令和3年度 東京大学卒業式 総長告辞

令和3年度 東京大学卒業式 総長告辞

本日ここに学士の学位を取得し、卒業されるみなさん、おめでとうございます。東京大学の教職員を代表して、心よりお祝いを申し上げます。みなさんをこれまで励まし支えてくださったご家族の方々にも、お祝いと感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。

本日、学位記を手にされ、研究に悩んだ日々や、仲間と交わした言葉など、思い出されていることでしょう。とりわけ、この2年間は、新型コロナウイルス感染症への対応に苦慮しながら、大学生活、研究を進めることになりました。その厳しい道のりを乗り越えてきたことに対してもお祝いを申し上げたいと思います。

本日もまた新型コロナウイルス感染症対策のため、この安田講堂に全員が集まることはできませんでしたが、オンラインでつながっているみなさんと心をひとつに、卒業を祝いたいと思います。

さて、みなさんのなかには、普段ついつい、歩きスマホをしてしまう人も、おられるのではないでしょうか。

なぜ、歩きスマホをしていると、しばしば人とぶつかりそうになるのか。その人が前をよく見ていないことが原因だと、誰もが考えるでしょう。しかし、すこし視点を変えてみると、歩きスマホは、その行為をしている当人だけでなく、周りの歩行者にも、じつは大きな影響を及ぼしていることがわかってきます。

本学・先端科学技術研究センターの西成活裕教授とフェリシャーニ・クラウディオ(Claudio Feliciani)特任准教授は「歩行者が他の歩行者と衝突する理由」について研究していますが、この研究は2021年のイグ・ノーベル賞を受賞して、話題にもなりました。西成教授たちは、歩行者の集団の先頭の3人にスマートフォンを持たせて、計算問題を解きながら歩かせました。すると、歩きスマホをしている3人だけでなく、じつは集団全体の歩行速度が低下し、さらには集団の動きに乱れが生じることを発見しました。つまり、歩きスマホという行動が当人だけではなく、周りを歩く人びとの振る舞いにも影響を与えうる、ということが示されたのです。

ご存じのように「イグ・ノーベル賞」はノーベル賞のパロディで、「人々を笑わせ、考えさせた業績」に贈られるものですが、西成教授たちの研究の「問い」とその成果は、普段ついつい歩きスマホをしてしまう私たちも含め、都市を忙しく行き交う、世界中の「歩行者」にとって、普遍的な価値ある気づきを与えてくれるものではないかと思います。

さて、それでは「歩きスマホ」という「歩き方」はいつ生まれたのでしょうか。これはスマートフォンという新しいガジェットがもたらした、いわば新しい「文化」であろうと思います。2007年1月に発表されたiPhoneをスマートフォンの原点だとすれば、わずかな年月でこの技術が世界中に浸透し、大きな利便性とともに、メールチェックやSNSに夢中になったがゆえの衝突・転倒・交通事故などの社会問題をもたらすことになったわけです。

私たちの毎日の生活は、テクノロジーの発達にともなって、ごく身近なところから否応なしに変わっていきます。その変化は、必ずしも予想した通りのものとは限りません。例えばこのパンデミックのなかで注目された「メッセンジャーRNA」ワクチンのように、日々起きるできごととの偶然の重なり合いによって、思わぬタイミングでひとつのテクノロジーに光があたり、社会に浸透することがあります。その一方で、当初は想定されていなかった問題を引き起こすこともあります。近年、現代的な病理と指摘されるようになった「ネット依存」も、テクノロジーの急速な発達と普及に、私たち自身が対応できずに生まれてきた、新たな社会問題でしょう。そうした意味では、テクノロジーがもたらす未来は、ポジティブにもネガティブにもなりうるのです。

今日の私たちの生活に浸透している技術、すなわちテクノロジーの代表的なものといえば、産業の現場だけでなく家庭での暮らしにも応用されつつあるロボット、そしてAIでしょう。「ロボット」という言葉は、チェコの作家カレル・チャペック(Karel Čapek)が1920年に発表した戯曲のタイトル「ロボット RUR」に由来しています。ずいぶん昔のことになりますが、私自身、六本木の俳優座劇場での上演を見た記憶があります。もともと私が所属していた本学の生産技術研究所がまだ六本木にあったころのことです。

科学的空想(SF)、すなわちScience Fictionとして描かれた想像の世界が、作品発表から約100年が経過し、徐々に現実になりつつあります。作品の冒頭、ロボットがタイプライターを打ったり、人間と会話をしたりするシーンがありますが、機械による口述筆記や会話は、現代の音声認識システムの発展により実現しています。ディープ・ニューラル・ネットワークとその応用の進展が、第3次AIブームと呼ばれる動きを加速していることはご存じの通りです。

技術の進展が、よりよい生活を営みたいという人間の欲求に端を発していることは言うまでもありません。チャペックの戯曲でも、ロボット工場の取締役ドミンは、ロボットを製造することで人間を労働の苦役から解放したい、と述べています。さらに、そうした欲求を掘り下げていくと、未来への好奇心ともいうべきものに行き当たります。

昨年、他界された立花隆さんは、幅広い分野で活躍されたジャーナリストですが、1996年に本学の駒場キャンパスでも講義をされています。その際、「人間を進化の相で捉えること」[『サピエンスの未来』講談社現代新書、2021年]を提唱し、時間的に大きなスパンであらゆる物事を捉える大切さを主張しています。未来に向かう好奇心の連鎖は、さまざまな研究者が創りあげる協働関係によっても進化していきます。これは単にさまざまな分野の研究者が協働するという同時代的な面だけではありません。もう一方で、長い時間をかけ、世代を跨いで受け継がれていく好奇心の連鎖にも注目すべきでしょう。

テクノロジーの普及・浸透が、技術そのものの力だけではなく、それを受容する社会の状況に大きく左右されることも重要な論点です。コロナ禍で、誰もが知るようになったリモート会議システムは、1990年代以降、技術的にはすでに可能となっていましたが、必ずしも普及はしていませんでした。それが2020年のパンデミック以降、世界中で注目され、みなさんもリモートでの授業を経験することになったわけです。同時にこのようなリモート環境の構築は、移動が困難な、ハンディキャップを持っている方々から歓迎された一方、なぜ、これまで導入されなかったのかという疑問の声もあがりました。これは、技術の問題というより、そのテクノロジーを活用する社会と人間の側の問題であると言ってよいでしょう。

今日、ロボット掃除機、スマートスピーカーなどAIを搭載した機器を使うことが私たちの生活の一風景になってきていますが、その一方で、テクノロジーの未来に対する不安もしばしば聞かれます。自分の職業がAIに奪われてしまうのではないか、日常生活がすべて監視されてしまうのではないか、はては人間は不要な存在になってしまうのではないかという声も耳にします。しかし、人間の未来はポジティブにもネガティブにも変えうるもので、それを決めていくのは私たちだということを忘れてはなりません。

はるか昔のギリシア神話に暗示的な逸話が記されています。プロメテウスという神は天上にあった火を寒さに苦しむ人間に与えたことで、ゼウスによってカウカソス山に鎖でつながれ、毎日、鷲に肝臓をついばまれることになります。この「火」は技術の象徴とも捉えられ、人間に幸せをもたらすだけでなく、争いや災いを生じさせます。つまり、プロメテウスの悲劇は、自分の行動が及ぼす悪影響に思いが至らなかったことへの罰として解釈され、自分が生みだしたものが、後にどのような影響をあたえるか、といった視点なくしては、良かれと思った行ないそれ自体によって未来永劫苦しむことになるという警告になっているのです。

もちろん、現代の科学者たちも、こうしたテクノロジーがもたらす問題への警告を無視してきたわけではありません。

1975年、アメリカ合衆国で開催された、通称「アシロマ会議」は、遺伝子組み換え技術の社会的影響を科学者自身が検討した会議として知られています。この会議では、当時、実現の可能性が見えてきた新技術について、そのガイドラインを作成しました。主催者の一人が、当時、遺伝子組み換えを牽引していたアメリカの生化学者ポール・バーグ(Paul Berg)であったように、科学者が進行形で取り組んでいる研究が将来的にもたらす可能性を検討したものでした。重大で不可逆的な影響を及ぼすかもしれない危険性に対して、科学者みずからが検討した「予防原則」の事例である、といえるでしょう。

今、ヨーロッパを中心に「責任ある研究とイノベーション」(Responsible Research and Innovation)が議論されています。さまざまな方面からの問いかけに、責任をもって応答することが研究者にも求められています。ただ、こうした問いかけと応答は科学者のコミュニティ内に限られたものではありません。私たち一人一人の日常にも深く関わる問題だからです。

すでに身近な問題となった生殖補助医療について考えてみましょう。1978年に世界で最初の体外受精による子どもが生まれてから44年たった現在、日本では出生児のおよそ15人に一人が生殖補助医療により生まれています。

生殖補助医療は、英語ではAssisted Reproductive Technology(ART)といい、まさに人工的に生殖をAssistする「技術」です。本来女性の体内で起こる受精を体外で成立させ、子どもの誕生に至るまでの過程が可能となって以来、さまざまな改良が加えられ、進歩してきました。その後、この方法で誕生した女性たちがごく普通に出産する事例も数多く知られるようになり、最初に子どもを誕生させることに成功したロバート・G・エドワーズ博士(Robert G. Edwards)は、その業績により2010年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

私自身も2000年代後半には、受精卵を良好な環境で培養するためのデバイスを開発する研究を行ったことがあります。ヒトへの応用も視野にいれつつ、基礎的な検討はマウスで、また家畜改良センターとの共同研究により、ウシの受精卵を使った実験などを行ったこともあります。このように生殖補助技術は医学、生命科学、工学そして畜産学などを含めた幅広い研究分野において進展し、ヒトだけでなくウシやブタの生殖においても利用されています。

さて、生殖の過程にさまざまな形で人の手を加えることができるようになると、その影響は単なる不妊治療にはとどまらない側面をもつようになります。卵子や精子の提供、あるいは代理出産という形で夫婦以外の第三者が関わる生殖技術の発達で、より多くの不妊原因が克服できるようになったと同時に、そうした医療を受けられる範囲も拡大します。実際、同性カップルや独身女性が生殖補助医療を受けて子をもつことができる国もあります。つまり生殖補助医療によって家族のあり方にも、かつては想定されなかったような選択肢が生みだされたわけです。

一方で、生まれた子が遺伝的なつながりのある親を知る権利や、身体的負担の大きい卵子提供あるいは代理出産の是非など、倫理に関わる課題が明らかになってきました。こうした課題にどのように取り組むかの議論も不十分なままに、受精卵の遺伝子を調べ、どの受精卵を子宮に移植するかを決めてしまう選別や、任意の遺伝子を改編した受精卵をつくることさえ技術的には可能になりつつあります。さらに、倫理規制の緩い国で先駆的な、つまり実験的な要素を含む生殖補助医療が実際に行われやすいという、いわゆる倫理ダンピング(Ethics Dumping)という問題も指摘されています。

社会全般に目を広げれば、テクノロジーを使う、つまり、ある技術を享受することには費用が伴います。デジタル機器を入手するときだけでなく、生殖補助医療を利用する際にも経済的なコストが生じ、それが負担できるかどうかで、先進的な技術を享受できる人とそうでない人の差を生みだしかねないのです。今日で言えば、新型コロナウイルス感染症のワクチン接種率の地域間格差の問題にも通じています。技術の利用を望みつつも経済的な理由で、その恩恵から排除されてしまう人たちを、どのように包摂するかという視点も忘れてはならないでしょう。

これまで触れてきた技術革新の出発点にあるのは、過度な労働を減らしたい、子どもが欲しいといった人間の欲求です。人間は欲求に突き動かされて、それを充足させるために、資源を消費し、新たなものを創りだしてきました。いま新たに、地球温暖化や、プラスチック等々の分解しにくい人工物質の増大、生物多様性の喪失など、人間が地球環境に及ぼす影響の大きさに注目して、「人新世」という新しい地質年代が提案されています。

近現代社会の発展の背後にあるのは、人間を尺度とする、いわゆる人間中心主義という意味でのヒューマニズムであり、これがさまざまな知の在り方を決定づけてきました。理不尽な差別や抑圧を批判する人権思想などは、まさにその大事な結実のひとつです。2月の終わりに突然起こった理不尽な軍事侵攻は、誰もが望んでいなかった破壊や悲劇、あたりまえの日常生活の喪失が広範に、また強引に引き起こされてしまう、世界秩序の脆さをあらわにしました。厳しい対立状況のなかでも対話や交流の実践が果たす役割の大切さを改めて見つめ直し、大学が学術の実践を通じて、こうした非常時が強いるさまざまな不幸からの脱却に、いかに貢献できるか。そして、東京大学は、いま困難のなかにある学生や家族や研究者や関係者のみなさんをいかに支援できるか。そうした問題もまた、まさに切実なものとして浮かびあがってきています。

長期的な視点にたてば、今後、重要となっていくのが、近代社会が確立してきた人権の普遍的な価値を、いわばポストヒューマニズムへと拡張していく視点でしょう。これは、人間以外の存在をも踏まえて、問題を探求する姿勢であり、端的に言えば、人間、サピエンスの立場を相対化するものです。その発想は、動物の権利を多角的に検討するアニマル・スタディーズ、または地球を主体として気候変動を考える視点にもつながるでしょう。さらには、戦争が破壊してしまう環境や自然の大切さや、生命のさまざまな営みの価値に、思いをいたすこととも結びついていきます。

繰り返しになりますが、こうした議論は、その分野の研究者の狭いコミュニティのなかだけでなされるべきものではありません。産み出された科学技術は、われわれ自身の生き方にさまざまな影響をもたらします。だからこそ、アカデミア、行政、市民といった立場の垣根を超え、さまざまな知を結集し、さまざまな声に謙虚に耳を傾け、「対話」を継続していくことがより一層求められていくでしょう。

本日、みなさんは卒業式という節目を迎えました。ですが、大学を卒業することで学びは終わるわけではありません。まだ解決されていない課題は多くあり、みなさんはこれからも数々の未知なる問いに出会うことでしょう。大学を卒業して社会に出る方、そして大学院に進学される方いずれも、そうした問いについてともに考え続けてくれることを願っています。

卒業、誠におめでとうございます。

令和4年3月25日
東京大学総長  藤井 輝夫

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