平成30年度東京大学卒業式 総長告辞
平成30年度東京大学卒業式 総長告辞
本日ここに学士の学位を取得し、卒業式を迎えられた10学部、3,017名の卒業生のみなさんに、東京大学の教職員を代表して心からお祝いを申し上げます。また、この日にいたるまで、長い年月、みなさんの成長を支えてこられたご家族の皆様方のご苦労に対し、敬意と感謝の意を表します。本学が送り出した卒業生は、みなさんを含め合計286,106名となりました。1989年1月に始まった平成という時代が今、幕を閉じようとしています。みなさんは平成最後の卒業生として、本学を巣立つことになります。
今からちょうど4年前の2015年4月、私は東京大学総長として初めての入学式に臨みました。みなさんの多くも新入生として、同じ式に出席されていたと思います。その席で私がみなさんに伝えたメッセージの中に、「多様性を活力とした協働」という言葉がありました。覚えているでしょうか。
それから僅か4年の間に、世界は大きく変わりました。その変化の様相は、これまでの私の時代感覚とは全く異なるもので、経験したことのない大きな変動であると実感しています。そのうえで、「多様性を活力とした協働」は4年前とは比べ物にならないほど重要になったという思いを強くしています。本日は、私がなぜ、今そのように思うのか、そして東京大学卒業生となるみなさんに何を期待するのかを、是非お話したいと思います。
まず、世界の変化がかつてないほど大きなものなのかどうか、ということについて、イギリスとアメリカの政治情勢を例に考えてみましょう。ご存じの通りイギリスは2016年の国民投票によってヨーロッパ連合(EU)離脱を決定しました。ヨーロッパの諸国は長い紛争の歴史を経て、ようやく統合というビジョンに到達したのです。イギリスの決定はその挫折を意味するものです。しかし、これを受けて立案された、イギリス政府の離脱への法案は、2019年初めの国会において大差で否決されてしまいました。その後、解決の方向性が見えないままに推移しています。他方、2016年のアメリカ大統領選挙も、大方の予想を超えた波乱含みの展開でした。その影響は、いっそう大きな不安定性を伴って、今も続いています。何よりも深刻なことは、これらの事例が、人類社会が長い時間をかけてつくりあげてきた民主主義の理念への信頼そのものを揺るがしているということです。人類社会を調和を保ちながら発展させる為に、これからどうすれば良いのか、緊張のもとで真剣な議論が必要になっているのです。
これらの現象を注意深く眺めると、そこには共通の特徴があることがわかります。世論の動向がかつてないほど短い間に、かつてない勢いをもって一方向に流れやすくなっていること、そしてその流れは移ろいやすく、極めて不安定になっているということです。
このように、人々の意見の大きな流れが瞬時に形成されたり、それが急激に方向転換したりすることの背景には、デジタル革命とも呼ばれる近年の急速な技術革新があります。さまざまな情報がデジタル化され、インターネットで繋がれたサイバー空間の上に蓄積され続けます。一方で、新しい技術をビジネスに結びつけた新たな企業が次々に誕生し、それらが提供するサービスはあっと言う間に広がります。私達は物理空間、すなわちリアルな世界で生きていますが、日々の暮らしの中でサイバー空間上の情報を参照しながら活動するようになってきています。この物理空間とサイバー空間の融合は、人々の生活だけでなく、人と人の繋がり方、そして社会の形をも大きく変えつつあるのです。
インターネットは地域や国を超えて、自由で開かれたコミュニケーションの場を提供する画期的な技術です。しかし、一方で新たな危険も目立つようになりました。人を深く傷つけ、命を奪ってしまうということすらおきています。ネット上ではフェイクニュースが瞬く間に拡散し、偏った意見が大きな影響力を持つことがあります。こうした現象は、しばしば「サイバー・カスケード」と呼ばれます。カスケードとは、階段のように連なった滝を意味します。つまり、サイバー空間上で特定の情報が滝のように流れを増して多くの人々に伝播し、心理や行動の連鎖をもたらす新たな社会現象です。インターネットは、一見すると多種多様な情報が漂う広い海のように感じます。しかし、インターネットはその中から自らと似た関心や考えを持つ人々だけを見つけ出し、互いに容易に結びつくことを可能にする環境でもあります。さらにいったん情報が拡散され始めると、指数関数的に加速しながら増殖し広がっていきます。その広がりの中にいる人は、自らが圧倒的な多数派であるという感覚を抱くことになりがちです。インターネットのこのような特性には、小さいけれども大切な気づきがあったとき、それを広く人々に伝えることができるというポジティブな面もあります。しかし同時に大きな危険もあるのです。サイバー空間上で多数派のように感じることが、実世界と大きく乖離し、社会の真実の姿を見失ってしまうという大きなリスクをはらんでいるのです。しかも、政治や経済に影響を及ぼすような場面で、それが作為的に利用される危険性もあるのです。
実際、最近の世界情勢を見渡すと、何が真実かよりも、何が多くの人々の感情を揺さぶるかということがより重要視されているように感じます。まさに「ポスト・トゥルース」時代に突入してしまったと言えるのかもしれません。そしてこうした風潮は、安易な多数派偏重を生みます。これは、少数意見の声に耳を傾け、多様性を尊重し、皆で結論を導き出すという、民主主義の本来の理念に反するものです。
ここでは、みなさんの先輩である見田宗介先生の優れた論考を手掛かりにして、多様性を尊重することの重要性を改めて考えてみたいと思います。
見田宗介先生は1965年から1998年まで本学教養学部で社会学を教えていました。新しい社会調査の技法がアメリカから輸入され、大学でも新聞社でも、人々の意識を調べようと世論調査が熱心に行われるようになりました。そうしたなかで見田先生は、ご自身の言葉を借りれば「一人の人生と社会構造とのつながりを捉える」という独自の社会学を目指したのです。その最初の試みが、1973年に発表された『まなざしの地獄』という論考で、大きな注目を浴びました。見田先生は、市民4名を連続して射殺するという1960年代の終わりの凶悪事件と向き合い、犯人である少年が獄中で書いた手記を手掛かりにしながら、徹底した事例分析を行いました。この犯行に及んだ少年は、論考の中ではN・Nというイニシャルで表現されていますので、ここでもそう呼ぶことにしましょう。
N・Nは中学卒業後の1965年に、集団就職の一員として東北の地から上京しました。彼のように地方の中学や高校を卒業して東京やその近県に就職した若者は、この年だけで11万人を超えています。当時、日本はまさに高度経済成長のまっただ中で、彼らは「金の卵」と呼ばれ、多くの企業から引く手あまたで歓迎されました。彼ら自身も、地方での貧困や閉塞感から抜け出せることに希望を抱き、大都市に足を踏み入れたのです。しかし、その若者たちとそれを受け入れる都市の間には、大きなすれ違いが潜んでいました。都市が要求し歓迎したのは、解放と幸せを夢見る一人一人の若者ではなく、安価で新鮮な大量の労働力だったのです。N・Nはやがて、自らに向けられた都会の人々の視線、まなざしの冷やかさと、その人々の目に映ったまま変えることができない自らの出身や経歴に気づき、強い疎外感と攻撃性とを抱くことになります。
そして、N・Nは充実感を得られないまま転職を繰り返し、絶望の果てに凶悪事件を起こしてしまいます。この事態そのものは、もちろん極めて異例です。しかし、この時期、希望に満ちて大都市東京に流入した多くの若者が、彼ほど際立った形ではないにせよ、本質的には彼と同じ生きづらさと孤独を経験したことは事実だったのです。
見田先生が取り上げた事例から半世紀が経過していますが、そこで浮き彫りにした格差社会の構造は、私たちが生きる今の社会にも実は横たわっています。優位な多数派の側に立つ人々が、異質な少数の他者に対して半ば無自覚に排他的な目を向けてしまうという構図は、現代においても珍しいものではありません。
さらに、現代において、異質な他者に向けられる人々のまなざしには、N・Nの時代よりもはるかに強い衝撃と影響力が加わっています。というのも、N・Nが強く意識し恐れた人々の評価は、基本的には彼が直接に出会った職場やその周辺に限られていました。しかし現代においては、直接に会うことのない幾多の見知らぬ人々の目が、あっという間に特定のターゲットに向けられます。SNS利用者のコミュニケーションの場に突如として生じる「炎上」という現象は、サイバー・カスケードのネガティブな帰結の典型で、現代の深刻な社会問題というべきものです。
私たちは、ついつい自分が主流派・多数派に属していると思い込むことで安心を得ようとします。翻って、自分と異なる他者に対しては「変わり者」や「異端」のレッテルを貼りがちです。一方で、多数派に属しているつもりだった自分が、何かのはずみで突然「異端」の側に立たされてしまうという事態が、いとも簡単に起こりえるのです。だからこそ、多様性を尊重するということの重要性を、常に強く意識しなければならないのです。
見田先生はたった一人の極めて例外的な若者の半生を分析したのですが、私はその研究から、二つの大切なことを学ぶことができると思います。
その一つは、私たち自身誰もが、異質性によって排除される他者の立場になり得るということであり、逆に異質に見える他者の誰もが、じつは互いに共通する側面をもっていて、同じ社会の一員になり得るのだということです。見田先生はN・Nの手記を目にして「これはありえたかもしれない自分だ」と強く共鳴したといいます。犯罪者としての彼との見かけの違いを乗り越えて、子ども時代の貧しさ、家族への反発と上京、世間の偏見への怒りなどについて、手記を真摯に読み解いていきます。そこで、その人が抱えこんでいる人間としてのさまざまな側面、すなわち、「内なる多様性」にたどり着くのです。それに目を向けることこそが、自己と他者との深い相互理解を可能にし、多様性を尊重するということなのです。
もう一つの大切な点は、個別的で例外的な事例であっても、注意深く目を凝らせば、そこにも全体を語る力があるということです。現代社会はグローバルな広がりを持ち、関わりのあるすべての人の意見や態度を直接見聞きすることなど到底できません。しかし、諦めてはいけないのです。むしろそこで、身近な少数の人の考えをとことん聴き、共感し議論を交わすべきなのです。それを通じても、より広い社会の人々の動向を理解するための重要なヒントを得ることができるからです。
現代では、より大規模なデータを扱うことは格段に容易になりました。しかし、データがいくら大きくても、十分な吟味なく表層的に抽出した、多数とか平均といった結論は、社会を的確に捉えたものにはなり得ません。むしろ、自分が「この人なら」と思える友人や同僚、先輩ととことん話をしてみて、その人が何を考え、どんな思いで行動しているのかを、じっくり聞くことの方が、得るものは大きいはずです。そこで自分の考えを伝え、議論を交わしてみることです。自分とよく似た人ではなく、違った意見や好みを持っている人と意識的に話すことがとても重要です。そうした他者との交流は、エネルギーの要ることかもしれませんが、必ずや、そのエネルギーに見合うものをお互いに得ることができるはずです。
さて、『まなざしの地獄』の分析から45年を経た2018年、見田先生は『現代社会はどこに向かうか』という最新刊の中で、私たちがこの先向かうべき道筋について論じています。
高度成長期には、世界は無限でどこまでも発展し得るものとして捉えられ、資源はすべて目的を達成するための手段として使える、といういわば「手段主義的」な考え方が浸透していました。しかし今、私たちは地球温暖化や環境汚染、地域格差などの問題に直面し、世界が有限であることを切実に感じています。これからの私たちは、地球の有限性を前提としたうえで、人間の幸福とは何かという単純で素朴な問いに改めて取り組み、地球と人類社会を持続可能な形で発展させる道筋を求めて行かねばなりません。
その問いに取り組むうえで大切な規準が三つあると、見田先生は述べています。第一にpositiveであること。positiveとは、現在あるものをそのまま受容し承認することではありません。今は存在していないかもしれない、真に肯定できるものを前向きにつくり出していくということです。第二にdiverseであること、文字通り多様性を尊重することです。第三はconsummatoryであることです。見田先生は、これはとても良い言葉だが適切な日本語に置き換え難いと断りを入れたうえで、instrumental すなわち「手段的」「道具的」といった認識とは反対の境地だと論じています。それは、私達が行う現在の活動について、未来の目的のための手段として捉えるのではなく、活動それ自体を楽しみ、心を躍らせるためのものと捉えるということです。語源を探っていくと、con-は「ともに」という意味であり、summateは「足し合わせる」という意味ですから、ただ一人だけで楽しむということではありません。
まもなく「ポスト平成」の時代が幕を開けます。そこでは、誰もが同じ未来を見据え、同じ目的に向かって邁進することに迷いのなかった高度成長期とは違う生き方が求められるでしょう。一人一人が本当に心を躍らせることのできる理想を探し、その経験や感覚を大切にしながら、同時に他の人の楽しさをも尊重して生きていくべき時代です。みなさんには、たとえこの先、忙しさに追われがちな日々を送ろうとも、「自分は今、心躍らせることのできる仕事や活動をしているのか」と自分に問うことを、是非忘れずにいてほしいと思います。
さらに、そのような問いかけを、自分のみならず、他の人にも投げかけ、ここでいうconsummatoryな感覚を分かちあってほしいと思います。自分も他者もそれぞれに、ともに心躍らせている、そのような質の高い「共感」こそが、新しい社会を望ましい方向に向かわせる推進力になると私は考えます。全員が一つの幸福に向かうのではなく、多様な幸福が共存し、緩やかに結合する。そうした社会のあり方を、まさにともに心躍らせる活動として模索してください。それが「多様性を活力とした協働」なのです。私はみなさんに、そのような活動を牽引する、新たな時代のリーダーになっていただきたいと願っています。
今、この場に集っているみなさんは、これまでの大学での学びの中で各々の専門の知識を得て、それぞれ異なる強みを身に着けているはずです。この先、大学院に進んでさらに学びを深める方、あるいは実社会のさまざまな分野で活動を始める方々もいると思います。別々の道へと進むことで、みなさんの間の多様性はさらに増していきます。卒業後の長い人生において、同窓同期のネットワークは間違いなくみなさんの財産となります。どうかその財産を生かし、交流を続けてください。そしてもちろん、これから先に待っている新たな他者との出会いも大切にしてください。自分とは異なる視点を持つ他者と深いコミュニケーションを交わし、協働して新しい時代の課題に挑んでください。それこそが、みなさんが広い世界の舞台で「知のプロフェッショナル」として貢献していくことに他ならないと、私は信じています。また、皆さんの知恵、これから社会で体得する知見は、東京大学をよりよくするための大切な資源です。よりよい教育と研究の環境を備えるために、卒業生だからこそできること、卒業生にしかできないことを、是非していただきたいのです。
最後に、本日ここを卒業し巣立っていくみなさんが健康であり続けるとともに、これからも東京大学での体験を活かして不断に学び続け、希望に満ちた明るい未来を切り拓くことを祈念します。
本日は誠におめでとうございます。
平成31年 3月26日
東京大学総長 五神 真
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