令和2年度 東京大学卒業式 総長告辞

令和2年度 東京大学卒業式 総長告辞

本日ここに学士の学位を取得し、卒業される皆さん、おめでとうございます。

特に新型コロナウイルス感染症の世界的蔓延という未曽有の事態に見舞われた中で、晴れてこの日を無事迎えられたことに、東京大学の教職員を代表して、心よりお祝い申し上げます。本年度は、10学部を合わせ、3,083名の方々が卒業されます。ここに至るまでの長い間、皆さんの学業と研究活動を支えてこられたご家族やご友人の方々のご支援に対して、深い感謝の意をお伝えしたいと思います。

卒業式は本学にとっても大切な行事であり、この安田講堂で皆さんやご家族の方々とともにお祝いしたいと願っておりました。しかし、残念ながら本年度も新型コロナウイルスの感染拡大を防止するために、このような形での卒業式になりました。本来の姿ではありませんが、様々な場所でライブ配信をご覧の方々とも心を合わせ、皆さんの卒業を祝いたいと思います。

私はこの3月末で6年にわたる総長の任期を終えます。皆さんは、私が総長として送り出す最後の卒業生となります。その最後の一年間、キャンパスでの活動が大きく制約される困難の中でしっかり学業に取り組まれたことに敬意を表します。このコロナ禍は、等しく世界中の大学を襲い、新たな経営の問題を浮上させました。私は今、世界の研究型大学11校の連合体IARU(国際研究型大学連合)の議長を務めていますが、そのメンバーの学長の方々との会話から、今回の事態が世界中の大学に並々ならぬ困難をもたらしていることを感じています。とりわけ20世紀の終わりに市場化の波が押し寄せた、欧米の大学では、経済的なダメージが深刻です。授業料や寮費の収入が途絶え、一方で感染対策の対応の必要や研究教育への投資が増大するなか、経営資金を調達できるかが、教育研究活動の未来を決しているのです。世界を席巻してきた、学生を顧客ととらえる市場原理に基づく大学経営モデルに大きな疑問符が打たれ、経営モデルの転換を必死に模索しているのです。そうした中で東京大学が主張してきた、グローバルな公共財としての大学、社会の変革を駆動する大学という高い目線で大学を新たな経営体とするという構想は、世界から新鮮な理念として受け止められ、輝きを放ち、評価されているのです。

本日は、こうした東京大学の学問の場としての歴史と未来について、お話ししたいと思います。我々が積み上げてきた学問の蓄積の歴史を知ることを通じて、より良い未来を選び、望ましい社会を作りだしてもらいたいと思うからです。

大学の研究教育力の国際的評価において、英語一元化が急速に進んでいます。世界大学ランキング等で最近順位を上げているアジアの大学なども含め、評価の高い大学には、もっぱら英語で研究教育を行っている所が少なくありません。もちろん、私たちも英語による発信力を高める努力を続けていますが、多様な学問分野において日本語による研究教育を基礎としている東京大学は、一見不利な立場に立たされているようにも見えます。しかし総長としての諸外国の方々との関わりを振り返ると、世界からの東京大学に対する尊敬や期待の根本にあるのは、ランキングの順位では現しきれないところにあると感じます。それは、各々の学問的課題について自らの生活言語である日本語で考え抜き、世界に通用する研究成果を挙げられるような学術の環境を作りあげてきたことにあります。

その努力の出発点を象徴するのが、東京大学の創立から4年後の1881(明治14)年に法学・理学・文学の三学部共同で刊行した『哲学字彙(てつがくじい)』です。英語やドイツ語の学術用語を、たとえば「惰性」「存在」「比率」などのように、複数の漢字を組み合わせた熟語に翻訳しています。幕末の蘭学に由来する言葉もありますが、明治初期に欧米の学知を取り入れる際に、日本語で表現し、自分たちの新しい言葉として使いこなし、消化吸収する努力が活発になされたのです。

しかしながら東京大学の設立当初はまだ、先進の欧米諸国から招いた外国人教師の、外国語による授業が中心でした。その頃の日本人教授の一人に、のちに総長になる山川健次郎がいます。会津藩に生まれ、戊辰戦争では白虎隊の隊士として、明治新政府と戦う立場にありました。白虎隊といえば飯森山の自刃の逸話が有名ですが、幼少組の山川健次郎は出陣とならず生き残りました。維新後に明治政府の派遣でアメリカに留学、イェール大学で学位をとって帰国しています。そして、本学最初の、物理学の日本人教授となったという異色の経歴です。その山川にとって、日本の学生が日本語で学問をする、というのは重要なことでした。総長として学生に伝えた訓示「学生諸君に告ぐ」において、当時列強による分割を繰り返されていたポーランドの例を引いて、「自國の学校で自國の言語を使用することさへ禁ぜられてある」情況の悲惨さを訴えています。私の専門も物理学ですが、基礎から最前線に至るまで日本語で書かれた教科書で学ぶことができました。最初に手にした量子力学の教科書は朝永振一郎先生によるもので、古典物理学からの導入が独特な名著です。この教科書は本学の小柴昌俊先生によって英訳されて海外で高く評価されています。現代物理学のもう一つの柱である統計力学も久保亮五先生の演習書が英語版になって世界で広く読まれています。物理学を学ぶ入り口において、基礎概念や数式の背後にある意味を自分なりに咀嚼することは容易ではありませんでした。その際に、「自国の言語」が使えたことは、今振り返ると、大変な幸運だったのだと思います。

もちろん、学問はたとえ日本語で展開されるとしても、ただ土着的で伝統的で閉鎖的なものではなく、世界との相互作用の中で鍛えられ、生みだされていくものです。そうした交流を体現するのが、現在の教養学部の前身である第一高等学校の校長を務めた新渡戸稲造です。カナダのブリティッシュコロンビア大学には新渡戸の名を冠した美しい日本庭園があります。その石碑には、「願わくはわれ太平洋の橋とならん」という有名な言葉が彫られています。私も両大学の交流事業で訪問し、日系カナダ人のサンタ=オノ学長とともに野球部の交流試合を観戦しました。その際、この庭園を案内してもらい、この言葉が東京大学への入学の面接で述べられた、新渡戸21歳の時の決意だと知りました。

新渡戸の名は、Bushido: The Soul of Japan という英文の書物とともに世界に知られています。これが書かれたきっかけは、ベルギーのある法律家との問答でした。日本の学校では、西洋のキリスト教のような宗教教育が行われない、という話を聴いたその法律家が、それでは道徳的・倫理的教育がどのように行われるのか、と訊ねました。それに対する新渡戸の答えは、「武士道」と理解されているものを通じて日本人は正不正(Right and Wrong)の観念を身につける、という説明でした。新渡戸の武士道は、西洋の思想・学問の枠組みに触れた日本の知性が、日本の「伝統」を西洋的な言語で再構成することで、新たに構築したものと言えるのです。この書物を一読すると、「太平洋の架け橋」たろうとする新渡戸が古今の西洋の事例を引照しながら、日本の人びとの倫理意識を整理し、新たな説明方法で探究した書物であることがよくわかります。説明の文脈においてプラトン、アリストテレス、ゲーテ、モムゼン、フィヒテ、バークレー、といった西洋の思想家・著述家の議論を縦横に組み替えて、新たな展望のもとに置く、という作業を行っているのです。この思想の橋渡しがあったからこそ、西洋人自身がそこから啓発を受けたのでしょう。この本を贈られたアメリカのセオドア=ルーズベルト大統領が深い感銘を受けたのは、まさに日露戦争中のことであり、講和の仲立ちの重要な契機ともなっています。

新渡戸稲造は第一次世界大戦後、日本も常任理事国として参画した国際連盟の事務次長に就任しますが、それもこの英文著作がもたらした国際的な名声が一因でした。新渡戸は 1922 年には、アインシュタインやキュリー夫人といったノーベル賞受賞者を主な委員として、知的活動の国際的保護と発展に取り組む知的協力国際委員会を創設します。これは現在のユネスコの前身にあたる機関でした。

このように当時の世界最先端の知識と、日本という地域社会独自の伝統や過去の理解との往復運動は、新渡戸が主導した「郷土会」の活動にも見られます。新渡戸は『農業本論』で、日本の農村について一郷一村の詳細な研究を行う「地方(ぢかた)学」を提唱しています。その文献目録には百数十編に及ぶ様々な言語で書かれた西洋の文献が引用されています。後に農政官僚として活躍し、日本民俗学という新しい学問を主唱する柳田國男も本書に影響を受け、新渡戸の私邸で開催された「郷土会」に参加します。その柳田はやがて新渡戸の依頼を受けて国際連盟常設委任統治委員会の委員に就任し、そこで大国による委任統治施策の下で犠牲となる住民の情況を見る中で、「常民(common people)」という概念等を鍛えていくのです。

こうした国際社会の発展に向けた活動の中で、地域の多様な住民の福祉とその固有の文化を発展させることが主題化され、日本独自の伝統・過去についての考察との往復運動が深められ、「ネイティブ人類学」という独自性をもつ柳田の学問が生みだされていくのです。このプロセスは、まさに新渡戸が願った「橋」づくりでもあったのです。

しかし、太平洋をつなぐ橋たらんとした新渡戸の努力にも拘わらず、日本はアメリカ合衆国との戦争に突入し、敗戦を通じて大きな試練に直面します。そのときに、敗戦に至る自国の歴史と伝統を省察しつつ、同時に世界的・普遍的な価値を生みだしうる、そのような日本文化を築こうと尽くしたリーダーがいます。旧制高校生の時期に新渡戸の教えに強く感化された南原繁です。南原は、終戦直後の時期に東京帝国大学総長を務めますが1946 年「新日本文化の創造」と題する講演で「個性を失った民族は滅亡」するとして日本の神話や伝統の意義に触れています。戦前・戦中に顕著だったような神話の「民族宗教的」な理解を超克し、その独自の伝統を世界的で普遍的な文化の基礎ととらえ直すことが可能であり、今こそ「国民は国民たると同時に世界市民として自らを形成し得る」と論じました。南原は、終戦直後に東京大学のキャンパスがGHQに接収されそうになったときに断固として抵抗しました。また第一高等学校を単なる前期の教養課程としてではなく、教養学部という固有性をもつ独立した一部局として東京大学に位置づけることにも尽力しました。南原は、平和文化国家として日本を再興するための戦後の大学改革の眼目として、大学教育が全ての人に開かれたものであるために各地に大学を設置したこと、そして、旧制時代に専門に偏り過ぎていたのを改め一般教養を取り入れたことの2つを上げています。これは現在の東京大学の礎となっています。

こうした南原の理想を実現する場としての新制大学、駒場の教養学部を組み込んだ東京大学の建設において活躍したのが、南原の後を継いで総長に就任した矢内原忠雄です。矢内原が、第一高等学校の学生時代に校長だった新渡戸に強い影響を受けたことはよく知られていますが、Bushidoの日本語訳を出版した人物でもあるのはおもしろいと思います。新渡戸の後継者として経済学部で教鞭をとりますが、日本が戦争に進む中、軍部に対する厳しい批判をしたことから1937年には大学からの辞職を余儀なくされます。戦後になって南原総長のもとで復帰し、かつての新渡戸校長のように、「人間教育」を通じて、忠君愛国の国家主義者ではなく、世界的な公共心をもつ、新たな時代の学生たちを育てようとしたのです。総長退任後には学生たちが抱えている悩みなど心の問題に対処するために、新設の東京大学教育学部を巻き込んで学生問題研究所をつくるといった活動もされました。

最初に言いましたように、非西洋文化に根差す学問の伝統を保持しながら、同時に、長く西洋が主導してきた世界的な学問の議論の最先端に参画できているのは、世界的にも稀有なことです。こうした東京大学の独自の資産を基礎に、人類共通の課題に取り組む貢献を積極的に進めるために昨年8月に設立されたのが、東京大学のグローバル・コモンズ・センターです。

今私たちが暮らす地球は完新世に続く地質時代、「人新世」、に入っていると言われます。産業革命以降拡大してきた人間の活動が地球環境に大きな負荷をかけ、近年それが急速に進行しています。そして人類共通の財産である地球環境が危機にさらされているのです。そうした認識から、この共通財産としてのコモンズの責任ある管理のための体制を作る、という人類全体にとって重要な課題に取り組む学術拠点として、このセンターは設立されました。「コモンズ」という言葉には、常に「悲劇」という観念がついて回ります。「人類共通の財産である」ことは同時に、「自分の財産として所有する者がいない」ことを意味します。誰も自分のものとして大切にせず、結果として自分勝手にやりたい放題、ついには共有の場自体が荒れ果ててしまうか失われてしまう、というのがこの「コモンズの悲劇」の筋書きです。地球温暖化は着実に進行しており、コモンズは悲劇に向かって加速していることは確かなのです。

グローバルなコモンズとして守られるべきは自然環境に限られません。人間が作った都市や建物にも及び、文化芸術さらにはサイバー空間も含みます。こうした多様なコモンズの枯渇や荒廃の「悲劇」を回避するために、新しい科学や技術が不可欠です。しかし、望ましい方向性はどちらなのか、制度はどうあるべきか、現実的な調整は可能なのかなど、どれも高度に知的な問題なのです。いまだ誰も絶対の正解には到達していないこの問題の解決を、人文学的理解、社会科学的知見、自然科学的な知識、実装するための高度なエンジニアリングを駆使して、世界の最高峰の知性とともに追究する、その中で東京大学にしかできない独自の貢献をするという野心的な挑戦です。こんなに重要で、尚且つ刺戟的な、知的活動は滅多にないのではないでしょうか。

私は、総長に就任した際に、高度に知的で公共的な問題に大学が経営体として取り組み、大学を起点とする社会変革を駆動するために実際に行動するという目標を東京大学ビジョン2020として掲げました。その可能性を確かめ、追究するための大きな取り組みとして昨年発行した東京大学FSI債があります。FSIはFuture Society Initiativeの頭文字で、未来社会協創を指す言葉ですが、この大学債は現在の資金不足を解消するための資金調達ではなく、まさしく未来の、まずはその償還期限である40年後の大学を見据えて、大学と社会に変革をもたらすために積極的に今なすべき戦略的な投資を行うための資金として位置づけています。

学問研究の時間スケールは多様です。かつて東京帝国大学農科大学で教え、公園の父とも呼ばれる本多静六は、1915年に明治神宮の森の造成を手掛けます。当時の大隈重信首相は、日光東照宮や伊勢神宮のように明治神宮もおごそかな杉林にするよう要請しました。しかし、本多は首相に対し、保水力に乏しい都市近郊の土壌の性質を踏まえた科学的考察をもとに、150年先の植生まで見通し、杉ではなく、段階的にカシ、シイ、クスなどの常緑広葉樹を中心とする天然林を目指すべきだと主張し説得しました。その結果作られたのが、樹木の多様性と持続可能性を有する現在の豊かな神宮の森なのです。

樹木のように150年先ではありませんが、40年という期間は、研究者の卵が大学において研究を始め、それを定年まで続けるライフサイクルとほぼ一致します。現役世代が責任を持って行動し、それを次の世代に伝え、債券の償還時において大学が社会的にさらに高く評価されているプロセスを創るのに十分な期間でしょう。大学債で得た資金は本学における研究の多様性を維持し、卓越性を高めるため、いわば未来における学問の豊かな森を作り上げるために、投資したいと考えています。幸いにしてこのFSI債は、発行予定額200億円に対し6倍を超す1260億円の注文を集め、大きな社会的注目を浴びました。東京大学への社会の大きな期待・信頼を反映したものと言ってよいと思いますが、このような期待・信頼を世界的に支えるものは今日その一端をお話ししたような、東京大学という場において培われ積み重ねられてきた実績であり、価値創造への献身なのです。

私の総長としての6年間の活動の理念を、簡潔にあらわすために「究知協創」という四字熟語をつくりました。事物の理を究めて知恵を深め、その共有を基盤に多様な人びとと力をあわせ、共感のもとでより良い社会を創っていくという意味です。皆さんにも加わっていただきたいと思います。卒業生として大学から遠ざかるのではなく、新たなコモンズとなる東京大学の一員として、今後人類共通の課題に対して積極的に発信する「知のプロフェッショナル」の仲間として、皆さんとともに歩んでいきたい、というのが私の願いであり、東京大学の未来への、確かな道筋を示すものだと確信しています。

本日は卒業おめでとうございます。

令和3年3月18日
東京大学総長  五神 真

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