令和7年度東京大学学部入学式 総長式辞


令和7年度東京大学学部入学式 総長式辞
新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。本日ここにみなさんがおられるのは、これまでの努力と、ご家族や学校の先生など周りの多くの方々からの支えがあってのことだと思います。東京大学の教職員を代表して、心よりお祝いを申し上げます。これから大学という場において、みなさんが新しい多様な学びや経験を積み重ね、東京大学の学生として未来の可能性を切り拓いていくことを大いに期待しています。
さて、日本の社会には、読み書きができない人はほとんどいないだろうと思っている方が多いのではないでしょうか。日本は中学校までが義務教育で、高校も授業料の無償化や就学支援金の支給で多くの人が進学でき、世界のなかでも教育水準の高い国として知られています。
しかし、2020 年の国勢調査によれば、15歳以上の未就学者は約 9 万 4 千人、小学校しか卒業していない方が約 80 万 4 千人、合わせて約 90 万人もの方々が義務教育を修了していません。そのうち、日本国籍の人が7割近くを占めています。さらに、この数値に含まれていない不登校の長期欠席児童など、中学校の卒業証書は得たけれども実質的な基礎学習は保障されてこなかった「形式卒業者」が数十万人から百万人以上いると推計されています。そのことを考えれば、日常生活や経済活動に最低限必要な読み書きに困難を抱えているひとが無視できない数で存在しているといえます。
リテラシーはもともと文字の読み書き能力を意味しましたが、いまではネットリテラシーやヘルスリテラシーなど、ある特定の主題分野で知識を活用する力として使われています。私たちの生活には、さまざまな知識や能力が必要です。今日はこれからの大学生活に必要なリテラシーについて、お話ししたいと思います。
いま私たちが身につけるべきリテラシーとは、どんな能力なのでしょうか。
たとえば、マイノリティ・リテラシーです。この30年でヒト・モノ・カネの世界的な流動性がいちじるしく高まり、全国各地で教育を受けたり働いたりする外国人が多くなりました。あるいは、みなさんの中にも、海外留学を考えている方がいるかもしれません。観光や旅行ではなく、修学または仕事のため外国で一定期間生活するようになると、日本でマジョリティとして暮らしていた時には感じることがなかったさまざまな不便を経験するでしょう。グローバル化と多様性の時代においては、誰もがマイノリティになりうるという現実に向きあう必要があります。
私自身もスイスのヌシャテルという人口3 万人程度の小さな街で暮らしたことがあります。研究仲間10人くらいでランチに行くと、同じ国や地域から来ているひとは一人もおらず、みんなが「マイノリティ」でした。街ではフランス語が話されていましたが、研究の現場では英語が共通言語でした。でも英語がネイティブのひとは誰もいないという状況で、私自身は生活言語のフランス語を英語で教えてもらったり、知っていると思っていた日本の歴史や文化をうまく説明できないことに気づいたりという、多文化・多言語の環境の貴重な経験をしました。
日本社会でも、すでに多文化・多言語の環境が生まれているということを気づかせてくれる興味深い絵本があります。『オリーブかあさんのフィリピン民話』という、この絵本の民話の語り手は、フィリピン国籍の女性です。深刻な「嫁不足」に悩んだ山形県が1980年代後半に自治体主導で展開した国際結婚の「外国人花嫁」として来日しました。農村の深刻な社会問題の解決を目指して試みられた政策は、いまではもう忘れ去られているかもしれません。しかし、この絵本はその地域で生まれた現実を、静かに証言しています。
描かれているのは、日本に来て母となった女性が、日本国籍の我が子に語る、ふるさとのフィリピン民話です。なぜ、その絵本が山形弁で書かれ、そこに標準語のルビが振られているのか。そこに外国人花嫁が経験した現実があります。この女性が学んだ日本語は、夫の母親たちの世代が語る純粋な方言で、村の生活に懸命に適応しようとした証でしたが、多くの女性たちがさまざまな理由から離婚します。村ではフィリピンの言葉で子どもに話しかけることが禁じられていました。この絵本の作者もまた、夫や子どもと別れて、配偶者ビザ更新の不安を抱え、家族の写真を壁に貼って一人暮らす状況になります。山形弁で語られた故郷の物語は、会うことができない子どもに向けた語りでもあったのです。まさに、この一冊のなかに、グローバルな要素とローカルな要素がからみあっています。
この絵本はまた、日本で暮らす多くの外国人が抱える困難の一つに、日本語習得の問題があることを示唆しています。とりわけ、中国や韓国など他の漢字文化圏とは異なり、日本語では漢字に音訓があり、その読み方が一つではないため、習得に難しさを感じるひとが多いと言われています。この困難は、外国人に限らず、冒頭で話した義務教育の未修了者にも共通するものでしょう。東京大学の入学試験を突破してきたみなさんは、あまり感じたことがないかもしれませんが、この問題はグローバル化のひとつの内なる壁ともなっています。
さきほど話題にした絵本にもあらわれる、「ルビ」の文化は、漢字熟語を学習する貴重な機会でもありました。読み方が判れば、辞書を引くことができます。そして昔の本や新聞には、じつはかなり丁寧にルビが振られていました。いまは子ども向けのごく限られた本にしか、ふりがなを付けないのが当たり前になっています。その意味で、2023年に設立された一般財団法人ルビ財団の取り組みは注目できます。「社会にふりがな(ルビ)を適切に増やすことであらゆる人が学びやすく、多文化が共生する社会づくりを目指す」としているからです。リテラシーの獲得には、これまで当然に思っていた社会規範や通念に対する再検討も必要となります。
創造的な地球市民に求められるリテラシーは、語学能力や異文化理解、国際標準への対応だけではありません。みなさんにも、自分の出身国や地域に根差したローカルな視点と、マイノリティの経験や文化を承認し受けとめる姿勢を身につけていただきたいと私は考えています。
現代社会に必要なリテラシーとは何かを考えるうえで、AI とどう向きあうかも、たいへん重要でしょう。
2022年に発表された OpenAI による対話型の「ChatGPT」は、全世界から高い関心を集めました。専門知識やスキルがなくても、ユーザーがチャット形式で指示を出すだけでテキストや画像、映像などの多様なアウトプットが簡単に得られます。その点で多くの人びとの興味を一気に惹きつけました。
みなさんもすでにさまざまな場面で この生成AI を活用していると思います。文章やプログラムや仮想映像が簡単に作れて、私たちの生活に大いに役立っています。その一方で、AI が生成する応答には、事実に基づいていない情報や偏った断定が含まれる可能性があることを忘れてはなりません。それゆえ、私たちは生成AI の提示する情報や提案に対し、自らの視点や専門知識から検討する力を身につける必要があります。正確かどうか以外にも、プライバシーの保護や、バイアスへの対処、ディープフェイクの技術を悪用した偽の画像の氾濫など、倫理的に避けて通れない課題も抱えているからです。
生成AI をめぐるテクノロジーはさらなる進展が予想される一方、まだまだ発展途上だとも言えます。たいへんな物知りで探し上手だけれども、検証が必要な間違いや偏った知識を教えるかもしれないすこし偏屈な「対話」の相手として捉え、つきあっていくことが大切です。問いの質を高め、批判的思考を持ちつづけることで、これまでとは違う視点から新たな基準や構造を創り上げていく力も求められます。
望むと望まざるとにかかわらず、これからの時代、私たちはAIとともに生活していくことになるでしょう。AIが運転する乗り物で移動し、AIと会話しながら仕事を進め、AIを搭載したロボットや家電製品が家事をこなしてくれる、という日常はすぐそこまで来ているかもしれません。創造的な地球市民としての批判的思考と、他者に対するより深い理解や配慮に基づく、新たなリテラシーを育むことが求められます。これは、どのような学問分野の学びにおいても欠かすことのできない視点であり、またそれぞれの分野において新たな領域を拓くことにもつながるものです。ぜひそれぞれに考えてみていただきたいと思います。
「マイノリティ」や「AI」をめぐる話題は、獲得すべきリテラシーの例示にすぎません。これから始まる東京大学での生活は、新しい知識だけでなく、新しい視点や人びととのつながりをみなさん一人ひとりにもたらしてくれるでしょう。大学生活を通じて、学びはもちろん、困難に立ち向かう力や誰かを支える心を育んでください。
ご入学、おめでとうございます。
令和7年4月11日
東京大学総長
藤井 輝夫
関連リンク
- カテゴリナビ