また、この日にいたるまで、長い年月、皆さんの成長を支えてこられたご家族の皆様方のご苦労に対し、敬意と感謝の意を表します。本学が送り出した卒業生は、皆さんを含め合計282,994名となりました。

 

今、人類社会はかつてない激しい変化にさらされていると感じます。世界を駆け巡る情報を日々リアルタイムで手にする中で、その変化に圧倒され、怯んでしまうかもしれません。しかし、本日東京大学卒業を迎えた皆さんは、学生生活を通じて力を鍛えました。皆さんにとって、変化する社会は好機、チャンス、なのです。その変化を楽しむ気持ちを持つことが大切です。自ら考え、進むべき道を選びしっかり歩んで下さい。そして強い意志をもって、人類の未来をよりよいものにすることに貢献してほしいのです。

こうした状況は、実ははじめての経験ではありません。150年前の1868年、明治維新によって日本は世界に開かれ、以前とは比べものにならない量の人、物、知識や情報、そして富が国境を越えて一気に入ってきました。そして、それは同時に、日本が外の世界と、それまでにはなかった新たな結びつきを持つようになったことを意味していました。

東京大学は、その明治維新から9年を経た1877年4月12日に誕生しました。このとき期待されていたのは、国外から入ってきた文化や社会制度を導入し消化すること、そして新しい国家を担う人材を育てることです。すなわち、開国による大きな変化に立ち向かう日本を支えるという役割でした。注目すべきは、誕生間もない東京大学に学び、巣立っていった人々が、外からもたらされた変化に受け身で対応するだけでなく、変化を先取りし、自ら変化を作っていくという役割をも果たすようになったということです。この動きの先頭に立ったのは、明治維新の前後に生まれた、皆さんの多くと同じ年頃の若い人々でした。

変化は慣れ親しんだ日常を壊すもので、できれば避けたいと感じるものです。しかし、身をすくめて変化をやり過ごすのではなく、新しい時代を切り拓くために積極的に活用し、楽しむこともできるのです。さらに、自ら下した決断によって、あとに続く多くの人々に進むべき方向を指し示すこともできるのです。――今この変動の時代に東京大学から巣立っていく皆さんは、これからの人生において、様々な変化に出会うでしょう。そこに立ち向かう際に参考になるものとして、変化を楽しむことから生まれた可能性を身をもって示した、明治の若者たちの事例を、ここでいくつかご紹介したいと思います。

 

皆さんは長岡半太郎という物理学者をご存知でしょうか。物質の構成要素である原子が、土星の形に似た、電子と原子核が分離した構造を持つという原子模型を、世界で初めて1903年に提唱しました。1950年に亡くなるまで、日本の物理学をその黎明期から先導した人物です。後進を叱咤激励することから「かみなりおやじ」とも呼ばれていたそうです。

その長岡先生も、皆さんと同じ大学生のころ、日本の社会が大きくその姿を変えつつある時代と向き合い、自分の進むべき道について悩んだことがありました。物理学に進もうと考えていましたが、その選択が正しいのかどうかについて自信が持てなかったようです。

1865年生まれの長岡先生の世代は、幼少期には江戸時代の基本的な教養であった漢学をまず学びました。その後、中等教育から西洋式の教育を受けるという経験をしています。西洋の学問に接してみると、その内容は漢学とは大いに異なっており、特に自然科学ではそれが顕著で長岡先生を引きつけたのです。そこで大学では物理学を学ぼうと思いました。しかし、大学に進んでみると、専門の講義で東洋の研究者の成果が紹介されることは全くありませんでした。長岡先生はこの状況に不安を覚え、「東洋人にはそもそも独創性がなく、欧米人の受け売りはできても、研究して成果を挙げることは出来ないのではないか。物理学に進むのは、一生を無駄にすることになってしまうのではないか」などと考えるようになりました。

今の皆さんであれば、日本からも毎年のようにノーベル賞受賞者が出ているし、東洋の学者に独創性があるだろうかなどと不安に思うことはないでしょう。しかし考えてみてください。長岡先生が大学生のころ、そうした先例はありませんでした。模範と仰ぐべき先例が全くない中で、先生の悩みは深く、東京大学理学部に進学したのちに、1年間休学してしまうほどでした。

しかし、その間に、中国の古典をひもとき、古代の中国には西洋に先んじた科学上の発見があったことを見出しました。先生は、紀元前8世紀から紀元前5世紀までの出来事を記した中国の書物、『春秋』の中にある、「星おちて雨ふる」(星隕如雨)と日本で読まれていた一節は、正しくは「星おちて雨のごとし」と読まれるべきであり、流星を意味しているのだと理解していきます。また、司馬遷の『史記』には、「燭龍」(しょくりゅう)と呼ばれる、北方の空にあらわれる戦の旗のような光の記事がありましたが、これがオーロラであることにも気づきました。西洋の学問に引きつけられ、自らの選択に思い悩んだからこそ、長岡先生は中国の古典から新たな発見を見出すことができたのだと思います。こうして先生は、「東洋人」も過去において大きな独創的成果を挙げていると確信し、物理学の研究に進むことを決意したのです。

 

当時の日本は、軍事や産業において西洋に追いつくことが何よりも重要で、基礎科学を奨励する余裕はありませんでした。もし、長岡先生の世代が、この分野は西洋の成果を取り入れるだけで良いとして、自分たちで独創的な研究を行おうとしなかったとすれば、日本の学問はそこで停滞してしまったかもしれません。そのような事が起きても不思議ではない状況でした。しかし、その分かれ道で、長岡先生は、挑戦を決断し、危機をむしろチャンスに変えようとしたのでした。相談する相手もいませんでした。そのような中で、前進するきっかけを与えてくれたのが、幼いころに親しんだ中国の古典だったというのは、味わい深いエピソードだと思います。これは、漢学の素養と知識の上に西洋の学問が取り入れられたという、近代日本に極めて特徴的なことで、文理融合の見本ともなりうることだと私は思います。

もちろん、だからと言って、皆さん全員に、今中国の古典を学びましょうと言いたいわけではありません。むしろ、大きな変化に際して重要な判断を下す必要があるとき、直面する現状とは時間的にも空間的にも離れた世界の知識が、予想もしない形で役に立つことがあるということを知ってほしいのです。皆さんが東京大学において学ばれたことの中にも、きっとそのような手掛かりがあるはずです。

この事例からは、根本に戻って考えることの大切さも学ぶことができます。私は常々、学生の皆さんに「知のプロフェッショナル」となるための三つの基礎力について伝えています。第一は「自ら原理に立ち戻って考える力」、第二は、あきらめず「忍耐強く考え続ける力」、そして第三に、「自ら新しい発想を生み出す力」です。長岡先生は、「東洋人」の創造性ということについて、漠然とした印象で判断を下すのではなく、根本に戻り、根拠となるべき記録にあたって疑問に答えようとしました。まさに「原理に立ち戻って考える力」を発揮した模範です。知のプロフェッショナルには、大事な場面で的確な判断を下すことが期待されます。大きな悩みを抱いたときには、焦らずにある程度長い期間を取って、じっくり原点に戻ってみることも必要でしょう。

さらに重要なのは、このとき、日本に無数にいたであろう、長岡先生と同じような悩みを抱えた若者たちの、自身の将来を賭けて行った決断が、その後の日本の学問の道筋を作り上げていったという事実です。

基礎物理学の領域からは、二つの大きな流れが生まれました。20世紀に入ってから、物理学の基礎理論として量子力学が誕生しますが、日本の若い研究者たちはこれをいち早く学び、理学部・工学部に研究の拠点を築きました。第二次世界大戦後、トランジスターの登場によって半導体の技術的応用が強い関心を集めるようになったとき、その基礎理論を咀嚼して産業界を支え、戦後の荒廃からの復興に貢献することになる研究者の集団が、すでに日本で育っていたのです。

また、基礎中の基礎といってよい原子核・素粒子理論の分野でも、若者たちは挑戦を続け、努力を重ねていきます。長岡先生は20年間にわたってノーベル賞の推薦依頼を受け続けた世界的にも希な科学者であり、推薦した人々はすべて最終的には受賞したという目利きの評価者でもありました。この長岡先生は、1940年の賞に対して、初めて日本の科学者を推薦しますが、それが、1949年に物理学賞を受賞することになる、京都帝国大学の湯川秀樹先生でした。敗戦後まもない時期のノーベル賞受賞は、荒廃した日本全体に大きな勇気を与えました。

 

さて、長岡半太郎先生とほぼ同世代の人々から、動物の免疫を発見した北里柴三郎、地軸の運動のz項を発見した木村栄など、国際的な成果を挙げる人々が現れました。その中から一つ、山極勝三郎先生の癌研究を紹介したいと思います。

東京帝国大学医科大学の教授であった山極勝三郎先生は病理学者で、ベルリンでは長岡先生と共に過ごしたこともある、同世代の学者です。山極先生は多くの成果を挙げていますが、最も大きな業績は癌の研究です。当時、癌は、世界の医学界全体にとって、治療上も病理上も不明な点が多い難しい問題でした。切除するほか手の打ちようがなく、切除しても結果が良好なことはまれであり、有効な治療法が強く求められていました。

山極先生は、まず癌の原因を解明することを志し、当時有力だとされた刺激説の検証を目指して研究を進めました。刺激説とは、反復的な刺激が癌を起こすという説です。山極先生は兎の耳に毎日コール・タールを塗ってこすり、癌の発生の有無を確認しようとしました。結核という病を抱えた山極先生に代わって実験を担当したのは、東北帝国大学農科大学の畜産学科を卒業した市川厚一先生でした。動物にタールを塗って癌の発生を試みる実験はそれ以前にも行われていましたが、いずれも失敗していました。しかし、山極先生は充分に時間をかけていないのが失敗の原因ではないかと考えていたようです。

山極先生たちの実験は1914年4月から本格的に始まり、途中、湿気や寄生虫によって兎が死んでしまうといった事態に見舞われながらも、1915年9月には、ついに癌の症状を見せた3つの例を発表することが出来ました。結果的には、タールを塗ってこすることによる癌の発生には、100日から180日という、それまで行われてきた実験の常識をはるかに越える長い期間が必要だったのです。さきほどの「知のプロフェッショナル」の三つの基礎力の面からは、山極先生たちの成果は何にもまして、忍耐強く考え続ける力の産物だと言えるでしょう。

山極先生たちの成功は、若干の議論を経たのち、国内外で広く認められるようになりました。刺激説を裏付ける先例はありましたが、山極先生の研究は、癌の人工的な発生に史上初めて成功したという点で大きな意義があります。

人類初の人工癌の発生に成功した山極先生は、1925年、1926年などにノーベル生理学・医学賞に推薦され、1926年の選考では有力な候補として名前が挙げられました。前に触れた通り、日本から初めてノーベル賞受賞者が出るのは1949年のことですから、その20年以上も前のことです。惜しくもノーベル賞受賞には至りませんでしたが、山極先生の人工癌の発生は、現在も確固たる成果としてその輝きを失っていません。こうした業績が、大きな変化の時代であった明治維新から半世紀も経ていない日本で生み出されたことには、驚きを禁じ得ません。明治維新によって、学問の窓が国外に開かれたことを好機と捉え、世界の科学界に果敢に挑戦した若者が日本に存在したことの意義は大きいのです。

 

山極先生の研究が行われた当時の日本で、科学の基礎研究がどのように考えられていたかについても触れておきましょう。

山極先生の研究は、癌研究会という組織から支援を受けていました。癌研究会は1908年に誕生しています。その「開会の辞」には、日露戦争後間もない当時、日本の医学者たちが学問に寄せた期待と理想とがいきいきと語られています。これを記したのは、東京帝国大学医科大学学長であり、癌研究会会頭を務めた青山胤通先生でした。

青山先生はこう述べます。

「今日は唯単に武力を以て国際間の同情と尊敬を受けると云うことはもはや出来ない時代になりました。又唯単に金力のみで国際間の同情と尊敬を受くることも出来ない。唯国民が文化に向って多大なる進歩を与える所のものは国際間に於て尊敬と同情を得るのであります。もし此癌研究会に於て我邦の学者の研究が、欧米諸国の先進国の研究よりも、より多く、よりよい所の結果を得ましたならば、我邦の国際間に於ける同情と尊敬は、彼の数十億万の金を投じ、十数万の人命を賭して得たる所のものよりも多かろうと思います」。

ここでいう「同情」とは「共感」のことでしょう。学問や文化への貢献は、十数万人の犠牲と巨額の資金を費やして得た戦争での勝利よりも多くの、国際的な尊敬と共感をかちえるというのが、当時、癌を研究するために集った人々に共通する認識でした。

若き長岡先生は、自分が学問に貢献できるかどうか悩んだ末に物理学に進むことを決断しました。日露戦争後には、さらに進んで、多くの研究者たちが、学問や文化への貢献は、国際的な共感を得るうえで、何より重要であると認識していたのです。一定の段階に達した国家が学問と文化に貢献することは国際的な義務であると考えられるようになっていたことが窺えます。山極先生の研究を支えたのは、学問がよりよい世界を作り上げることに役立つという同僚たちのこうした信念だったのです。

 

東京大学に学び、果敢に世界に挑戦していった先輩たちと同じように、皆さんもぜひ、これから起こるであろう変化を、新しい挑戦によって道を切り拓くための好機と捉え、できれば楽しみながら、そして信念を持って、先に進んでほしいのです。ご紹介したとおり、勇気ある決断は、それを行った人々のみならず、あとに続く人々をも奮い立たせることでしょう。

また、皆さんがこれからの人生の中で困難に直面し、助言や提案が必要になることもあるでしょう。そのときには、ぜひこの東京大学のことを思い出して、遠慮なく戻ってきてください。東京大学は、皆さんが的確な判断を下し、危機をチャンスに転ずるために必要な知恵と知識を提供する場であり続けたいと考えています。「卒業」は何かの終わりを意味するのではなく、皆さんと東京大学のつながりは永遠です。大学もまた、変化に臆することなく、むしろ変化を先導する姿を示し続けたいと考えています。今後も東京大学の活動に注目し、卒業生としてその歩みを支えてください。

卒業生の皆さんには、今後は様々な場面で、東京大学の作り手の側になっていただきたいと願っています。皆さんの知恵、これから社会で体得する知見は、東京大学をよりよくするための大切な資源です。よりよい教育と研究の環境を備えるために、卒業生だからこそできること、卒業生にしかできないことをぜひしていただきたいのです。

 

最後に、本日ここを卒業し巣立っていく皆さんが健康であり続けるとともに、これからも東京大学での体験を活かして不断に学び続け、希望に満ちた明るい未来を切り拓くことを祈念します。

 

本日は誠におめでとうございます。

 

平成30年 3月23日
東京大学総長  五神 真
 

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