令和元年度 東京大学学位記授与式 総長告辞

令和元年度 東京大学学位記授与式 総長告辞

本日ここに学位記を授与される皆さん、おめでとうございます。東京大学教職員を代表して、心よりお祝いを申し上げます。また皆さんをこれまで励まし支えてくださったご家族や友人の方々にも、お祝いと感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。

本年度は、修士課程3,320名、博士課程1,223名、専門職学位課程344名、合計で4,887名の方々が学位を取得されました。そのうち留学生は1,113名です。

皆さんは、修了の日を迎え、これまでの日々を振り返り、様々な感動あるいは苦労を思い起こしていると思います。研究仲間や教員とのかかわりのなかで、知の創造の場としての東京大学を実感された方も多いでしょう。4月から、大学や企業で研究を続ける人もいれば、様々な職業の新たな世界に踏み出す人もいるでしょう。東京大学での経験が、皆さんの今後の活動の土台となっていくことを期待しています。

本日の学位記の授与を、皆さんやご家族の方々と共に、ここに集って、祝うことを私たちも楽しみにしておりました。しかし、新型コロナウィルス感染拡大防止のため、いつもとは違う形で式を執り行うことに致しました。いろいろな場所でライブ配信をご覧の皆さんと一緒に、いわばバーチャルに拡張された安田講堂において、祝いたいと思います。

さて、新型コロナウィルス感染症は、またたく間に世界全体に広がり、経済や社会に大きな影響を与えています。その克服はいまだ途上にあり、収束に向けた様々な努力が日々続いています。国内外で、この感染によって多くの方々がお亡くなりになりました。お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りすると共に、ご家族の皆様に謹んでお悔やみを申し上げます。また療養中の皆様には、一刻も早い快復をお祈り致します。

この感染症の拡散を目の当たりにして、現代の人々の活動や経済社会の仕組みが、いかに国境を越えたものとなっているのかを、皆さんも実感したのではないでしょうか。近年、「自国第一」を唱える主張が目立つようになりましたが、グローバル化はすでに後戻りできないところにまで浸透しているのです。限られた地域の利害にのみ目をむけた行動が、いかに無力であるのか。この感染症は、そうした事実を明らかにしたのです。

これから皆さんが進んでいく世界は、「デジタル革新」とも呼ばれる大きなうねりの中にあります。そして、人類にとって未知の、これまでなかった環境が社会に生まれつつあります。

文字だけでなく音声や画像など、様々な情報がデジタル化され、サイバー空間の上に、データとして蓄積され続けています。その膨大な情報を人工知能技術などを駆使して、一気に解析する技術が、急速に発展しています。私たちは、サイバー空間上の情報を日々参照しながら、リアルな物理空間で行動するようになっているのです。この物理空間とサイバー空間の融合は、人と人の繋がり方や、社会や経済の形をも大きく変えつつあります。

製品やモノの生産が経済的な価値を担っていた資本集約型社会は終わりをつげ、知識や情報と、それらを活用したサービスが価値を作り出す、知識集約型社会へのパラダイムシフトが進行しています。

それによって、遠隔医療やテレワーキングのように、物理的な距離を超えて人々が繋がり、地方と都市の違い、老若の違いや障がいのあるなしといった、現代社会が抱える様々な格差が解消されるかもしれません。大量生産・大量消費の時代に切り捨てられがちであった、個々の違いを丁寧に汲み取り、多様な人々がそれぞれの強みを活かしうるインクルーシブな社会が実現する可能性があるのです。しかし他方で、データが一部の企業や国家に独占されてしまい、データを持つ者と持たざる者との間に断絶や決定的な格差が生まれてしまうという、悪いシナリオへと陥る危険もあります。

どちらに向かうのか。人類は、今、まさに分水嶺に立っているのです。

私は2015年4月に総長に就任し、任期中の行動方針を「東京大学ビジョン2020」としてまとめ、10月に公表しました。その冒頭に、「卓越性と多様性の相互連環――知の協創の世界拠点として」という理念を掲げました。その後の5年間を振り返りますと、温暖化や地域間格差などの地球規模の課題がいっそう深刻化するなかで、世界は、旧来の延長線上にはない、不安定で見通しがつきにくい状態へと急速に転換しているように感じます。

東京大学ビジョンでは、より良い社会に向かうために、大学が社会の変革を駆動する力を備え、自ら主体的に行動することを謳いました。そのためには、「多様性 diversity」の追求に加え、「包摂性inclusiveness」の理念が、大変重要になります。しかし、この両翼ともいうべき2つの理念の密接な結びつきは、まだ十分に理解されず浸透していないと、私は日々感じています。

本日、皆さんが新たな出発の大きな一歩を踏み出すにあたって、この「多様性」と「包摂性」の結びつきを、是非、心に刻んでいただきたいと思います。

皆さんは、大学とは新たな知を探究する場だ、と思っておられるでしょう。これはまちがってはいません。しかし、それだけでは十分ではありません。知というものは、他者と共有されてはじめて力をもち、活かすことができるのだということを忘れてはなりません。知は、それを自分が獲得するだけではなく、他者と共有することが不可欠なのです。

知は、そもそも誰もがアクセスできる、人類全体に開かれた公共財です。開かれているのだから、共有されるのは当たり前で、放っておいても大丈夫だ、と思われるかもしれません。たしかに、観察や実験を通して得たデータを、論理と数学を駆使して積み上げてきた近代科学や、貨幣の循環をベースにした近代の経済活動の拡大は、そうした誰もがアクセスできる自由でオープンな場が、「学術誌」や「市場」としてあったからこそ、発展してきたのです。しかしながら、公共財の新たな共有は、自然に、自動的に生み出されるわけではありません。現実はそれほど簡単ではないのです。しかし、まさにこの「簡単ではない」「一筋縄ではいかない」ところにこそ、人間や社会がもつ大きな潜在力や可能性が隠れています。そして、それを探究し発見する面白さが、私たちを惹きつけているのです。

この難しさと面白さの関係を、もう少し深く考えるために、皆さんが毎日使っている「言葉」すなわち言語の働きについて、あらためて検討してみましょう。

私たちはつい、言葉という道具のもつ機能は単純明快かつ確実であって、それを使いこなす能力は誰にも共通していると思いがちです。私は実験物理学が専門ですが、科学論文を書く際には、誰が読んでも常に同じ解釈に至る、明確な表現をするべきだとの教育を受けてきましたし、学生にも正確に書くことと教えています。しかし言葉は、決して無色透明で公平中正な媒体ではありません。様々な記号の中でも、とくに自然言語は、意味の揺らぎを伴い、価値や感情を帯びています。つまりノイズが混ざっているのです。表現の失敗や解釈の誤りから、すれ違いが起きたりするのは日常茶飯事です。伝える側と受け取る側の文化の違いから、様々な障害や摩擦が生まれます。

これは本当に面倒なことです。言葉が数式のように、透明でノイズのない明快な「ツール」に徹していてくれたら、どんなに便利なことでしょう!ここで思い出しておきたいのは、言葉の使命が、情報の伝達だけではないという歴史的な事実です。今でも、映画の名シーンのセリフや、昔口ずさんだ歌の歌詞は、過去の思い出や感情を呼び起こすでしょう。言葉は単なる情報の運び屋である以上の役割を果たしているのです。

言語の多面的な役割を考えるとき、傳田光洋さんという研究者の仮説が面白い視点を与えてくれます。SF作家としても知られる傳田さんは、京都大学の大学院で化学工学を学ばれたのち、民間企業で皮膚の研究をされています。傳田さんの仮説は次のようなものです。

人類はおよそ120万年前に体毛を失ったのだそうで、これは人類の進化の歴史における、とても大きな変化でした。それは、衣服や家屋の発達をもたらし、生活の多方面に影響を与えました。そのなかで、最も大きな意味をもったのが、コミュニケーションの変化でした。

サルを観察すると、互いに「毛づくろい」をしている姿を、よく見かけます。研究によると、この「毛づくろい」は、サルに心地よさをもたらすだけでなく、集団としての社会性の維持や関係づくりに、重要な役割を担っているのだそうです。実は、人類も、体毛を失うまでは「毛づくろい」を通して、互いに快感を与え合うコミュニケーションをしていました。ところが体毛を失うことで、人類はその毛づくろいの機会を失ってしまいます。

そこで新たに活用されるようになったのが、皮膚でした。傳田さんの言い方を借りると、皮膚はとても「賢い」のです。狭い意味での触覚以外に、光のあたたかさや音の響きを感じることもできます。皮膚温の低下を通して、パートナーの気持ちが冷めたことを見抜く人もいます。皮膚は、私たちが外界と付き合うためのセンサーの役割を果たしてくれている、というのです。

注目したいのは、その機能が、人間が高度に発達させた新しい道具である言語に受け継がれたことです。人類は、進化のプロセスのなかで、言語を獲得しました。それは、約20万年前のことだったと言われています。つまり、コミュニケーションの道具が、体毛から皮膚へ、そして皮膚から言語へと移ってきたのです。言い換えると、言葉は本来、人間の生理的な身体性に直結しているのです。言葉は、毛づくろいや皮膚を通した触れあいと同じように、感情や価値観を巻き込んだ、曖昧で多様な交流を支えてきたのです。

毛づくろいにまで遡って人類のコミュニケーションを考えてみて思うのは、私たちが現在、「曖昧だ」、「邪魔だ」、「不必要だ」と見なしがちな複雑性こそが、むしろ言語の本質的な要素かもしれないということです。そうした働きを失ってしまうと、言語は言語たりえず、もっといえば、人間は人間たりえないのかもしれないのです。

言葉によるコミュニケーションは、単なる情報伝達の行為ではありません。メッセージをやり取りする前に、まずはアイコンタクトがあったり、挨拶があったり、無駄な独り言があったりします。声の調子や語り口は、微妙なニュアンスを伝えますし、沈黙にも複雑な働きがあります。情報の伝達以前に、私たちは、相手に興味をもち、その存在を認め、喜怒哀楽の感情を伴う交流をもつのです。そこには賛同や感動もありますが、ときには反発や不信から、もっとネガティブな感情さえ生まれることもあります。他者は愛すべき存在ともなりますが、ときには理解できない危険な存在でもあります。これらは、言葉を情報の伝達現象としてみるならば、余分なノイズかもしれません。しかし、こうしたノイズの部分こそが、感情の交流や文脈の共有といった基本的な信頼を組み立てるためには、実は、非常に大切なのです。

他者とのコミュニケーション、すなわち触れあいの出発点は、相手の身体的な存在に対する、無条件の尊敬respectであり、それこそが真の共感の原点ではないかと思います。他者はまず、身体をもち、生命を有する絶対的な存在感と共に立ちあらわれます。その身体性はリアルな物理空間に存在するもので、バーチャルなサイバー空間では見落とされがちです。「わたし」と「あなた」という、異なる身体があってはじめて、空間はリアルなものとなる。このような異物感を有する他者との出会いは、決して無駄なものでもなければ、なしですませたほうが良いものでもありません。それは、社会をつくり、動かしていくための、きわめて本質的な「準備」なのです。そして、そうした触れあいは、知の「共有」のみならず、知の「探究」においても重要な要素となるのです。

言葉は、曖昧で不完全な道具です。この道具の使用が、毛づくろいのイメージの触れあいに始まったのだとすれば、誤解の解消、葛藤の乗り越えといった、複雑なプロセスを含まざるをえないのです。同じように、「知」の共有における言葉の使用も、反論や誤解、無理解、衝突、葛藤といった、様々な障害と遭遇するのです。

皆さんも、これまでの大学生活のなかで、他者と理解を共有できずに戸惑ったことを、数限りなく体験したのではないでしょうか。共同研究者と意見があわない、先生にわかってもらえない。あるいは先生の言っていることがさっぱりわからない、勉強しても知識が身につかない、といったことです。そうした体験は、「あ、わかった!」とか「そういうことだったか!」といった、記憶に残る心地良い感動と違って、なかったことにして記憶から消されてしまうことも多いかもしれません。しかし、そこには、生々しい他者との出会いや、どうにもならない自分との向かいあいがあったはずです。実は、そうしたプロセスによってこそ、知の分厚い土台が形成されるのです。異論とのぶつかりあい、誤解や無理解などを通してこそ、共有されるべき知は磨かれ、輝くのです。

冒頭で申し上げたことにもどって、「多様性」と「包摂性」という両翼の重要性という話題に繫げてみたいと思います。

多様性を尊重し、それを活力として卓越性を追求する。この実現は、簡単なことではありません。異なる常識や価値観をそのまま受け入れれば良いというわけでもありません。それでは、洗脳による支配と大して変わらないからです。そうではなく、異なる価値観をもつ人と顔をつきあわせて語りあい、大きな譲歩や転換も恐れないことが必要なのです。たとえ必ず正しいと信じる考え方が自分にあったとしても、それを押しつけてはなりません。相手の考えと重ねあわせることができる理想のかたちを、真摯な対話によって共に探すのです。社会全体のバランスや、弱者や少数者への配慮を忘れずに、より良い「共生」を目指す態度こそが、「包摂性」の基礎です。そこに多様性を尊重する意義があるのです。

昨年のホームカミングデーにお招きした、養老孟司先生の言葉が印象的でした。情報技術における個人認証についての話題のなかで、「私とは何者かを識別するのは、私自身がもつ固有のノイズである」といったことを語られました。高度に複雑である有機的な統合体が、その本来の機能を発揮するには、その有機体が内包する多様な要素が連関している必要があります。それらは異物と見えるかもしれませんが、他者と関わりのなかで時に必要になるものなのです。結論を急ぐ立場からは、そのような多様性は、面倒なノイズに見えるかもしれません。けれどもそこには、個に固有の本質が書き込まれていて、それがさらに高度な多様性を生み出し支えるのです。その違いやズレを見落とさずに、ノイズを読み取るには、感性と想像力が必要です。その育成は、排外主義や自国第一主義が目立つ現代だからこそ、より重要になってきているのではないでしょうか。個の違いに対する鋭敏で豊かな感受性は「包摂性」を追求する上で、不可欠の前提なのです。

だからこそ、耳に逆らう異なる意見も、異質で多様な他者との遭遇も、これまで以上に大きな役割を果たす、と私は感じています。「知のプロフェッショナル」である皆さんには、言語が決して透明な道具ではないこと、知の作法が固定的で決まりきったものではないことを、いつも意識してほしいのです。そして言語がときに生み出す「ノイズ」を冷静に感知し、賢くしかも創造的に対応できるような感性を、さらに磨いていってください。これは、まだまだ人工知能にはできないことです。ノイズの中には、大発見に結びつく宝があるかもしれません。それを見分けられるような、いわば「ノイズのソムリエ」を目指してもらいたいのです。そして地球と人類社会の持続可能な発展に貢献してほしいのです。

今日、皆さんが巣立っていく東京大学での経験は、皆さんのこれからの何よりの財産となるでしょう。そして、今日お話ししたような「多様性 diversity」と「包摂性inclusiveness」という左右の翼を、力強く羽ばたかせることで、より大きな飛躍を果たしてくださることを、切に願っています。

これからの歩みのなかで、再び原点に立ち戻る必要を感じる時があるかもしれません。あるいは、本学で共に学び、研究をした仲間達と再び協力しあいたいと思うかもしれません。その時には是非、東京大学を活用して、新たな協創の輪に加わっていただきたいと思います。東京大学は常に、皆さんと共にあります。卒業は大学との別れではありません。新たな協働の始まりです。どうかこれからも、本学の成長に積極的に関わってくださいますよう、心からお願い申し上げ、お祝いの言葉を結びたいと思います。

本日は誠に、おめでとうございます。
 

令和2年3月23日
東京大学総長  五神 真

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