令和7年度東京大学大学院入学式 総長式辞


令和7年度東京大学大学院入学式 総長式辞
新入生のみなさん、大学院入学おめでとうございます。東京大学の教職員を代表して、心よりお祝い申し上げます。みなさんは東京大学の大学院で、専門知識を基盤に、自ら問いをたて、答えを見いだしていくこと、さらにその成果を世界に向けて発信する活動にたずさわることになります。
そこで問われるのが独創性、すなわち、模倣に終わらない、自分独自のものがあらわれているかどうかです。独創的なものを生みだすためには「自己」の確立が必要だとよくいわれます。しかし「自己を確立する」とはどういうことでしょうか。
本日は、この問いをみなさんとともに考えてみたいと思います。
まず、私たちの身体のメカニズムにおいて、「自己」とはなにかを考えてみましょう。身体的に「自己」を定義するシステムとして免疫系があることは、よく知られています。みなさんは免疫と聞くと、たとえばCOVID-19やインフルエンザの病原となるウイルスを「自己ならざるもの」として識別し排除する仕組みを思い浮かべるでしょう。そのメカニズムを利用した予防の技術がワクチンです。ワクチンは、免疫系に病原体の情報をあらかじめ学習させることで、実際に感染した際に迅速に対応することを可能にします。本学の薬学系研究科で学んだ古市泰宏博士は、メッセンジャーRNAの先端のキャップ構造がタンパク質の翻訳に必須であることを世界に先駆けて発見しました。この発見は新型コロナウイルスワクチンの開発にも応用されました。
たしかに、ウイルスや細菌などの微生物は、病気を起こす「敵」であると長らく考えられてきました。しかしながら、実際にはどこまでも敵でしかないような有害な微生物は極めてまれです。逆に、ヒトの消化管や皮膚にはさまざまな微生物からなるコミュニティが存在し、ヒトと共生関係を結んでいます。これらの微生物がもつ多様な遺伝子とその働きが、私たちの生命と健康を支えていることが明らかになってきています。むしろ、共存している微生物のコミュニティとの関係が損なわれると、自己免疫疾患やアレルギー、肥満、癌などいろいろな疾患の発症リスクが高まることがわかってきました。
つまり免疫系は、微生物を「自己ならざるもの」として排除しているのではなく、むしろ「自己」を構成する一部として受け入れてもいるのです。このような共存の仕組みを、心が広く他人に寛大であることになぞらえて「寛容」といいます。自分の身体や胎児を攻撃することを防ぎ、食物に対してアレルギーを起こさないことも、この「寛容」の仕組みによっています。
「寛容」のメカニズムについて、現代医学でのとらえ方は進化しました。
かつては、「自己」を定義する中枢が存在し、免疫細胞が反応すべきか否かを一元的に管理し、集権的に動かしていると考えられていました。しかし、この半世紀にわたる研究から、「自己」はそのような、いわば「独裁者」として存在しているのではないことが明確になります。つまり、それぞれの免疫細胞が相手を認識しながら、積極的に相互作用し、その場に応じて適切な関係を築くことで、免疫系全体としてどのように反応するかを複合的に決めていることがわかってきたのです。別な言い方をすると、免疫現象においてあらわれる「自己」は一定不変の「存在」ではなく、「現象」であり「働きかけ」であり「プロセス」であるということになります。つまり他者と向かいあい、対話を重ねることよって「自己」が発展し、変容しながら形成されるダイナミクスが存在することを、身体の免疫系の研究は教えているのです。
このように生体が有する分散的で柔軟かつダイナミックな振る舞いを工学に取り入れようとする概念として、1980年代後半から「自律分散システム」が提唱されます。全体を制御する中枢をもたず、複数の独立した要素、エージェントが自律的に動作し、他の要素と相互作用することで全体として秩序ある振る舞いを生成するシステムのことです。日本独自の発想による研究として、1990年からプロジェクト化され、広く国内の研究者が参加して、生体に学び、そこから理論を導きだし、システムを工学的に構築するための方法論を見いだそうとしました。たとえば免疫系が多様な「他者」に対して、柔軟にかつ分散的に対応できる性質に着目して、ニールス・イェルネ(Niels Kaj Jerne)が提唱した「免疫ネットワーク」モデルを用いてロボットの制御やセンサネットワークの構築を手がける研究なども行われます。私自身も当時、自律分散型ロボットシステムの研究に取り組みました。
この「自律分散システム」の考え方を、システムの機能設計の方法論へと発展させようとする試みとして、1990年代半ばごろには「創発システム」という考え方が提唱されます。自律分散システムを構成する要素群の相互作用のみならず、それによって生ずる局所的だけでない大域的な秩序に着目して、新しい現象や機能を生みだそうとするものです。
免疫系はまさにこの二つのシステム概念をそなえる典型例だといってよいでしょう。多種多様な細胞が自律的で分散的に振る舞いながら、協調的あるいは競合的に相互作用することで、新たな「自己」が形成されます。そのシステム全体に、病原体を識別して排除する秩序があらわれます。
では、新たな「自己」の創発にとって必要になる条件とはどのようなものでしょうか。一つには、システムを構成しているそれぞれの要素に多様性があることです。そして、もう一つは他者との対話をどうデザインしていくかという問題であり、対話の双方向性です。
すこし視点を変えて、微生物のほうから「自己」の問題を考えてみましょう。
いま薬剤に対して耐性をもつ病原菌の蔓延が、世界的に解決すべき大きな課題となっています。しかしこれは病原菌の側からみれば、新たな「自己」の創発です。われわれ人類は、20世紀前半に抗生物質であるペニシリンを発見して以来、さまざまな抗菌薬を開発してきました。一方で、微生物の側も薬剤耐性を進化させ、抵抗力を生みだしてきました。
この進化を可能にしたのが、集団としての微生物のなかにもともと存在している多様性です。抗菌薬という選択圧に対して耐性をもつ菌だけが生き残り、次世代を生みだして蔓延したのです。この例は、システムのなかに多様性が存在することが、環境変化に対して適応するために必須であることを示す良い例です。人間に置きかえて考えても、一人ひとりのなかに多様性が存在していること、さまざまな視点や経験を幅広くもつことが、生き延びていくために大切だといえるかもしれません。
他方で、薬剤耐性菌が繁栄してしまった大きな要因として、抗菌薬という選択圧を一律かつ一方向的にかけつづけたことも見落としてはなりません。病気の原因となる微生物の特質を探究して細かくコントロールするような標的型薬剤の開発よりも、無差別に作用する抗生物質を一律に用いつづけた結果として、耐性菌への進化が促進されたからです。いいかえれば、一方向的な作用によって、つまり対話を通じて学ぶ姿勢の欠如によって、耐性菌という敵対的な他者が生みだされてしまったわけです。
このような免疫系における「自己」や「寛容」や「対話」の問題は、物質的な身体のレベルを超えて、人間の心や人びとが集まる社会といった異なる水準にも一般化して考えることができるでしょう。
ランディ・シルツ(Randy Shilts)というジャーナリストがエイズ流行の最中、1980年代に書いたAnd the Band Played On: Politics, People, and the AIDS Epidemic というルポルタージュがあります。この作品では、エイズという新たな侵入者に対し、政治家も、官僚も、風俗産業経営者も、輸血・血液製剤業界も、医療関係者も、解放運動家も、宗教者も、多くが無関係であろうとし、現実を直視せず、自分たちだけを納得させる説明に閉じこもり、率直に話しあおうともしなかった。その実態と原因とが、多面的に論じられています。つまり、アメリカ社会それ自体の「免疫不全」の状況が描かれているともいえるでしょう。
対話は、事実をありのままに観察し、そこにあらわれた問題を共有するところから始まります。そして、さまざまな意見の違いをその背景にまでさかのぼって理解し、ともに目指す理想がどこにあるのかを探っていく努力こそが、地球規模課題の解決には必要なのではないでしょうか。
最初に論じた「自己」の確立、あるいは独創性の追求という話題に戻って考えてみたいと思います。
これまで見てきたように、「自己」とは他者との交流や対話のなかから創発される現象でありプロセスです。みなさんは、大学院の研究室での観測や実験や解読や調査などの研究活動を通して、素材となる研究対象と対話を重ねるでしょう。あるいは社会とのつながりのなかで、多様な人びとと出会うでしょう。それは、みなさんの可能性を拡げてくれるチャンスです。このような他者との出会いにくわえて、がんばっていた過去の自分や、望ましい未来の自分という、自分のなかのもう一人の他者と真摯に対話することは、独創性の追求への糸口となるでしょう。
出会いは一期一会であるからこそ、知覚(perception)と働きかけ(action)の精度を高めることが、独創性の追求において大切です。「多様な他者」という抽象的な理解にとどまらず、出会うひとそれぞれの個性と向かいあってください。ここから始まる大学院の生活で、これまで知らなかったひとやものと対話する過程が、独自の「創発システム」として新しい「自己」を生みだし、みなさん自身が驚き、そしておもしろく感じ、楽しく思えるような未来を拓いていくでしょう。みなさん一人ひとりの探究のプロセスが、ユニークで、ダイナミックで、歓びに満ちたものとなることを心から願っています。
あらためて、大学院入学おめでとうございます。
令和7年4月11日
東京大学総長 藤井 輝夫
関連リンク
- カテゴリナビ