平成31年度東京大学大学院入学式 人文社会系研究科長式辞

平成31年度東京大学大学院入学式 人文社会系研究科長式辞

東京大学大学院に入学、進学された皆さん、本日は誠におめでとうございます。今日のこの門出のよき日を迎え、ご列席のご家族の皆さま、関係者の皆さまもさぞお喜びのことと存じます。心よりお祝い申し上げます。皆さんと同様に、30数年前本学大学院の門を潜り、期待と不安を胸に研究者への道を歩み始めた者として、これからお祝いと励ましの言葉を申し述べたいと思います。

私が研究の対象としているのは、古代中国の言葉と文字です。簡単に言ってしまえば漢文と漢字の歴史なのですが、甲骨文字に代表される出土文字資料はともかく、皆さんの中にはなぜこのようなものに今日的な研究価値があるのか、ピンとこない方もいらっしゃるかもしれません。例えば司馬遷の『史記』は、中国の枠を超えた人類の古典として世界中で読み継がれ、夥しい量の注釈や翻訳が作られてきました。あらかたのことは分かっており、残りは落穂拾いのようなものではないかと。しかしそうではありません。私には、『史記』の言葉はまだほとんど何も分かっていないのです。

『史記』は優れた歴史書であり文学です。揺れ動く時代に自らの生死と命運をかけて生き抜き、あるいは翻弄され滅んでいった人々の生きざまが、作者の冷徹な視線と、時に矛盾を孕んだ複雑な感情を通してドラマティックに描き出されます。私は高校生の時に翻訳で読んだ『史記』にたちまち魅了されました。優れた作品は原文で読みたいと思うのが世の常です。しかしいわゆる「漢文」ではなく、古代中国語としての原文に向き合った私が直面したのは、何も分からないという現実でした。なぜ、どのような必然性があって、どのような感情をもって、司馬遷はこのように表現したのか、作者にはどのような世界が目に映っていたのか、言葉と言葉が表現する世界認識との対応関係が全く分かっていないことに気づいたのです。私だけではなく、敢えて誤解を恐れずに言えば、誰にも分かっていない。これに気づいたことが、私が自らの研究を進めていく上での大きな力になりました。

人文学では、一つの大きな発見によって自分の学術的な地位が確立されることはどちらかというと希なことに属するでしょう。若いころは目の前にある個別の関心に従って研究を進め、業績を重ねて行くにつれて、個別の研究成果の背後にあるより大きなシステムや原理が目に入るようになってきます。何事も一概に言いにくいところが人文学の特徴でもあるのですが、少なくとも私はそのように歩んできました。

今にして思えば、私にとって一つの節目となったのは、2001年にカナダのブリティッシュ・コロンビア大学で開かれた第4回古代中国語文法国際シンポジウムでの発表でした。私が取り上げたのは上古中国語のいわゆる「無標の受動文」です。日本語でも英語でも現代中国語でも、受動文は通常特別な文法形式を使って表現されます。しかし上古中国語には何も文法形式を伴わない奇妙な受動文が存在すると考えられていました。私は、この奇妙ないわゆる受動形式が、能格動詞と呼ばれる動詞にのみ見られるもので、受動とは無関係であるという趣旨の発表を行いました。実はこのような考え方は、今から40年ほど前にアメリカのシコスキーという研究者が発表していたのですが、論証方法に問題を抱えていたために厳しい批判を受け、その後ほとんど注目されていなかったのです。私の発表はシコスキーを参照しつつもゼロベースで論証を積み上げたものでしたが、動詞分類の基本的枠組みに関する当時の常識に反するものであり、その場で学界の権威と目されている研究者から面罵に近い批判を浴せられました。私にとって堪えたのは、権威からの批判よりも、直後に別の研究者から便乗するような形で批判を受けたことです。嵩に懸かって攻め立てるような口調に何とも言えない気分になり、反論しようにも言葉が出なくなりました。しかし数年が経ち、当時その場に居合わせた指導教授から勧められて、私の論文を暗唱するほど読み込んだという中国の若い研究者に出会いました。上古中国語における「能格動詞」というカテゴリも、今ではごく普通に議論されるようになりました。

学問や学説にも流行りがあります。主流の学説に乗って論を進めると、批判のリスクは減らせるかもしれません。流れに乗るのは楽なことです。しかしそれでは本当の意味での学力は身に付きません。ブレイクスルーも生まれません。たとえ一般に受け入れられている考え方であったとしても、絶えず自分の目でその拠り所を検証し、納得できなければ受け入れない勇気が必要です。乗るか乗らないかは自分の学問的良心に依り、責任を以て判断する、それが「知のプロフェッショナル」としての矜持ではないでしょうか。これは学問だけではなく、世の中の全てについて言えることだと私は思います。

さて私は、古代中国語の研究者として、皆さんに知っていただきたいことがあります。それは、人の心を「忖度」することが、人間と言語にとっていかに本質的な意味を持つかということです。私たちは会話をするとき、話題にする対象について、相手がどのような知識や認識を持っているかを常に推し量り、それによって相応しい表現を探しています。一例を挙げるなら、定冠詞を使うか不定冠詞を使うかは、聞き手がその存在を既に認識しているか否かを、話し手がどう判断するかに左右されます。古代中国語に冠詞はありませんが、相手の認識に対する話し手の判断によって表現は変化します。このような判断基準は、必ずしも会話が行われる文脈上に存在するとは限りません。相手に対する知識にはそれまでに積み重ねられた経験が含まれているからです。会話自体は現在この場で行われているとしても、選択される言語表現には話し手と聞き手の歴史が反映されているのです。これを場に応じて適切に再構成する手段が「忖度」に他なりません。古代中国語を話す人はこの世にもはや存在しません。古代人の心を忖度しても、正しいかどうか確かめようがありません。そのような中で言葉の研究がいかに困難であることかを想像すれば、私が最初に「何も分かっていない」と言った意味をお分かりいただけるのではないかと思います。「忖度」という言葉は『詩経』という中国古代の詩集の中に出てきます。「他人に心有り。予之を忖度す。」詩の原文の中では、徳を具えた聖人君子がよからぬ人の心を見破るという文脈で使われています。そのような言葉が、近年特定のバイアスがかかった文脈で使われることがむしろ普通になったのは、とても残念でなりません。漢文の素養が必ずしも一般的でなくなった現在、二千数百年以上使われてきた素晴らしい言葉も、いとも簡単に汚されてしまいます。

私の研究分野は、大きくは人文学に属しますが、人文学には他の分野とは些か異なる形で時間が取り込まれていると思います。司馬遷の『史記』が完成してから二千百年以上になりますが、現代の私たちを虜にしてやみません。同時代のお墓から当時の医学書が出土することがあります。医学的な研究もおこなわれているとはいえ、そのまま現代の臨床治療に用いることはあり得ないでしょう。社会は変わります。人の知識や感覚もそれにつれて変化します。それでも古典が時代を超えて読み継がれる背景には、人間の普遍性や文化の持続性が横たわっています。決して今だけが特殊な訳ではありません。人は常に未曽有の事態に直面してきたのです。過去を振り返ることは、今を相対化するだけでなく、未来からの訪れのために扉を開いておくことに繋がります。私たちは過去から未来へとつながる今を生きる一人の人間です。人の人たる所以を問うことは、人文学の特権ではありません。機械が以前にも増して人に近づきつつある現在、それは現代に生きる私たちすべてにとって、より切実な問いかけとして突き付けられています。文系・理系を問わず、それぞれの立場から自らの課題として向き合う意識こそが、私たち人類の健全な未来を切り開く力になるのではないでしょうか。

皆さんを待ち受けている未来は、決して明るいものばかりではありません。壁にぶつかり、無理解に苦しみ、希望を失いそうになることもあるでしょう。しかし東京大学には、そのような道のりを歩みながら今日を築き上げてきた教員・研究者が大勢います。困難を乗り越えるのは皆さん自身ですが、そのための手がかりを示してくれるはずです。皆さんひとりひとりが知の営為に携わる職業人として独り立ちして行く日が訪れることを祈りつつ、私の挨拶を締めくくりたいと思います。
 

平成31年4月12日
大学院人文社会系研究科長
大西 克也

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