令和4年度東京大学学部入学式 教養学部長式辞

令和4年度東京大学学部入学式 教養学部長式辞

東京大学に入学されたみなさん、ご入学おめでとうございます。みなさんをこれまで支えてこられたご家族のみなさま、ご関係のみなさまにもお祝いを申し上げます。教養学部の教員と職員を代表し、みなさんを教養学部にお迎えできることを喜ばしく思います。

わたし自身のことですが、わたしは文化人類学という学術分野を専門としています。文化人類学というのは、自分が慣れ親しんできた文化とは異なる文化を、その全体性において理解しようとする学問です。そのために文化人類学者は、異文化のただなかに飛び込み、生活当事者たちと生活をともにしながら、その人々の言語や思考様式や行動様式を学びます。彼ら彼女らが自分や世界をどう意味づけているのか、そしてどう価値づけているのかに肉迫しようとします。これが現地調査、すなわちフィールドワークと呼ばれる営みです。

この学術分野が「文化人類学」と呼ばれているのはどうしてなのでしょうか。今も述べたように、この学問は確かに「文化」について研究する学問ですから、名前に「文化」が付いているのは理解できるでしょう。けれども「人類」のほうはどうでしょうか。「文化人類学」は、英語でCultural Anthropologyといいます。つまりAnthropology、まさしく「人類の学」であるわけです。この学問区分と学問名称は、主としてアメリカ合衆国において確立したものですが、それが第2次世界大戦後の1949年、新制東京大学の発足と同時に設置された教養学部に導入されたのでした。

「文化人類学」が「文化」と同時に「人類」を謳うのは、個々別々の「文化」を理解することを重要な目標としながらも、それを「人類」という枠組みに位置づけようとする志向性をもっているからにほかなりません。さまざまな個別の「文化」のあり方を探究することは、「人類」というものの文化的な多様性を示すことにつながるでしょう。個別の「文化」を理解しようとするのは大切ですが、そうした個別研究を積み重ねることで、「人類」が包摂している多種多様な「文化」のバラエティの豊かさを示すことができます。その一方で、そうした多種多様な「文化」を相互に比較して探究を深めることにより、「人類」というものがもつ文化的な統一性、あるいは文化的な普遍性が示されることにもなるのではないでしょうか。「文化」は相互に違っていても、そこに何らかの共通の基盤がある。そうであるからこそ、「文化」の違いがあるからといって、相互の理解が完全に不可能となるわけではないのです。相互の対話が完全に不可能となるわけではないのです。わたしたちは異文化を理解し、異文化と対話することができるのです。

ですからみなさんには、「文化」の多様性と同時に、その多様性の基盤にある「人類」というものに思いを馳せていただきたい。もちろん、「人類」はある生物学的な存在としてこの地球上に生まれました。そもそも地球が誕生したのが、今からおよそ46億年前のことだといわれています。その地球に生命が誕生したのが、およそ40億年前のことです。それから生命は進化を遂げ、多様化し、複雑化してきました。700万年ほども前には、ヒトの祖先とチンパンジーの祖先とが分岐する地点にいたります。40億年の生命の歴史から見れば、じつに最近のことです。もっと後の時代の20万年から10万年ほども前には、わたしたちがそうであるところのいわゆる現生人類(これをホモ・サピエンス・サピエンスといいますが)の祖先が地上に登場します。さらに、およそ1万年前には、新石器革命と呼ばれる技術革新とともに、人類が農耕や牧畜に従事しはじめ、生産経済の道が開かれるようになります。産業革命が起こって、わたしたちの生活に激変が訪れるのは、たかだか200年ほども前のことにすぎません。

こうして時代をたどってみると、人類とその内部での文化的な多様性というものを一つの展望のもとに把握することができます。そのような展望をもつことが、現代ほど必要とされている時代はありません。気候変動にしろ環境破壊にしろ、そしてわたしたちが現在直面している新型コロナウイルス感染症にしろ、これらは「人類」に対して突きつけられた課題ではないでしょうか。単一の国家や国民や、あるいはある特定の文化だけで、これらに対応することはできないのではないでしょうか。さらに、気候や環境や感染症など、自然の脅威にさらされるだけが「人類」ではありません。そこには人為的に引き起こされた脅威もあります。今この時点でますます緊迫化しているウクライナ情勢はどうでしょうか。これは人為的な政治情勢・軍事情勢・社会情勢ではないでしょうか。しかしそれにしても、ウクライナとロシアという二国間の関係だけに還元できるものではないのです。その背景にはさまざまな歴史的なアクターが関与しており、そしてまたその解決には「人類」の英知が必要とされているのです。ここではまさしく「人類」が試練に立たされているのです。

人類を一つの展望のもとに把握することの必要性は、しかしながら、そのような展望を我がものとすることの難しさと表裏一体です。先ほどたどった時代を逆にたどってみましょう。今からおよそ200年というスケールで見れば産業革命があらわれ、ここ 1 万年というスケールで見ると農耕や牧畜が視野に入る。ここ10万年から20万年というスケールでは、ホモ・サピエンス・サピエンスの祖先の登場にゆきあう。さらに、ここ 700 万年というスケールで、ヒトの祖先とチンパンジーの祖先とが分岐する地点にいたる。

200年、1万年、20万年、700万年。こうした時間のスケールは、そのそれぞれを構想することにおいて想像力を要求します。それぞれのスケールの上でわたしたち人類という存在を構想することもそうです。さらに、今現在のみなさん一人ひとりが、みずからの存在をそうした多様な時間のスケールの上に位置づけることには、いっそうの想像力が必要となるはずです。たとえば、現在におけるわたしたちを、200年のスケールにあらわれる人類と関連づけること。現在におけるわたしたちを、1万年なり20万年なり700万年なりのスケールにあらわれる人類と関連づけること。わたしたちの一人ひとりが個人の生をそうしたさまざまなスケールに位置づけてみること。逆に時間のスケールを未来へと投げかけ、あるべきわたしたち人類の姿を描こうとすること。こうしたことにはさらなる想像力の働きが不可欠です。

フランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、かつて次のように述べました。「世界は人間なしにはじまった。そして世界は人間なしに終わるだろう」。

このことばを、人類にとってのペシミズムととるか、それとも世界にとってのオプティミズムととるかは、受け止める人の価値観によります。けれども、「人類」を意識化することの重要性を、このことばは物語っています。さらに考えるべきなのは次のことです。先ほど逆にたどった時代をさらに遡ってみましょう。今から700万年ほども遡れば、ヒトの祖先とチンパンジーの祖先とが分岐する地点にいたりました。その先はどうだったでしょうか。今からおよそ40億年を遡ることによって、生命がこの地球上に誕生した地点にいたるのではなかったでしょうか。つまり、ここ40億年というスケールで見ることによって、生命が地球に誕生した地点が視野に入るのです。そうすれば、自己複製と微細な突然変異によって遺伝子が連鎖を紡ぐ40億年のプロセス上の一存在としてわたしたち人類が姿をあらわすことでしょう。みなさんの一人ひとりも、そうした40億年規模の生命のプロセスの途上にあるのです。だから、「世界が人間なしにはじまった」としても、その世界にあらわれた生命には人間へと連なるプロセスが孕まれていたのです。「世界が人間なしに終わる」としても、そこに生命が存在するかぎりにおいて、そこには人間から連なるプロセスも孕まれているのです。このように、さまざまな時間的なスケールを思い描くことで、そしてまた、それらのスケールにおける人類を含めた存在の連鎖を思い描くことで、想像力が試され、想像力が刺激されるさまを、是非とも楽しんでください。

わたしは教養学部前期課程をしばしば「迷宮」になぞらえます。教養学部はみなさんを「迷わせる」、ただしポジティブな意味で「迷わせる」ところだからです。みなさんは、たとえ漠然としたものであっても、何らかの関心に導かれて、本学に入学されました。けれどもみなさんは、教養学部においてそれ以外の多様な関心領域と出会うことになるはずです。当初の関心がそれによって相対化され、別の領域への関心が強くなることもあるでしょう。つまり「迷う」ことになるわけです。

みなさんが現時点でおもちの学術的な関心を、それが漠たるものであろうと明確化されたものであろうと相対化させること。自分が関心とする分野以外にも、文理にわたって広大な学術領域のいわば「沃野」があるというのを知ること。そして、その知の「沃野」のなかに自分の関心を位置づけてみること。さらにはそれによって、みずからの関心をいわばみずからの外側に立って見つめてみること。このような経験は、自己に単純に充足せずに、自己を外部に開き、自己を他者との関係において位置づける力の涵養に通じます。ですから、みなさんが教養学部で身につけるのは、全人的な意義をもった力であるのです。

この意味で「迷う」ことを恐れてはいけません。そこにおいては、みずからが当然視していた関心事や前提が根底から覆されるような経験がもたらされる場合もあるでしょう。自分という、ある意味でみなさんにとって完成の途上にあるものを積極的に他者にさらすことで、自己を安易な固定化に導かず、他者とのかかわりのなかで「揺らぎ」を感じさせること。これが「迷わせる」ということのポジティブな意義にほかなりません。

そのためには、自分や自分の関心のうちにのみ閉じこもるのでなく、他者の存在と他者の営みに対する想像力が不可欠です。ここでもまた、必要なのは想像力を羽ばたかせることなのです。前期課程での学びを通じて、さまざまなかたちでの想像力の作用を、それがみなさんにもたらすものを、どうか開拓し、楽しんでください。

ただし、「迷いっぱなし」では後期課程の進学先を決めることすらできないでしょう。教養学部前期課程では、みなさんを「迷わせる」とともに、その関心を改めて一つの方向に定められるようなカリキュラム上の工夫が講じられています。みなさんから見れば、「迷う」経験を経たからこそ、改めて定められる関心領域というものがあるはずです。「迷う」ことは、自分の「発見」や「再発見」に結ばれたものなのです。万が一にも「迷いっぱなし」になりそうになったら、そのときこそ「迷わず」、学生の話しを聞き、相談に乗り、アドバイスを施す学内組織を活用してください。駒場学生相談所や進学情報センターは、そのようなサポート体制を整えてみなさんを受け入れてくれます

教養学部前期課程でのみなさんの学びが、そして課外活動を含めたキャンパス生活が、実り豊かであることを祈念して、教養学部長としての式辞といたします。

令和4年4月12日
東京大学教養学部長
森山 工

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