隈研吾 オノマトペ建築
僕の設計事務所でどんなふうに打合せをするんですかと、よく聞かれる。わけのわからない観念論や禅問答にならないことを、まず心掛ける。説教も絶対しない。設計事務所の打合せというのは、上司の部下に対する、意味のない説教、レベルの低い建築本質論が大半の時間を占める。その無駄を避けるために、僕の事務所で心掛けているのは、まず小さめのテーブルの真ん中に、いくつかのオプションの模型を置くこと。模型が目の前にあるだけで、途端に話が具体的になり、説教や観念論が抑制される。オプションがいくつかあることも、議論が煮つまることを遠ざけてくれる。その小さなテーブルに座れるくらいの、5-6人が丁度よいサイズで、それをはみ出した人数は、脇に立っている方が、距離感が近くなっていい。全員が立ったままで打合せすることも多い。設計事務所の人数は、5の倍数がふさわしいと、建築家槇文彦さんはかつて語っていた。5人から始めて、次は10、15というふうに、5人を単位として、効率的に議論しろという意味であった。
そこでどんな会話が交わされているかというと、「パラパラが足りない」とか、「ギザギザが強すぎる」とか、「ツンツンしすぎてる」といった感じで、オノマトペが占める割合が極めて多いのである。
建築関連の過去の書籍や論文を眺めてみても、建築を記述するためにオノマトペが使われているケースはほとんどない。「透明感がある」とか「軽やかである」とか、「分節がはっきりしている」という言葉は頻繫に用いられるが、同じ透明感がある場合でも、パラパラとした透明感とか、フワフワとした透明感とかいろいろあって、透明というだけでは、全然踏み込んだデザイン論にならないのである。
それだけ建築における質感が大事にされはじめてきたといってもいいわけであるが、従来のヴォキャブラリーの範囲だと、「質感があるね」と「質感がないね」の二つぐらいしかなくて、ほとんど何も言ったことにならないのである。だから僕らの事務所では、幼稚園生の会話のようだという批判を恐れずに、オノマトペを連発しているのである。
オノマトペは世界の言語の中で存在するが、特に日本語はオノマトペが豊かであると指摘される。日本の建築が、世界の建築界の中でも独特のポジションを獲得していることと、日本語の中でのオノマトペの豊かさは、関係があると僕はにらんでいる。
(紹介文執筆者: 工学系研究科 教授 隈 研吾 / 2020)
本の目次
さらさら
ぐるぐる
ぱたぱた
ぎざぎざ
ざらざら
つんつん
すけすけ
もじゃもじゃ
ぺらぺら
ふわふわ